湖光島影 琵琶湖めぐり
近松秋江
比叡山延暦寺の、今、私の坐つてゐる宿院の二階の座敷の東の窓の机に凭つて遠く眼を放つてゐると、老杉蓊鬱たる尾峰の彼方に琵琶湖の水が古鏡の表の如く、五月雨霽れの日を受けて白く光つてゐる。湖心の方へ往復する汽船が煙を吐いて靜かに滑つてゆくのも見える。帆船が動いてゐるのも見える。そのあたりは山の上から眺めても湖水が最も狹められてゐる處で、向ふ側から長く突き出して來て
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近松秋江
比叡山延暦寺の、今、私の坐つてゐる宿院の二階の座敷の東の窓の机に凭つて遠く眼を放つてゐると、老杉蓊鬱たる尾峰の彼方に琵琶湖の水が古鏡の表の如く、五月雨霽れの日を受けて白く光つてゐる。湖心の方へ往復する汽船が煙を吐いて靜かに滑つてゆくのも見える。帆船が動いてゐるのも見える。そのあたりは山の上から眺めても湖水が最も狹められてゐる處で、向ふ側から長く突き出して來て
牧野信一
友人である医学士のF君が、オースチンを購入したので、案内車を先に立てながら富士の五湖をまはつて来ようと、或る晩わたしの部屋を訪れた。神経科の専攻であるF君は、かねがねわたしの病状については深い留意を払ひ、年来にわたつて投薬をつゞけてゐて呉れる人であつた。ともかく文字のことは忘れるんだね、花をつくることをすゝめるよ――F君は切りとさう云つて、然し酒は寧ろ結構だ
野上豊一郎
湖水めぐり 野上豐一郎 大正八年八月四日。 青楓君と大月に下りたのは午前九時三十三分だつた。停車場の前に並んでゐる小さい低い赤と青で塗つた平たい馬車と宿屋の前に吊してある無數の雜色の手拭みたいな講中のビラがまづ目についた。次の汽車で來る二人の同行者を待つために、私たちは濱野屋といふ家の二階の奧の間に寢ころんで、すぐ前に横たはつてゐる圓いずんぐりした山の形に感
鈴木三重吉
湖水の女 鈴木三重吉 一 むかしむかし、或山の上にさびしい湖水がありました。その近くの村にギンという若ものが母親と二人でくらしていました。 或日ギンが、湖水のそばへ牛をつれていって、草を食べさせていますと、じきそばの水の中に、若い女の人が一人、ふうわりと立って、金の櫛で、しずかに髪をすいていました。下にはその顔が鏡にうつしたように、くっきりと水にうつッていま
豊島与志雄
湖水と彼等 豊島与志雄 もう長い間の旅である――と、またもふと彼女は思う、四十年の過去をふり返って見ると茫として眼がかすむ。 顔を上げれば、向うまで深く湛えた湖水の面と青く研ぎ澄された空との間に、大きい銀杏の木が淋しく頼り無い郷愁を誘っている。知らない間に一日一日と黄色い葉が散ってゆく、そして今では最早なかば裸の姿も見せている。霜に痛んだ葉の数が次第に少くな
鈴木三重吉
湖水の鐘 鈴木三重吉 一 或山の村に、きれいな、青い湖水がありました。その湖水の底には、妖女の王さまが、三人の王女と一しよに住んでゐました。王さまは、夏になると、空の青々と晴れた日には、よく、小さな妖女たちをつれて、三人の王女と一しよに、真珠の舟に乗つて出て来て、湖水の岸のやはらかな草むらへ上りました。 妖女たちは大よろこびで、草の中をかけまはつたり、小さな
久生十蘭
この夏、拠処ない事情があって、箱根蘆ノ湖畔三ツ石の別荘で貴様の母を手にかけ、即日、東京検事局に自訴して出た。 審理の結果、精神耗弱と鑑定、不論罪の判決で放免されたが、その後、一ヵ月も経たぬうちに、端無くもまた刑の適用を受けねばならぬことになった。これは普通に秩序罪と言われるもので、最悪の場合でも二年位の懲役ですむから、このたびも逸早く自首して刑の軽減を諮るの
葛西善蔵
たうとうこゝまで逃げて來たと云ふ譯だが――それは實際悲鳴を揚げながら――の氣持だつた。がさて、これから一體どうなるだらう、どうするつもりなんだらうと、旅館の二階の椅子から、陰欝な色の湖面を眺めやつて、毎日幾度となく自問自答の溜息をついた。海を拔くこと五千八十八尺の高處、俗塵を超脱したる幽邃の境、靈泉湧出して云々――と書き出してある日光湯本温泉誌と云ふのを、所
岡本綺堂
ゆず湯 岡本綺堂 一 本日ゆず湯というビラを見ながら、わたしは急に春に近づいたような気分になって、いつもの湯屋の格子をくぐると、出あいがしらに建具屋のおじいさんが濡れ手拭で額をふきながら出て来た。 「旦那、徳がとうとう死にましたよ。」 「徳さん……。左官屋の徳さんが。」 「ええ、けさ死んだそうで、今あの書生さんから聞きましたから、これからすぐに行ってやろうと
澤西祐典
