幽霊の自筆
田中貢太郎
幽霊の自筆 幽霊の自筆 田中貢太郎 一ぱい張った二十三反帆に北東の風を受けて船は西へ西へ走っていた。初夏の曇った晩であった。暗いたらたらとした海の上には風波の波頭が船の左右にあたって、海蛇のように幾条かの銀鼠の光を走らした。 艫の舵柄の傍では、年老った船頭が一杯機嫌で胡座(あぐら)をかき、大きな煙管(キセル)で煙草を喫(の)みながら舵柄を見て、二人の壮(わか
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田中貢太郎
幽霊の自筆 幽霊の自筆 田中貢太郎 一ぱい張った二十三反帆に北東の風を受けて船は西へ西へ走っていた。初夏の曇った晩であった。暗いたらたらとした海の上には風波の波頭が船の左右にあたって、海蛇のように幾条かの銀鼠の光を走らした。 艫の舵柄の傍では、年老った船頭が一杯機嫌で胡座(あぐら)をかき、大きな煙管(キセル)で煙草を喫(の)みながら舵柄を見て、二人の壮(わか
小川未明
沖の方に、光ったものが見えます。海の水は、青黒いように、ものすごくありました。そして、このあたりは、北極に近いので、いつも寒かったのであります。 光ったものは、だんだん岸の方に近寄ってきました。そして、だんだんはっきりとそれがわかるようになりました。それは、氷山であったのです。 氷山はかなり、大きく、とがった山のように鋭く光ったところもあれば、また、幾人も乗
薄田泣菫
幽霊の芝居見 薄田泣菫 欧洲大戦の時、西部戦線にゐた英軍の塹壕内では、死んだキツチナア元帥が俘虜になつて独逸にゐるといふ噂が頻りにあつた。前線で俘虜になつた独逸兵のなかには、伯林の俘虜収容所で怖しく背の高い元帥の後姿を見かけたといふものが少くなかつた。オウクネエ島附近で溺死した元帥が蘇生つた筈もないが、それでも誰も見た、彼も見たと言ふからには、これもまんざら
田中貢太郎
幽霊の衣裳 田中貢太郎 三代目尾上菊五郎は怪談劇の泰斗として知られていた。其の菊五郎は文化年代に、鶴谷南北の書きおろした『東海道四谷怪談』を木挽町の山村座で初めて上演した。其の時菊五郎はお岩と田宮の若党小平、及び塩谷浪人佐藤与茂七の三役を勤めたが、お岩と小平の幽霊は陰惨を極めたもので、当時の人気に投じて七月の中旬から九月まで上演を続けた。 其の後天保になって
長谷川伸
京都の新京極は食べ物屋の飾りつけよりも、小間物や洋品を商う店の京都色の方が強くくる。 その新京極のチャチな家で夜更けてから飯を食べた――といっても連れは酒飲みだから飲まずにはいなかった。外へ出ると星の光が冴えていた。あしたの朝は屹と霜が深かろう。 「そ、そんな物が現代にあるもんですか、あなたは見掛けによらない非科学的な方だ」 と、Tが神経質な顔に似合わず断乎
相馬御風
幽霊の足 相馬御風 或小学校に於ける手工の時間に、Fといふ教師の経験した話。 その日Fは生徒一同に同じ分量の粘土を与へて、各自勝手な物を作らせて見ようと企てた。生徒は皆大いに喜んで各自思ひ/\に、馬だの牛だの人形だの茄子だの胡瓜だのを作つた。 ところが、中にたゞ一人時間が過ぎても、ぼんやり何か考へ込んでゐて何も作らない生徒があつた。彼はもと/\其の級第一の劣
佐藤春夫
この稿はもと『群像』三月号に『幽明界なし』と題して発表したものであるが、本誌『大法輪』編輯部がその取材に興味を持ったものか、転載を希望して作者の許可を求めた。作者は偶々旧稿を『幽香嬰女伝』と改題して初稿にいささか加筆してやや面目を改めたものがあったのを手交して、ここに再録を承引することとした。 霊魂不滅という説がある。わたくしは必ずしもその説を信奉する者でも
戸坂潤
