幕末維新懐古談 25 初めて博覧会の開かれた当時のことなど
高村光雲
堀田原から従前通り私は相更らず師匠の家へ通っている。すると、明治十年の四月に、我邦で初めての内国勧業博覧会が開催されることになるという。ところが、その博覧会というものが、まだ一般その頃の社会に何んのことかサッパリ様子が分らない。実にそれはおかしいほど分らんのである。今日ではまたおかしい位に知れ渡っているのであるが、当時はさらに何んのことか意味が分らん。それで
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高村光雲
堀田原から従前通り私は相更らず師匠の家へ通っている。すると、明治十年の四月に、我邦で初めての内国勧業博覧会が開催されることになるという。ところが、その博覧会というものが、まだ一般その頃の社会に何んのことかサッパリ様子が分らない。実にそれはおかしいほど分らんのである。今日ではまたおかしい位に知れ渡っているのであるが、当時はさらに何んのことか意味が分らん。それで
高村光雲
かれこれしている中に私は病気になった。 医師に掛かると、傷寒の軽いのだということだったが、今日でいえば腸チブスであった。お医師は漢法で柳橋の古川という上手な人でした。前後二月半ほども床に就いていました。 病気が癒るとまた仕事に取り掛かる。師匠の家の仕事も、博覧会の影響なども多少あって、注文も絶えず後から後からとあるという風で、まず繁昌の方であった。私が専ら師
高村光雲
されば追っかけて、また一つ外国人からの注文がありました。 今度は、ドイツ公使館へ来た或る外国人からの注文で、同じく洋燈台であったが、趣は以前と違っておった。これは前述のアーレンス商会からの注文の製作をその人が見て注文することになったか、そこまではよく分りませんが、アーレンスとは何んの関係はないのであった。 注文の大体は、今度は純日本式の童男童女の並んで立って
高村光雲
それからまたこういう特別な注文のほかに、他の仕事もぽつぽつあります。それらを繰り返して仏の方をも相更らずやっている。明治十一年も終り、十二年となり、これといって取り立ててはなしもないが、絶えず勉強はしておりました。 すると、十二年の夏中から師匠は脚気に罹りました。さして大したことはないが、どうも捗々しくないので一同は心配をいたしました。余談にわたりますが、師
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さて、差し当っての責任として、私が主として師匠東雲師の葬送のことを取り計らわねばならぬ次第となったのであります。というのは、師匠の息子は、丑歳の時に出来た子供であって、それが当年十四、五になっているが、これはまだ当面に立つことは出来ぬ。政吉は一種の変人で、何か人と応対などすべきことでもあると、隠れていなくなるというような妙な気風の人。後に私の弟弟子が二人あっ
高村光雲
さて、これから後の始末をつける段となるのでありますが、急に師匠に逝かれては、どうして好いか方角も付きません。しかし相更らず仕事だけはやらねばならぬから、まずこの方のことを引き締めて掛かることにしました。 ここでちょっと思い出しましたが妙なお話がある。それは師匠が生前丹精して寛永通宝の中から、俗に「耳白」という文銭を選り出しては箱に入れて集めておられ、それが貯
高村光雲
明治八年は私が二十三で年季が明けて、その明年私の二十四の時、その頃神仏混淆であった従来からの習慣が区別されることになった。 これまではいわゆる両部混同で何の神社でも御神体は幣帛を前に、その後ろには必ず仏像を安置し、天照皇大神は本地大日如来、八幡大明神は本地阿弥陀如来、春日明神は本地釈迦如来というようになっており、いわゆる神仏混淆が行われていたのである。 この
高村光雲
この時代のことで、おもしろい話がある。これは神仏混淆の例証ではありませんが、やはり神仏区別のお布令からして仏様側が手酷しくやられた余波から起った事柄であります。 本所の五ツ目に天恩山羅漢寺というお寺がありました。その地内に蠑螺堂という有名な御堂がありました。形は細く高い堂で、ちょうど蠑螺の穀のようにぐるぐると廻って昇り降りが出来るような仕掛けに出来ており、三
高村光雲
蠑螺堂は壊し屋が買いましたが、百観音は下金屋が買いました。下金屋というのは道具屋ではない。古金買いです。古金買いの中でも、鍋、釜、薬缶などの古金を買うものと、金銀、地金を買うものとある。後の方のがいわば高等下金屋である。これに百観音は買われました。……というのは、観音の彫刻にはいずれも精巧な塗り彩色がしてありますので、その金箔を見込んで買ったのである。単に箔
高村光雲
さて、五体の観音は師匠の所有に帰し「まあ、よかった」と師匠とともに私は一安心しました。しかし、私にはここで一つの希望が起りました。私は、数日の後、師匠に向い、その望みを申し出でました。 「師匠、あの観音五体の中で一体を私にお譲り下さいませんか。私はそれを自分の守り本尊として終生祭りたいと思うのです。もっともお譲り下さるならば、師匠がお求めになった代を私はお払
高村光雲
明治八、九年頃は私も既に師匠の手を離れて仏師として一人前とはなっておりましたが、さて、一人前とは申しながら、まだ立派に世に立つに到ったとはいえない。師匠の家は出たけれども、自分の家から師匠の家に通って仕事をしておりました。 ところが、その時分は前に話した通り仏教破壊のあおりを食って仏に関係した職業は何事によらず散々な有様でありますから、したがって仏師の仕事も
高村光雲
