島
新美南吉
おーい見えたと マストから、梟みたいに よんでゐる。 そーら島だと ケビンから 羽蟻みたいに かけてでる。 ほーう小さいと 円窓に望遠鏡が つきでゝる。 ボーウ、ボーウと サイレンが 出船みたいに なつてゐる。 帽子や旗を ふつてゐる。 おーい敬礼して行けと マストやデツキで 失敬した。 ●図書カード
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新美南吉
おーい見えたと マストから、梟みたいに よんでゐる。 そーら島だと ケビンから 羽蟻みたいに かけてでる。 ほーう小さいと 円窓に望遠鏡が つきでゝる。 ボーウ、ボーウと サイレンが 出船みたいに なつてゐる。 帽子や旗を ふつてゐる。 おーい敬礼して行けと マストやデツキで 失敬した。 ●図書カード
片山広子
アラン島 片山廣子 雨ばかり多い春であつたが、今日は珍らしくよく晴れて空気も寒いくらゐ澄んでゐる。南むきの硝子戸のそとのコンクリに配給のイモを出して乾した。かなり沢山の、五貫目くらゐもあらうか、イモたちの顔も天日に乾されることを喜んでゐるらしくみえた。これだけあれば相当ながく食べられると思ふ満足感が、イモたちが喜んでゐるやうな錯覚とつながつてゐるのかもしれな
折口春洋
(東京都品川区大井出石町五〇五二 折口信夫先生(はがき)千葉県木更津郵便局気付 膽七八三八部隊玉井隊 藤井春洋)やつと第一報の機会を得ましたが、近況申しあげる訣にもまゐりません。たゞ健やかにゐることのみをお喜び願ひます。すつかり冴えきつた月星の空に向つて、この頃しきりに大森の様子が回想されることです。こちらは、永原鉦斎翁の志を継いでと思つても、たゞ名に負ふの
坂口安吾
島原一揆異聞 坂口安吾 (上) 島原の乱に就て、幕府方の文献はかなり多く残つてゐる。島原藩士北川重喜の「原城紀事」は最も有名であり、この外に城攻めの上使松平伊豆守の子甲斐守輝綱の「島原天草日記」を始め諸藩に記録が残つてゐるが、いづれも城攻めの側の記録であつて、一揆側の記録といふものはない。 尤も、一揆三万七千余人すべてが殺されて、有馬、有家、口之津、加津佐、
坂口安吾
島原の乱雑記 坂口安吾 一 三万七千人 島原の乱で三万七千の農民が死んだ。三万四千は戦死し、生き残つた三千名の女と子供が、落城の翌日から三日間にわたつて斬首された。みんな喜んで死んだ。喜んで死ぬとは異様であるが、討伐の上使、松平伊豆守の息子、甲斐守輝綱(当時十八歳)の日記に、さう書いてあるのである。「剰至童女之輩喜死蒙斬罪是非平生人心之所致所以浸々彼宗門也」
岡本綺堂
島原の夢 岡本綺堂 『戯場訓蒙図彙』や『東都歳事記』や、さてはもろもろの浮世絵にみる江戸の歌舞伎の世界は、たといそれがいかばかり懐かしいものであっても、所詮は遠い昔の夢の夢であって、それに引かれ寄ろうとするにはあまりに縁が遠い。何かの架け橋がなければ渡ってゆかれないような気がする。その架け橋は三十年ほど前から殆ど断えたといってもいい位に、朽ちながら残っていた
田山花袋
あゝ焼けたな――ある日の朝、Bは新聞を見ながら思はずかう独語した。本町と言へば、たしかにあの宿屋のあたりだが、その記事では、もつと此方の税務所や郡役所が焼けて、もう少しでその前にある大きな門と前庭とを持つた旧式な二階建の建物に火が移らうとしたのを、やつとのことで消し留めたといふことが書いてあつた。では、好い塩梅にあの宿屋は焼けずにすんだかも知れないな同時にあ
中勘助
