波荒くとも
小川未明
鉛色をした、冬の朝でした。往来には、まだあまり人通りがなかったのです。広い路の中央を電車だけが、潮の押しよせるようなうなり声をたて、うす暗いうちから往復していました。そして、コンクリート造りの建物の多い町の中は、日の上らない前の寒さは、ことに厳しかったのです。 十三、四の小僧さんが、自分の体より大きな荷を負って、ちょうど押しつぶされるようなかっこうをして、自
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小川未明
鉛色をした、冬の朝でした。往来には、まだあまり人通りがなかったのです。広い路の中央を電車だけが、潮の押しよせるようなうなり声をたて、うす暗いうちから往復していました。そして、コンクリート造りの建物の多い町の中は、日の上らない前の寒さは、ことに厳しかったのです。 十三、四の小僧さんが、自分の体より大きな荷を負って、ちょうど押しつぶされるようなかっこうをして、自
田山花袋
『何うもあれは変だね?』かう大学生の小畠はそこに入つて来た旅舎の中年の女中に言つた。それは広い海に面した室で、長い縁側と、スロオプになつてゐる広場とを隔てゝ、向うに波の白く凄じく岩に当つて砕けてゐるのを目にするやうなところであつた。 『え?』 頷で客の指す方に眼を遣りながら女中は訊いた。 『あの女さ?』 『あ、あの岩の上の? 本当ね? 何うかしてるのね?』女
ダンテアリギエリ
泣けよ、戀人、神の身の「愛」の君だに、 愁歎のいはれを識りて泣き入りぬ。 「愛」は悲み堪へ難く、いらつめたちの 雙眼に溢るる涙、眺めたり。 忌々しき「死」の大君は貴なる人も 憚らず、さすがに徳を避けたれど、 なべての人が、たをやめの譽とふもの、 めぐしくも、毀ちたるこそ無殘なれ。 聞けよ、諸人、「愛」は今、このたをやめを 褒めたたふ。見ようつそ身に現れて、
今野大力
何て騒々しい声だろう この場合の人間の泣声は決して同情に価しない あれはちいちゃい四つの女の子の泣声だが可愛そうにも考えられない ただうるさい 騒々しい 泣かないでくれればいい もう沢山だ 心の中でいくら 願ってみたって何にもならぬ 子供は少し熱があって からだがだるくって 消化不良のせいでもあるし 気分が悪いんだ、 どれを見てもきいてもいまいましいのだ、
牧野信一
ドンドンドン……といふ太鼓の音がどこからともなく晴れた冬の空に響いて居りました。私達は学校の退けるのを待兼ねて、駈けて帰りました。初午のお祭といふことが、此の上もなく私達を悦ばせてゐたのであります。自分達が主役となつて、大人の干渉を少しも受けずに何から何まで自分達の手でやることに、ある誇を感ずることが出来たのであります。ふだんは目上の人の指図の許にのみ暮して
薄田泣菫
書肆岩波氏の需めにより、岩波文庫の一篇として、ここに私の作詩撰集を出すことになつた。 選をするにあたり、私はただ自分の好みにのみしたがつて取捨をきめた。紙數が限られてゐるので、暮笛集では尼が紅、二十五絃では雷神の夢、天馳使、十字街頭では葛城の神などの長篇を收容することができなかつたのを遺憾に思ふ。 昭和三年三月 薄田淳介
林芙美子
泣虫小僧 林芙美子 一 閻魔蟋蟀が二匹、重なるようにして這いまわっている。 啓吉は、草の繁った小暗いところまで行って、離れたまま対峙している蟋蟀たちの容子をじいっと見ていた。小さい雄が触角を伸ばして、太った雌の胴体に触れると、すぐ尻を向けて、りいりい……と優しく羽根を鳴らし始めた。その雄の、羽根を擦り合せている音は、まるで小声で女を呼ぶような、甘くて物悲しい
小川未明
あるところに、毎日、よく泣く子がありました。その泣き様といったら、ひい、ひいといって、耳がつんぼになりそうなばかりでなく、いまにも火が、あたりにつきそうにさえ思われるほどです。 その近所の人々は、この子が泣くと、 「また、泣きんぼうが、泣きだしたぞ。ああたまらない。」といって、まゆをひそめました。 「泣きんぼう」といえば、だれひとり、知らぬものがなかったほど
豊島与志雄
泥坊 豊島与志雄 一 ある所に、五右衛門というなまけ者がいました。働くのがいやでいやでたまりません。何か楽に暮らしてゆける途はないかと考えていますと、むかし石川五右衛門という大盗人がいたということを聞いて、自分も五右衛門という名前だから、泥坊になったらいいかも知れないと考えました。 それで彼は家を飛び出して、ある橋の下に住みました。昼間はそこで寝て暮し、夜に
細井和喜蔵
人生凡そ金の無い程つらい事はない 人間凡そ米の無い程なさけない事はない。 あたしゃ機械のブラケットのから生れた無籍女さけれども人なみに何か世の為めに尽くしてみたくなって始めたしょうばいがこれだよ妻を買う金も無い貧乏な労働者に最も安値で飯のつぎに必要なものを供給することは簡易食堂や無料浴場より少しは重い社会奉仕 あたしゃ随分やすく売ったねえひとが二枚半とるとこ
梶井基次郎
それはある日の事だった。―― 待っていた為替が家から届いたので、それを金に替えかたがた本郷へ出ることにした。 雪の降ったあとで郊外に住んでいる自分にはその雪解けが億劫なのであったが、金は待っていた金なので関わずに出かけることにした。 それより前、自分はかなり根をつめて書いたものを失敗に終わらしていた。失敗はとにかくとして、その失敗の仕方の変に病的だったことが
中谷宇吉郎