ちょうど、その時分、虎の門際の辰ノ口に工部省で建てた工部学校というものが出来ました。噂に聞くと、此校では西洋人を教師に傭って、絵や彫刻を修業しているのだということ、絵は油絵であり、彫刻は西洋彫刻をやっているのだという評判……そういう話を聞くと、私はそれを見たくて仕方がないが、しかし見るわけにも行かぬ。生徒には藤田文三氏、長沼守敬氏、大熊氏廣氏などいう人たちが
高村光雲
とかくしている中、また一つ私の生活に変化が来ました。 それは牛込神楽坂の手前に軽子坂という坂があるが、その坂上に鋳物師で大島高次郎という人があって、明治十四年の博覧会に出品する作品に着手していた。 これは銀座の三成社(鋳物会社)が金主となって大島氏に依嘱したものであるが、その大島氏と息子に勝次郎(後に如雲と号す)という人があって、まだ二十歳前の青年であるけれ
高村光雲
その時分の私の住居は、下谷西町三番地(旧立花家の屋敷跡の一部)にありました。大溝渠を前にした一室を仕事場にして、其所で二年ぶりに手入れをした道具を備え、いよいよ本職の木彫りをもって世に立つことにしたのであります。 私が、本当に他人の手から離れ、全くの独立で木彫りを家業として始めたのはこの時からであります。されば、自然と私の心も爽々しく、腕もまた、鳴るように思
高村光雲
「いやしくも仏師たるものが、自作を持って道具屋の店に売りに行く位なら、焼き芋でも焼いていろ、団子でもこねていろ」 これは高橋鳳雲が時々私の師匠東雲にいって聞かせた言葉だそうであります。 私もまた、東雲師から、風雲はこういって我々を誡められた、といってその話を聞かされたものであります。それで、私の脳にも、この言葉が残っている。いい草は下品であっても志はまことに
高村光雲
それから、また暫くの後、或る日私が仕事場で仕事をしていると、一人の百姓のような風体をした老人が格子戸を開けて訪ねて来ました。 その人は、チョン髷を結って、太い鼻緒の下駄を穿き、見るからに素樸な風体、変な人だと思っていると、 「一つ彫刻を頼みたい」という。 「木で彫る方の彫刻なら何んでも彫りましょう」 と答えると、 「それは結構、では今夜私の宅へ来て下さい。能
高村光雲
暫く話を途切らしたんで、少し調子がおかしい……何処まで話したっけ……さよう……この前の話の処でまず一段落附いたことになっていた。これからは、ずっと、私の仕事が社会的に働きかけて行こうという順序になるので、私の境遇――生活状態もしたがってまた実際的で複雑になって行くことになりますが、話の手順はかえって秩序よく進んで行くことと思う。 ところで、今日は暫くぶりであ
高村光雲
こういうことが続いていたが、或る年、大分大仕掛けに、父は熊手を拵え出しました。 鳥の市でなくてならないあの熊手は誰でも知っている通りのもの。真ん中に俵が三俵。千両函、大福帳、蕪、隠れ蓑、隠れ笠、おかめの面などの宝尽くしが張子紙で出来て、それをいろいろな絵具で塗り附ける。枝珊瑚などは紅の方でも際立ったもの、その配色の工合で生かして綺麗に景色の好いものとなる。こ
高村光雲
それから、もう一つ、歳の市をやったことがあります。 歳の市の売り物は正月用意のものです。父の売ったものはこれは老人自身のひと趣向なので巾八寸位の蒲鉾板位のものに青竹を左右に立て、松を根じめにして、注連縄を張って、真ん中に橙を置き海老、福包み(榧、勝栗などを紙に包んで水引を掛けて包んだもの、延命袋のようなもの)などを附けて門飾りにしたものです。 これは、大小拵
高村光雲
ついでながら師匠東雲師の家の跡のことをいって置きましょう。 師が没せられて後私ら兄弟子三枝松政吉氏が後のことを私に代ってやったことは、先日話しました。東雲の二代目になる息子は、雷門の焼けた丑年生まれで、師の没せられた時は十四、五、名を栄吉といって後に二代東雲となりましたが、この人、気性は父に似て至って正直で、物堅い人、また甚だ楽天家でありましたが、かなり酒量
高村光雲
さて、今日までの話は、私の蔭の仕事ばかりで何らこの社会とは交渉のないものであったが、これからはようやく私の生活が世間的に芽を出し掛けたことになります。すなわち自分の仕事として、その仕事が世の中に現われて来るということになる訳です。といって、まだまだようやくそれは世の中に顔を出した位のものであります。 それは、どういう事から起因したかというと明治十七年頃日本美
高村光雲
さて、話は自然私がどうして石川光明氏と交を結ぶことになったかということに落ちて来ます。それを話します。 明治十五年、私は西町三番地の家で毎日仕事をしておりました。仕事場は往来を前にした処で、前述の通りのように至って質素な、ただ仕事が出来るという位の処であった。 その頃、木彫りは衰え切っている。しかし牙彫りの方は全盛で、この方には知名の人が多く立派に門戸を張っ
高村光雲
この頃になって一時に種々の事が一緒に起って来るので、どの話をしてよろしいか自分ながら選択に苦しみますが、先に日本美術協会の話をしたから、引き続き、ついでに東京彫工会のことについて話します。 東京彫工会というものの出来たのは、妙なことが動機となって出来たのであります(ちょっと断わって置きますが、その当時の彫刻家は全部牙彫という有様であった)。その彫刻界に一つの
高村光雲
そこで、この会名の相談になったのでありますが、牙彫家の集団の会であるから、牙彫の「牙」という文字を入れるか、入れないかという間題になった。 無論牙彫の人たちばかりのこと故、「牙」を入れるが当然であるが、しかし、御相談を受けて私もその席上にあってこの話を聴いていたことであったが、元来、私は牙彫師でないのにかかわらず、この会合の仲間に這入って来ているので、或る人