泉先生と私
谷崎潤一郎
私事にわたることを云ふのは寔に恐縮であるが、泉先生は文壇に於ける大先輩であるのみならず、此の春私の娘が結婚するときに媒酌の労を取つて下すつたので、さう云ふ私交上でも一方ならぬ御厄介になつた。式の当日、先生が奥さんとお二人で並んで椅子に腰かけてをられた紋服のお姿が、今の私には最も感銘の深い、忘れられない面影として記憶されてゐる。 聞けば先生は、あのお年だつたけ
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谷崎潤一郎
私事にわたることを云ふのは寔に恐縮であるが、泉先生は文壇に於ける大先輩であるのみならず、此の春私の娘が結婚するときに媒酌の労を取つて下すつたので、さう云ふ私交上でも一方ならぬ御厄介になつた。式の当日、先生が奥さんとお二人で並んで椅子に腰かけてをられた紋服のお姿が、今の私には最も感銘の深い、忘れられない面影として記憶されてゐる。 聞けば先生は、あのお年だつたけ
宮本百合子
泉山問題について 宮本百合子 第一私どもの目からみると議会内の大蔵委員会という重要な新給与予算の委員会席上で、あんなに酔うほど酒がでるということがそもそもひどいことだと思います。なにもうちでのめない連中ではなし、ごあいきょうの程度をこえています。公務員法をむりやりとおしてはじめからきらわれている吉田内閣は新しい選挙をひかえて、いくらかでも人気をとりかえすため
牧野信一
泉岳寺附近 牧野信一 一 泉岳寺前の居酒屋の隅で私が、こつぷ酒を睨めながら瞑想に耽つてゐると、奥で亭主と守吉の激しい口論であつた。 「こいつ奴、よく喋舌りやがるな。」 「喋舌るさ。喋舌られるのが厭だつたら、自分こそあんまりケチなことを云ふない。」 「やい、守吉、俺はケチで憤るんぢやないんだぞ。気をつけろ……」 亭主の方は店に遠慮して、口のうちに癇癪を噛み殺し
宮崎湖処子
泉鏡花作『外科室』 八面樓(宮崎湖処子) 〔明治二八・七・二三『國民之友』二五七號〕 落莫たる文藝倶樂部に於て、吾人二人、新進作家を得る、曰く泉鏡花、曰く三宅青軒。 その第六篇掲ぐる所の鏡花の新作『外科室』、僅々十三頁に出でざる短篇と雖、然も其の短篇なるが故に、寸鐵人を殺すの氣あり。 某伯爵の夫人、疾を得て某病院の外科室にあり、一醫學士の手術を經、半途に手術
小村雪岱
泉鏡花先生のこと 小村雪岱 私が泉鏡花先生に初めてお眼にかかったのは、今から三十二、三年前の二十一歳の時でした。丁度、久保猪之吉氏が学会で九州から上京され、駿河台の宿屋に泊っておられ、豊国の描いた日本で最初に鼻茸を手術した人の肖像を写すことを依頼されて、その宿屋に毎日私が通っている時に、鏡花先生御夫妻が遊びに見えられて、お逢いしたのでした。 久保氏夫人よりえ
平山千代子
お泊り 平山千代子 名古屋へ行つた年の夏だから、女学校一年の夏である。 東京へいらしつたお帰りに、すみ子叔母様が名古屋へお立寄りになつた。 そしてお帰りに「千代ちやん一しよに行かない?」とおつしやつた。 「帰りは芳子と一しよに帰ればいゝから……」と云つて下さつたし、神戸のお家でいつかピアノを弾かして頂いたことを思ひ出し、何の気なしに「行く」と云つてしまつた。
作者不詳
法句の語は大別して二種の義に解釋せらる、一は法は教の義にして法句とは釋尊の教の文句なり、又他の一は法は本體を詮し、一切萬象の終極の體即ち涅槃の義、而して句の原語は元來足跡の義にして、轉じて道或は句の義となりしものなれば、その原の意味にて道の義と解すれば法句は涅槃への道とも譯せらる、涅槃への道は換言せば覺らす教の意味なり、今は何れにても可なれども、古來漢譯され
末弘厳太郎