先ず何よりも始めに幾何学なるものの概観を得ることが必要と思われる。恐らく幾何学には無限の種類があるかも知れない。併し何れも幾何学なる名に於て統一されている以上それを一貫する何ものかがあってそれがその区別を与えているのでなければならぬ。吾々は之を攫むことによって幾何学を分類することが出来る筈である。クラインによれば凡ての幾何学は夫々或る一定の形を持った変換に対
小川未明
ある輝かしい日のことです。父親は、子供の手を引きながら道を歩いていました。 まだ昨日降った雨の水が、ところどころ地のくぼみにたまっていました。その水の面にも、日の光は美しく照らして輝いていました。 子供は、その水たまりをのぞき込むように、その前にくると歩みを止めてたたずみました。 「坊や、そこは水たまりだよ。入ると足が汚れるから、こっちを歩くのだよ。」と、父
久坂葉子
熊野の小母さんへ。 あなたには、四五年も昔から、よくお便りしてます。けれど、こんな殺風景な紙に、宿命的な味気ない字を書くことは、はじめてです。いつも、信州の紙とか、色のついたアート紙に、或いはかすれた筆文字で、或いは、もっと、面白くきれいな字――いやこれは、おこがましいかな。でも、あなたは、私の字を好んでくれました。――で、お便りしたものです。何故、この紙を
久坂葉子
幾度目かの最期 久坂葉子 熊野の小母さんへ。 あなたには四、五年も昔から、よくお便りしてます。けれど、こんな殺風景な紙に、宿命的な味気ない字を書くことは、はじめてです。いつも、信州の紙とか、色のついたアート紙に、或いはかすれた筆文字で、或いは、もっと、面白くきれいな字――いやこれは、おこがましいかな。でも、あなたは、私の字を好んでくれました。――で、お便りし
宮沢賢治
ポラーノの広場 宮沢賢治 前十七等官 レオーノ・キュースト誌 宮沢賢治 訳述 そのころわたくしは、モリーオ市の博物局に勤めて居りました。 十八等官でしたから役所のなかでも、ずうっと下の方でしたし俸給もほんのわずかでしたが、受持ちが標本の採集や整理で生れ付き好きなことでしたから、わたくしは毎日ずいぶん愉快にはたらきました。殊にそのころ、モリーオ市では競馬場を植
宮沢賢治
時、一千九百二十年代、六月三十日夜、 処、イーハトヴ地方、 人物、キュステ 博物局十六等官 ファゼロ ファリーズ小学校生徒 山猫博士 牧者 葡萄園農夫 衣裳係 オーケストラ指揮者 弦楽手 鼓器楽手 給仕 其他 曠原紳士、村の娘 多勢、 ベル、 人数の歓声、Hacienda, the society Tango のレコード、オーケストラ演奏、甲虫の翅音、 幕あ
豊島与志雄
広場のベンチ 豊島与志雄 公園と言うには余りに狭く、街路に面した一種の広場で、そこの、篠懸の木の根本に、ベンチが一つ置かれていた。重い曇り空から、細雨が粗らに落ちていて、木斛の葉も柳の葉も、夾竹桃の茂みも、しっとり濡れていたが、篠懸の葉下のベンチはまだ乾いていた。 そのベンチに、野呂十内が独り腰掛けていた。手提鞄を膝に置いて両手で抱え、帽子の縁を深く垂らし、
薄田太郎
広島城のことを鯉城というが、この鯉城というのはこの土地が己斐の浦に臨んでいたので、己斐が鯉の音に通じるところから、こう名付けられたものといわれる。 講談調になって恐縮だが、豊臣秀吉が天下をとると、西の方で気になるのは毛利輝元であった。秀吉はなんとなく毛利氏の本城、安芸の吉田にある郡山の城を、どこかよそに移転させようと考えはじめたのである。西の毛利氏の山城、吉
原民喜
鶴見橋といふ名前があるからには、比治山に鶴が舞っていたのだらう。私の亡父はその舞っている鶴を見たことがあるといふ。 比治山の鶴が飛んだ ビンロイ と、箸ですくった茶碗の御飯を幼児の口にあてがってやる、おどけた習慣は今も広島の女に残っていることだらうか。比治山には要塞があった〔。〕大砲が松の間に隠されて、海の方を覘ってゐた。県師の附小生だった私は、学校の帰りに