これは芙蓉の花の形をしてるという湖のそのひとつの花びらのなかにある住む人もない小島である。この山国の湖には夏がすぎてからはほとんど日として嵐の吹かぬことがない。そうしてすこしの遮るものもない島はそのうえに鬱蒼と生い繁った大木、それらの根に培うべく湖のなかに蟠ったこの島さえがよくも根こぎにされないと思うほど無惨に風にもまれる。ただ思うさま吹きつくした南風が北に
田山花袋
KとBとは並んで歩きながら、 『向うから見たのとは、感じがまた丸で違ふね?』 『本当だね……』 『第一、こんな大きな、いろいろなもののあるところとは思はなかつた。医者もあれば、湯屋もある。畠もある。野菜だツて決して少い方ではない。立派な別天地だ……。こゝなら配流の身になつても好いね?』 『一月ぐらゐ好いね……』 『いや、僕はもつと長くつても好い。一年ぐらゐか
小川未明
南方の暖かな島でありました。そこには冬といっても、名ばかりで、いつも花が咲き乱れていました。 ある早春の、黄昏のことでありました。一人の旅人は、道を急いでいました。このあたりは、はじめてとみえて、右を見たり、左を見たりして、自分のゆく村を探していたのであります。 この旅人は、ここにくるまでには、長い道を歩きました。また、船にも乗らなければなりませんでした。遠
斎藤茂吉
島木赤彦臨終記 斎藤茂吉 一 大正十五年三月十八日の朝、東京から行つた藤沢古実君が、蔭山房に赤彦君を見舞つた筈である。ついで摂津西宮を立つた中村憲吉君が、翌十九日の午ちかくに到著した筈である。廿日夜、土屋文明君が東京を立つた。 翌廿一日の午過ぎに、百穂画伯、岩波茂雄さんと僕とが新宿駅を立つた。たまたま上京した結城哀草果君も同道した。少しおくれて東京から高田浪
中谷宇吉郎
昭和十九年の暮に、岩波文庫の一冊として『島津斉彬言行録』が出版された。これには牧野伸顕伯の序文がついている。 当時既に日本は断末魔の境にあり、この本なども、ぼろぼろの藁半紙のような紙に印刷されているまことに粗末な本であるが、これは私にとっては、大切な本の一つである。 牧野伯とは、思わぬ機縁で、今度の戦争の初め頃から、時々御目にかかっていた。ある晩、牧野伯が、
宮沢賢治
島わにあらき潮騒を うつつの森のなかに聴き 羊歯の葉しげき下蔭に 青き椿の実をとりぬ 南の風のくるほしく 波のいぶきを吹き来れば 百千鳥 すだきわぶる 三原の山に燃ゆる火の なかばは雲に鎖されぬ ●図書カード
久生十蘭
天保八年十二月の末、大手前にほど近い桜田門外で、笑うに耐えた忍傷沙汰があった。盛岡二十万石、南部信濃守利済の御先手物頭、田中久太夫という士が、節季払いの駕籠訴訟にきた手代の無礼を怒って、摺箔の竹光で斬りつけたという一件である。 奥州南部領は、元禄以来、たびたび凶荒に見舞われ、天明三年の大飢饉には、収穫皆無で種方もなく、三十万の領民の四分の一以上が餓死するなど
田中貢太郎
崔書生 田中貢太郎 崔は長安の永楽里という処に住んでいた。博陵の生れで渭南に別荘を持っていた。貞元年中のこと、清明の時分、渭南の別荘へ帰って往ったが、ある日、昭応という処まで往くと陽が暮れてしまった。 崔は驚いて馬をいそがした。そこは松や柏の茂った林の下で、まだ空の方は明るかったが、林の中はうっすらと暮れていた。と、見ると、すぐむこうの方に一人の綺麗に着飾っ
梶井基次郎
ある蒸し暑い夏の宵のことであった。山ノ手の町のとあるカフェで二人の青年が話をしていた。話の様子では彼らは別に友達というのではなさそうであった。銀座などとちがって、狭い山ノ手のカフェでは、孤独な客が他所のテーブルを眺めたりしながら時を費すことはそう自由ではない。そんな不自由さが――そして狭さから来る親しさが、彼らを互いに近づけることが多い。彼らもどうやらそうし
