渡り鳥
太宰治
渡り鳥 太宰治 おもてには快楽をよそい、心には悩みわずらう。 ――ダンテ・アリギエリ 晩秋の夜、音楽会もすみ、日比谷公会堂から、おびただしい数の烏が、さまざまの形をして、押し合い、もみ合いしながらぞろぞろ出て来て、やがておのおのの家路に向って、むらむらぱっと飛び立つ。 「山名先生じゃ、ありませんか?」 呼びかけた一羽の烏は、無帽蓬髪の、ジャンパー姿で、痩せて
Perpustakaan pengetahuan dunia domain publik
太宰治
渡り鳥 太宰治 おもてには快楽をよそい、心には悩みわずらう。 ――ダンテ・アリギエリ 晩秋の夜、音楽会もすみ、日比谷公会堂から、おびただしい数の烏が、さまざまの形をして、押し合い、もみ合いしながらぞろぞろ出て来て、やがておのおのの家路に向って、むらむらぱっと飛び立つ。 「山名先生じゃ、ありませんか?」 呼びかけた一羽の烏は、無帽蓬髪の、ジャンパー姿で、痩せて
永井荷風
街娼鈴代 (年十九) アパートのお神さん (年三十) 艶歌師福井 (年廿五、六) 艶歌師松田 (年三十) ヤクザ斎藤 (年廿五、六) 医師武田先生 (年五十四、五) おでんや (年五十四) 私服刑事一人 電車従業員二人 酔漢一人 女巡査二人
黒島伝治
「アナタア、ザンパン、頂だい。」 子供達は青い眼を持っていた。そして、毛のすり切れてしまった破れ外套にくるまって、頭を襟の中に埋めるようにすくんでいた。娘もいた。少年もいた。靴が破れていた。そこへ、針のような雪がはみこんでいる。 松木は、防寒靴をはき、ズボンのポケットに両手を突きこんで、炊事場の入口に立っていた。 風に吹きつけられた雪が、窓硝子を押し破りそう
岸田国士
温室の前 岸田國士 大里貢 同 牧子 高尾より江 西原敏夫 東京近郊である。 一月中旬の午後五時―― 第一場 大里貢の家の応接間――石油ストーブ――くすんだ色の壁紙――線の硬い家具――正面の広い硝子戸を透して、温室、グリーン・ハウス、フレム及び花壇の一部が見える。 硝子戸に近く、高尾より江――二十五六歳に見える――が、ぢつと外を眺めてゐる。さつぱりした洋装。
岸田国士
「温室の前」の人物について 岸田國士 私はこれまで「ある俳優」にあてはめて脚本を書いたことはない。ところが、此の「温室の前」はどういふつもりでか、新劇協会の人達にあてはめて書いて見ようと思つた。それで先づ、畑中、伊沢両君を兄妹に見立てたのである。(両君は、これまで、あまり度々夫婦や恋人の役で顔を合はせてゐるやうに思つたので) 処が、此の作を書き上げて見ると、
国枝史郎
中央線木曾福島! ただ斯う口の中で云っただけでも私の心は踊り立つ。それほど私は其町を――見捨てられたような其町を限り無く好いているのであった。人情、風俗、山川の姿……福島の町の一切の物が私には愛らしく好ましい。 とは云え、私は、二度と再びその町を訪ねようとは思わない。何んと矛盾した考えでは無いか! 併し私が其町で親しく経験した不思議な事件の恋物語を聴かれたな
原民喜
音楽室の壁に額があった。中年の猫背の紳士が時雨に濡れて枯芝のなかを散歩してゐる――冷え冷えする絵だ。濡れ雑巾を持った儘、どうした訳か、彼女はたった一人で掃除当番をしてゐたのだが、ガラス窓の外にはやはり絵に似た時雨雲があった。 すると突然、先生がやって来た。はずみと云ふものは恐しく、彼女は何でもないのに真赤になってしまった。恐らくその音楽室が冷え冷えしてゐたた