一 四月は、毎年多数の青年が新たに法学に志してその門に入ってくる月である。これらの青年に、法学が学問として一体どういう性質を持つものであるかについて多少の予備知識を与えるのが、この文章の目的である。 無論、本当のことは、入門後自らこの学問と取り組んで相当苦労した上でなければわからない。やかましく言うと、法学の科学的本質如何というような根本的の問題は、勉強して
野村胡堂
武蔵野の片ほとり、軒端に富士を眺めて、耳に多摩川の瀬の音を聞こうと言った場所にいとも清浄なる一宇の堂が建って居りました。 堂と言っても和洋折衷のバンガロー風のあずま家で、文化住宅に毛の生えたものに過ぎませんが、深々と堀を縄らし、猛犬を餌い、鉄条網を張り渡して、容易に里の子も近づけず、隣組の交際もありませんが、それでも週に一度、或は月に二度位、電車で自動車で八
国枝史郎
帝国政府は今回ローマの法王庁へ原田健氏を初代公使として派遣することになったが時局がら洵に機宜を得た外交手段だと思う。 この機会に歴代羅馬法王のうち特にすぐれた外交家について検討を加えてみよう。 一体に歴代の羅馬法王は傑物揃いであるが、わけてもヨハネ十二世などは法王の位置をドイツ皇帝の上に置いたことと神聖羅馬帝国というものを一種の外交手段によって作りあげた点と
シュウォッブマルセル
香煙と法衣とより離れて、わが殿中の一隅金薄の脱落ちたこの一室に来れば、ずつと気やすく神と語ることが出来る。こゝへ来ては、腕を支へられずに、わが老来を思ふのである。弥撒を行ふ間は、わが心自づと強く、身も緊つて、尊い葡萄酒の輝は眼に満ちわたり、聖なる御油に思も潤ふが、このわが廊堂の人げない処へ来ると、此世の疲に崩折れて、跼まるとも構ない。「見よ、この人を。」主は
穂積重遠
父は話好きであります。私が子供の時には、父は御定まりの桃太郎から始めて大江山鬼退治の話などをしてくれたものです。私がだんだん成人するとともに、父の話も次第に子供離れがして来まして、私が法科大学生の時代には、自然法律談が多く出ることになりました。しかし父はむつかしい法理論や、込み入った権利義務の話はあまりしませんでした。私とても学校でさんざん聞かされた後ですか
田中貢太郎
法華僧の怪異 田中貢太郎 奈良県吉野郡掖上村茅原に茅原寺と云う真宗の寺院があった。其の寺院は一名吉祥草院。其処に役行者自作の像があって、国宝に指定せられているが、其の寺院に名音と云う老尼がいた。 私が其の名音に逢った時は、昭和三年で六十位であった。其の名音は、最初泉の某と云う庵にいて有徳の住持に事えていた。 名音が尼僧になったのは、中年になってからで、其の動
田中貢太郎
法衣 田中貢太郎 千住か熊谷かのことであるが、其処に某尼寺があって、その住職の尼僧と親しい壮い男が何時も寺へ遊びに来ていたが、それがふっつりと来なくなった。 尼僧はそれを心配して、何人かその辺の者が来たならその容子を聞いてみようと思っていると、ある日その男がひょっこりやって来た。 「どうしたかと思って、心配してたのですよ」 「少し病気でしてね」 「もう好いの
喜田貞吉
余輩が明治三十八年五月を以て、所謂法隆寺再建論を学界に発表してから、早くも三十年の星霜が流れた。当時余輩は現存の法隆寺金堂・塔婆・中門等の古建築物に関して、該寺が天智天皇九年庚午四月三十日夜半の大火に一旦焼失し、その後いつの頃からか再建築に着手して、奈良朝の初め頃までにはほぼ完成を見るに至ったものであることの前提の下に、所謂非再建論に対して素人の無鉄砲なる駁
久生十蘭