嘉村礒多
崖の下 嘉村礒多 二月の中旬、圭一郎と千登世とは、それは思ひもそめぬ些細な突發的な出來事から、間借してゐる森川町新坂上の煎餅屋の二階を、どうしても見棄てねばならぬ羽目に陷つた。が、裏の物干臺の上に枝を張つてゐる隣家の庭の木蓮の堅い蕾は稍色づきかけても、彼等の落着く家とては容易に見つかりさうもなかつた。 圭一郎が遠い西の端のY縣の田舍に妻と未だほんにいたいけな
豊島与志雄
さほど高くない崖の下に、池がありました。不規則な形の池で、広さは七十坪あまり、浅いところが多く、最も深いところでも人の胸ほどでした。 崖から少し湧き水があるので、自然に池の水が替わり、下手からちょろちょろ流れ出ていました。その生きた水は、表面をすくい取れば澄んでおり、深みを覗けば薄く濁っていました。 この池、昔は、子供たちの遊び場所でした。それから、ちょっと
ホワイトフレッド・M
いかにして証券取引所を恐慌に落とし、帝国の命運を二日間撹乱させたか 一九〇六年、平和な時代が順調に始まったようで、当然、特徴は活発な商業・経済活動になる。世界的投機の激しさといったら、どの時代もかなわず、南海泡沫事件の狂乱時代や、鉄道王のハドソンが活躍した時代すらも及ばない。 英国銀行に積みあがった数兆ポンドは利率二・五パーセント、惜しげもなく引き出され、新
林芙美子
崩浪亭主人 林芙美子 砂風の吹く、うそ寒い日である。ホームを驛員が水を撒いてゐる。硝子のない、待合室の外側の壁に凭れて、磯部隆吉はぼんやりと電車や汽車の出入りを眺めてゐた。 靴のさきが痛い。何だか冷たいものでも降つてきさうな空あひで、ホームの中央に吊りさがつてゐる電氣時計は、四時を一寸廻つて、四圍はもう昏さをたゞよはせて、如何にもあわたゞしい。若いうちは、中
海野十三
崩れる鬼影 海野十三 月光下の箱根山 それは大変月のいい夜のことでした。 七月の声は聞いても、此所は山深い箱根のことです。夜に入ると鎗の穂先のように冷い風が、どこからともなく流れてきます。 「兄さん。今夜のようだと、夏みたいな気がしないですネ」 「ウン」兄は真黒い山の上に昇った月から眼を離そうともせず返事をしました。 兄はなにか考えごとを始めているように見え
島崎藤村
嵐 島崎藤村 子供らは古い時計のかかった茶の間に集まって、そこにある柱のそばへ各自の背丈を比べに行った。次郎の背の高くなったのにも驚く。家じゅうで、いちばん高い、あの子の頭はもう一寸四分ぐらいで鴨居にまで届きそうに見える。毎年の暮れに、郷里のほうから年取りに上京して、その時だけ私たちと一緒になる太郎よりも、次郎のほうが背はずっと高くなった。 茶の間の柱のそば
寺田寅彦
始めてこの浜へ来たのは春も山吹の花が垣根に散る夕であった。浜へ汽船が着いても宿引きの人は来ぬ。独り荷物をかついで魚臭い漁師町を通り抜け、教わった通り防波堤に沿うて二町ばかりの宿の裏門を、やっとくぐった時、朧の門脇に捨てた貝殻に、この山吹が乱れていた。翌朝見ると、山吹の垣の後ろは桑畑で、中に木蓮が二、三株美しく咲いていた。それも散って葉が茂って夏が来た。 宿は
小川未明
父さんは海へ、母さんは山へ、秋日和の麗わしい日に働きに出掛けて、後には今年八歳になる女の子が留守居をしていました。 もとより貧しい家で、山の麓の小高い所に建っている一軒家で、三毛猫のまりと遊んで父さんや、母さんの帰るのを楽しみに遊んでいました。見渡す限り畑や圃は黄金色に色づいて、家の裏表に植っている柿や、栗の樹の葉は黄色になって、ひらひらと秋風に揺れています