内田魯庵
温情の裕かな夏目さん 内田魯庵 夏目さんとは最近は会う機会がなかった。その作も殆んど読まない。人の評判によると夏目さんの作は一年ましに上手になって行くというが、私は何故だかそうは思わない、といって私は近年は全然読まないのだから批評する資格は勿論ないのである。 新聞記事などに拠って見ると、夏目さんは自分の気に食わぬ人には玄関払いをしたりまた会っても用件がすめば
梶井基次郎
夜になるとその谷間は真黒な闇に呑まれてしまう。闇の底をごうごうと溪が流れている。私の毎夜下りてゆく浴場はその溪ぎわにあった。 浴場は石とセメントで築きあげた、地下牢のような感じの共同湯であった。その巌丈な石の壁は豪雨のたびごとに汎濫する溪の水を支えとめるためで、その壁に刳り抜かれた溪ぎわへの一つの出口がまた牢門そっくりなのであった。昼間その温泉に涵りながら「
中谷宇吉郎
私は温泉が非常に好きである。少年時代を北陸の温泉地に送ったせいかも知れないが、今でも少し身体の調子が悪い時などは、いつも温泉に行ったら直ぐに元気になるのだろうという気がする。元気な時はまたそれなりに、夏休みなどには気の向いた本でも持って、山の温泉へ行って見たいと考えることがしばしばある。 温泉が本当に身体のために良いかどうかは、現今の医学では決定的な論断は下
中谷宇吉郎
もう二十年以上も昔の話であるが、弟といっしょに、しばらくパリで暮したことがある。私は文部省の留学生であり、弟は考古学をやっていて、トロカデロの博物館から僅かばかりの手当をもらっているだけで、二人ともはなはだ貧乏であった。 それでなるだけ生活費のかからぬように暮す必要があった。自費洋行の画学生たちのように、自炊生活をするのがいちばん安いわけであって、それだと当
小川未明
雪が降って、田や、畑をうずめてしまうと、すずめたちは、人家の軒端近くやってきました。もう、外に落ちている餌がなかったからです。朝早くから、日暮れ方まで、窓の下や、ごみ捨て場などをあさって、やかましく鳴きたてていました。 そのうちに、どこからか、彼らに向かって、空気銃をうったものがあります。一羽のすずめは、羽の付け根のあたりを傷つけられました。そして、もうすこ
佐々木邦
東引佐村と西引佐村は引佐川を境にして、東と西から相寄り添っている。名前から言っても、地勢から見ても、兄弟村だけれど、仲の悪いこと天下無類だ。何の因果か、喧嘩ばかりしている。両村の経緯は生きている人間の記憶以前に遡るものらしい。 僕がまだ小学校に入らない頃、近所に百を越した老人があった。もう悉皆耄碌して、縁側に坐って居睡りをするのが商売だったけれど、百二つで死
浜田青陵
「旅人よ、ラコニヤ人に告げよ。我等は其の命に從ひて此處に眠れりと」これはスパルタ國王レオニダスが紀元前四八〇年、寡兵を以てマケドニヤの強敵と戰ひ、テルモピレーの險に其の屍を埋めた戰場に立てられた記念の碑銘であつたことは、苟も希臘史を學んだものは記憶するであらう。併し此のテルモピレーが温泉の湧出地であることは、往々にして注意せられないかも知れない。「テルモ」は
坂口安吾
温浴 坂口安吾 今の家へは、温泉がぬるいというのを承知の上で越してきた。 伊東は市ではあるが、熱海とは比較にならないほど、ひなびている。けれども温泉場であるから、道路には広告塔があって休むことなく喋りまくり唄いまくっているし、旅館からは絶え間なくラジオががなりたてて、ヘタクソなピアノもきこえる。先方も商売であるから、静かにしろ、と云うわけにはいかない。 よそ