森鴎外の「独逸日記」(明治十七年十月から二十一年五月にいたる)の十九年六月のところに次のような記述がある。 十三日。夜 岩佐(新)とマクシミリアン街の酒店に入り、葡萄酒の杯を挙げ、興を尽して帰りぬ。 翌日 聞けば拝焉(バイエルン=バヴァリア)国王 此夜 ウルム湖の水に溺れたりしなり。王はルウドヰヒ Ludwig 第二世と呼ばる。久しく精神病を憂へたりき。昼を
佐藤垢石
私は、昭和のはじめ、世の中が一番不景気の時代に失職してしまった。失職当時は幾分の余裕はあったのであるけれど、食を求めて徒食している間に、持ち金悉くをつかい果たしてしまったのである。 多くの家族を抱えて、職のないことは胸が詰まる思いである。東京にはあきらめをつけた。そして、東北地方のある小さな都会へ流れて行ったのである。そこで、地方新聞の配達をはじめた。しかし
田山花袋
いかなる事象をも――口に言ふに忍びざるほどの悲慘、殘忍、冷酷のことをも、明かに其心に映し得るやうに、作者は常に眞率な無邪氣な心を持つて居なければならぬ。『耽溺』の事象を、泡鳴君があのやうに明かに自己の心に映し得たのは、まことに敬服に値ひする。又泡鳴君は、讀賣の日曜附録で『耽溺』の主人公は古來の英雄豪傑と同じである。それが解らぬやうでは新文藝を談ずる資格がない
桜間中庸
藻はゆれ 藻はゆれ 波はゆれ かもめ ツイツイ 波をする ホラ ツツイ とさ あをいお空に あをいうみ かもめ フワリ とびたつた ホラ フワリ とさ 翼がぬれるに しよつぱいに もいちど ツイツイ 波をする ホラ ツツイ とさ 藻はゆれ 藻はゆれ 波はゆれ かもめ ツイツイ 波をする ホラ ツツイ とさ ●図書カード
豊島与志雄
波多野邸 豊島与志雄 波多野洋介が大陸から帰って来たのは、終戦後、年を越して、四月の初めだった。戦時中の三年間、彼地で彼が何をしていたかは、明かでない。居所も転々していた。軍の特務機関だの、情報部面だの、対重慶工作だの、いろいろなことに関係していたらしく言われているが、本人はただ、あちこち見物して歩いたと笑っている。実際のところ、本人の言葉が最も真実に近いも
小川未明
人間の幸不幸、それは一様ではない。十人が十人、皆それ/″\の悩みと楽しみとがある。併し恐らく一生を通じて苦悩のない者はなく、歓喜のないものも又ないだろう。そしてそれらは、波の寄せては返すように、循環しているものであろう。誰でもが自分の生活を享楽と、総て喜びでありたいと願うだろうが、併しそれは、健康な者が常に健康ではあり得ないように、少しの間隙が生ずれば、直に
坂口安吾
波子 坂口安吾 一 「死花」といふ言葉がある。美しい日本語のひとつである。伝蔵自身が、さう言ふ。さうして、伝蔵が、死花を咲かせるなどと言ひだしたのは、波子の嫁入り話と前後してゐた。 五十をいくつも越してゐない年であるから、まだ、死花には早やすぎる。けれども、芝居もどきの表現が好きな父で、その一生も芝居もどきでかためてきたから、うつかり冗談だと思つてゐると、い
牧野信一
春だつた――といふだけのことである。そんな日を特に選んで誌したといふわけではない。日誌を誌す要に迫られて、いきなり、その日のことを書き誌したものに過ぎない。だが、日が経つて、再びそんな稿を翻して見ると、無意識なる、凡々たる日録のうちにも、何か、再び廻り合せぬかの如き心の媚惑と、「物質の鉄則から釈放されたる宇宙」に向つての止め度もなき霊の推進器の飽くなき回転の
今野大力
おお はるけき方より寄せ来る波濤よ 汝が最大の実力と自信を持って 岩礁を打て、万丈のしぶきを上げよ その時、海神は大空に懸る天日をおおいて。 凄惨なる自然の風景を 汝がその雄々しき門出の餞に送るであろう ああ、かかる時、 汝の使命は 世のその努力の頂点に到達すべきである されど汝は かの海洋はるかに煙を吐きつつ走る すべの船を 船に乗れる同胞を、愛人を 使者