北海道の景色の美しさの中で、比較的看逃されているのは、泥炭地の景色の美しさである。特に私は、晩秋の泥炭地の風趣とその色彩とに心を惹かれる。 冬を間近にひかえて、北国の空は毎日のように、鼠色の厚い層雲に蔽われる。そしてそういう空の下では、よく地平線の近くだけが綺麗に晴れていることが多い。そういう時には、その晴れ間は大抵は薄青磁色に冷たく透明に光っている。荒漠た
竹内浩三
鼻もちならねえ、どぶ水なんだ。屍臭を放つ腐り船が半沈みなんだ。青みどろなんかが、からみついてるんだ。 舷側にたった一つ、モオゼのピストルが置いてあるんだ。しかも、太陽はきらきらしているんだ。
下村千秋
泥の雨 下村千秋 日が暮れると、北の空に山のやうに盛り上つた黒雲の中で雷光が閃めいた。キラツと閃めく度にキーンといふ響きが大空に傳はるやうな氣がした。 由藏は仕事に切りをつけると、畑の隅に腰を下して煙草をふかし始めた。彼は死にかけてゐる親爺のことを考へると家へかへることを一刻も延ばしたかつた。けれど妻のおさわが、親爺の枕元へ殊勝らしく坐つて、その頭などを揉ん
小熊秀雄
泥鰌 小熊秀雄 (一) 夏に入つてから、私の暮しを、たいへん憂鬱なものにしたのは、南瓜畑であつた。 その葉は重く、次第に押寄せ、拡げられて、遂に私の家の玄関口にまで肉迫してきた、さながら青い葉の氾濫のやうに。 春の頃、見掛は、よぼ/″\としてゐる老人夫婦が、ひとつ、ひとつ、南瓜の種を、飛歩きをしながら捨るやうにして播いてゐた。 数年前まで、塵捨場であつたその
宮沢賢治
注文の多い料理店 宮沢賢治 二人の若い紳士が、すつかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴか/\する鉄砲をかついで、白熊のやうな犬を二疋つれて、だいぶ山奥の、木の葉のかさ/\したとこを、こんなことを云ひながら、あるいてをりました。 「ぜんたい、こゝらの山は怪しからんね。鳥も獣も一疋も居やがらん。なんでも構はないから、早くタンタアーンと、やつて見たいもんだなあ。」
宮沢賢治
『注文の多い料理店』広告文 宮沢賢治 イーハトヴは一つの地名である。強て、その地点を求むるならばそれは、大小クラウスたちの耕してゐた、野原や、少女アリスガ辿つた鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考へられる。 実にこれは著者の心象中にこの様な状景をもつて実在した ドリームランドとしての日本岩手県である。 そこでは、あらゆ
宮沢賢治
『注文の多い料理店』序 宮沢賢治 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。 わたくしは、さういふきれいなたべものやきものを
宮沢賢治
『注文の多い料理店』序 宮沢賢治 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。 わたくしは、そういうきれいなたべものやきものを
宮沢賢治
『注文の多い料理店』新刊案内 宮沢賢治 イーハトヴは一つの地名である。しいて、その地点を求むるならば、それは、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスがたどった鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠のはるかな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。 じつにこれは著者の心象中に、このような状景をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県である。 そ
永井荷風
○日本人そもそも洋服の着始めは旧幕府仏蘭西式歩兵の制服にやあらん。その頃膝取マンテルなぞと呼びたる由なり。維新の後岩倉公西洋諸国を漫遊し文武官の礼服を定められ、上等の役人は文官も洋服を着て馬に乗ることとなりぬ。日本にて洋服は役人と軍人との表向きに着用するものたる事今においてなほ然り。 ○予が父は初め新銭座の福沢塾にて洋学を修め明治四年亜墨利加に留学し帰朝の後
三遊亭円朝
(洋)金の勘定を仕ずに来た 三遊亭円朝 独逸の名高い作者レツシングと云ふ人は、至つて粗忽しい方で、其上法外に忘れツぽいから、無闇に金子や何かゞ失くなる、「是は何でも下婢か下男が窃取るに相違ない、一番計略を以て試してやらう。と云ふので、レツシング先生或時、机の上へ金銀をバラ/″\散らかしたまゝ、スーツと友達の家へやつて参り、レ「此頃無闇に金子が失くなつて仕やう
北大路魯山人
これから当分はさかなの洗いづくりの季節である。洗いにもいろいろあるが、一番美味いのは鮎の洗いである。鮎の五、六寸ぐらいの、もちろん獲りたてのものか、または生かしてあるのでなければならないが、これを三枚におろし、片身を斜めに五、六枚につくり、蓼酢、わさびなどを調味に添え、肉のいかったのを食う。 鮎特有の澄んで、うるみのある匂いにからんで、一種の天才そのもののよ
木村好子
ぷんとにおって来る力強い体臭! おお この汚れ物のにおいこそ 獄内の闘いのはげしさを語る あの人達の生々しいいぶき―― さあ みんな 元気で初めよう あたしはポンプ押し 千代ちゃんはすすぎ役 みんなそろって ごし ごし ざあざあ うらみをこめて洗い流す 奴等のテロルに汚された垢を油汗を 空は秋晴れ あつらえ向きの洗濯日和 なかでがんばる同志達に せめて小ざっ