桜間中庸
波止場近くの白い船 波が寄せます タポ タポン ホラ タポ タポン 甲板に並んだ白い服 海をみてます トロ トロリ ホラ トロ トロリ お空にのびてる メーンマスト 鴎が飛びます サツ サラリ ホラ サツ サラリ ●図書カード
ボードレールシャルル・ピエール
港は人生の闘に疲れた魂には快い住家である。空の広大無辺、雲の動揺する建築、海の変りやすい色彩、燈台の煌き、これらのものは眼をば決して疲らせることなくして、楽しませるに恰好な不可思議な色眼鏡である。調子よく波に揺られてゐる索具の一杯ついた船の花車な姿は、魂の中にリズムと美とに対する鑑識を保つのに役立つものである。とりわけ、そこには、出発したり到着したりする人々
桜間中庸
お船とお船で 笛がなる 笛がなる 汽笛であいさつ ぽう お天氣さん ぽう お天氣さん お船とお船で 手をあげる 手をあげる 右手であいさつ ほうい ごきげんさん ほうい ごきげんさん ●図書カード
田中貢太郎
山根謙作は三の宮の停留場を出て海岸のほうへ歩いていた。謙作がこの土地へ足を入れたのは二度目であったが、すこしもかってが判らなかった。それは十四年前、そこの汽船会社にいる先輩を尋ねて、東京から来た時に二週間ばかりいるにはいたが、すぐ支那の方へ往ってその年まで内地に帰って来なかったので、うっすらした輪廓が残っているだけであった。 謙作は台湾で雑貨店をやっていた。
桜間中庸
みなとの海は みどりのびろうど テーブル掛のやうな 白い船がはいる 汽笛はふくれて みなとにあふれる みんなデツキで こちらをみてる 空からひらりと ハンケチ落ちた ちがふあれだよ 白いかもめよ ●図書カード
仲村渠
浚渫船はいづこの海を浚つてゐるのだらう鉄片は沈んで沈んで港の底眇の眸を覗かせるよああ気なげな空想を抱いてゐるぞねそべつた比目魚が吐きだす泡にぶらさがりゆらゆら海面に昇つてゆく鉄片の願望よおをい!海上遠く、青空映す友だちよ針魚よりも鋭い腰の短剣め!あいつの主人はランチを飛ばして海軍大尉の美男子だ浮標めの自由な展望よあいつは海と空の骰子だあいつは燈台の横腹にさし
小川未明
やっと、十ばかりになったかと思われるほどの、男の子が笛を吹いています。その笛は、ちょうど秋風が、枯れた木の葉を鳴らすように、哀れな音をたてるかと思うと、春のうららかな日に、緑の色の美しい、森の中でなく小鳥の声のように、かわいらしい音をたてていました。 その笛の音を聞いた人々は、だれがこんなに上手に、また哀れに笛を吹いているのかと思って、そのまわりに寄ってきま
小野佐世男
エキゾチックな港街 小野佐世男 佐世保へいらっしゃるんですって、佐世男が佐世保にいくなんて、なんかおかしいですね――、オホホホホ。あなたさまは日本人でしょう、オホホそれならお行きにならない方がお幸せですわ。……雲仙の旅館の女中は手を振った……。日本人は相手にされませんよ、靴をみがこうとなさっても駄目駄目。 オホホホ、女の子ですって、それこそ鼻もひっかけません
中谷宇吉郎
もう十年も前のことであるが、倫敦に留学中私はユニバシティカレッヂのポーター老先生の所へ繁げ/\出入りしてゐるうちに、一緒に瑞西へ行かうとさそはれたことがあつた。そして二週間許り、ポーター先生や引退した英国の老法律家夫妻と、ツーン湖畔のオーベルホッフェンといふ小村で暮したことがあつた。 ツーン湖のほとり、瑞西の夏は美しかつた。ホテルは小高い丘陵の上にあつて、ツ