国枝史郎
夕飯の時刻になったので新井君と自分とは家を出た。そして自分の行きつけの――と云っても二三回行っただけの――黄華軒という支那料理店へ夕飯を食いに這入って行った。 「日本人は一人も居ないんだね」 新井君は不意にこう云ったが、自分にはその意味が解らなかった。 「日本人が一人も居ないとは?」 「料理人もボーイも支那人だね……屹度主人も支那人だろう」 「何故?」と自分
新村出
昭和十年の初頭以来、粒々の辛苦を積んで完成を急ぎつつあった『改訂辞苑』の原稿も組版も、二十年四月二十九日の戦火に跡形もなく焼け失せ、茫然たる編者の手許にはただ一束の校正刷のみが残された。しかも戦火に続く敗戦と戦後の混乱とは、如何に辞典に妄執を抱く編者を以てしても、直ちに復興を企図し得べき底のものではなかった。焦土の余熱は、容易に冷ゆべくもなかったのである。
新村出
いまさら辞典懐古の自叙でもないが、明治時代の下半期に、国語学言語学を修めた私は、現在もひきつづいて恩沢を被りつつある先進諸家の大辞書を利用し受益したことを忘れぬし、大学に進入したころには、恩師上田万年先生をはじめ、藤岡勝二・上田敏両先進の、辞書編集法およびその沿革についての論文等を読んで、つとに啓発されたのであった。柳村上田からは『新英大辞典』の偉業の紹介を
宮沢賢治
床屋 宮沢賢治 本郷区菊坂町 ※ 九時過ぎたので、床屋の弟子の微かな疲れと睡気とがふっと青白く鏡にかゝり、室は何だかがらんとしてゐる。 「俺は小さい時分何でも馬のバリカンで刈られたことがあるな。」 「えゝ、ございませう。あのバリカンは今でも中国の方ではみな使って居ります。」 「床屋で?」 「さうです。」 「それははじめて聞いたな。」 「大阪でも前は矢張りあれ
北大路魯山人
私たちが料理をとやかく言ったり、美味い不味いを口にしますと、ぜいたくを言っているように聞えて困るのですが、私が言うのはそうじゃないのです。 料理の考え方ひとつで、仕方ひとつで、物を生かして美味しくいただける工夫、すなわち経済で美味……それです。心なしの業で物を殺してしまっていることが往々にありますが、それをもったいないと言うのです。よいものをわるいものにして
島村抱月
私は今ここに自分の最近両三年にわたった芸術論を総括し、思想に一段落をつけようとするにあたって、これに人生観論を裏づけする必要を感じた。 けれども人生観論とは畢竟何であろう。人生の中枢意義は言うまでもなく実行である。人生観はすなわち実行的人生の目的と見えるもの、総指揮と見えるものに識到した観念でないか。いわゆる実行的人生の理想または帰結を標榜することでないか。
宮本百合子
序(『文学の進路』) 宮本百合子 世界の歴史は大きく動いていて、日本の生活と文化文学も、この数年の間に示して来たうつりかわりを、これからは一層つよく広汎に現してゆくことだろうと考える。 日本文学は、それが世界史的な規模で観られ、また生まれてゆかなければならないことを益々明白にして来ている。刻々の裡に最善をつくして生きようとしている私たちの意欲の表現としての文
宮本百合子
序(『日本の青春』) 宮本百合子 歴史の可能は、いつの時代にも青春のうちに見出されて来た。日本の青春が明日に可能としている運命は、何と大きく画期的であるだろう。 この予想は、きのうまで日本の青春が、あのようにもむごたらしく戦争の轍にひしがれて来たことについて、きょうの青春が熱烈に抗議している、その事実の上にこそ展望される。激しい歴史の動きにさらされながら、世