「貴様は別府のこと、何もわかっちょらんな。これやからよそ者は好かんちゃ、偉そうにしくさってから」 首藤は、大分合同新聞の夕刊に、太田の写真入り記事を見つけ、彼から言われた言葉を思い出した。途端、頬に熱が上った。新聞を乱暴に丸め、ごみ箱に投げ捨てる。大阪行きのフェリーの船内には、陽気な音楽が流れていた。 ――どうしてこんなことになってしまったのだろうか。 たし
豊島与志雄
湯元の秋 豊島与志雄 私は或る秋の初め、日光の奥の湯元温泉に約二週間ばかり滞在していた。十二月には雪を避けて人は皆麓の方へ下りてゆくという山中なので、日当りのいい傾斜面にはまだ種々な花が咲いているのに、野の草葉はもう霜枯れていた。霜枯れの頃になると、山国の人の心は何かしらしめやかになって、祈願するがような眼を空に向けるものである。そして私も、じっと自分一人の
国木田独歩
湯ヶ原ゆき 国木田独歩 一 定めし今時分は閑散だらうと、其閑散を狙つて來て見ると案外さうでもなかつた。殊に自分の投宿した中西屋といふは部室數も三十近くあつて湯ヶ原温泉では第一といはれて居ながら而も空室はイクラもない程の繁盛であつた。少し當は違つたが先づ/\繁盛に越した事なしと斷念めて自分は豫想外の室に入つた。 元來自分は大の無性者にて思ひ立た旅行もなか/\實
国木田独歩
湯ヶ原より 国木田独歩 内山君足下 何故そう急に飛び出したかとの君の質問は御尤である。僕は不幸にして之を君に白状してしまはなければならぬことに立到つた。然し或はこれが僕の幸であるかも知れない、たゞ僕の今の心は確かに不幸と感じて居るのである、これを幸であつたと知ることは今後のことであらう。しかし將來これを幸であつたと知る時と雖も、たしかに不幸であると感ずるに違
長岡半太郎
我邦では敗戰の創痍未だ癒えず、媾和條約未だ締結されず、國民は暗雲に鎖された氣持ちに包まれている際、湯川博士がノーベル賞を受けられた吉報に接したのは、黒雲の一隅から一條の日光が燦爛たる輝きを示した心地がして、專門家に限らず大衆に至るまで、歡聲をあげて喜びを同じくしました。しかしその喜びには、いろ/\の素因が伏在しています。單に世界で最も重きを置くノーベル賞が初
中谷宇吉郎
十一月四日は、たまたま函館にある北大の水産学部で、文化講義をする日になっていた。 朝、学校へ顔を出したら、とたんに学部長の武田さんが、「先生、今朝のラヂオの臨時ニュースを御ききですか。湯川博士がノーベル賞を貰うことに決ったそうですが」と、やや興奮した語調で話し出された。 「そうですか。それはたいへんなニュースですね。ちっとも知りませんでした」 「昨夜のニュー
北大路魯山人
一番最初鍋の中に切れ目のある昆布を敷き、鍋の深さの半分目以上水を入れる。三寸の鍋なら上一寸を余して水を入れ、およそ一寸角くらいに切った豆腐をこわさないようにそっと入れる。杉箸ではさんでそっと入れる。それを火力の強い火の上にかけ、鍋の蓋をしておく。約五分位で、火さえ強ければ、初めてぽっと煮え上がる。その時豆腐を箸でおして見ると軽い弾力ができていて、肴の白子かク
岸田国士
「満洲国各民族創作選集」選者のことば 岸田國士 満洲に文学が生れようとしてゐる。多くは満洲の文学を生まうとする人たちの手によつてである。 私は先年満洲のところどころを歩いて、そこで新しい国が興り、いくつかの民族のまつたく異つた伝統と生活のうちから、どこでも万人共通の歴史がすでに呼吸しはじめてゐるのを感じ、これがやがて民族の特殊性を超えたのつぴきならぬ国民的意
中谷宇吉郎
八月の下旬思い立って、満洲へ出かけて見た。ちょっと急いでいたので、往きは航空会社の旅客機で、東京から奉天〔瀋陽〕まで飛んだ。 今度の満洲行は、私たちがこの十年近く手を染めている低温科学の色々な問題に関連して、厳寒の満洲の野に働く人たちから、実地の問題について教えを乞い、今後の連絡にも資しようというつもりであった。それでその方面の研究に前から着手している満鉄の
牧野信一
苗字は省きますが満里子君は私の少数の女友達のうちで、数年以来変らぬ親愛と信頼とを惜みなく持ち続けてゐる可憐で快活な人です。満里子君も亦私に対して満腔の尊敬と敬愛とを捧げてゐます。つい此間満里子君は私の、これも亦満里子君同様に、私は親愛を、彼は敬愛を互ひに譲り合つた験しもないといふいとも円満な交遊を持ち続けてゐる私の年下の友達のR君と華燭の典を挙げました。 そ
太宰治
満願 太宰治 これは、いまから、四年まえの話である。私が伊豆の三島の知り合いのうちの二階で一夏を暮し、ロマネスクという小説を書いていたころの話である。或る夜、酔いながら自転車に乗りまちを走って、怪我をした。右足のくるぶしの上のほうを裂いた。疵は深いものではなかったが、それでも酒をのんでいたために、出血がたいへんで、あわててお医者に駈けつけた。まち医者は三十二
国木田独歩
源おじ 国木田独歩 上 都より一人の年若き教師下りきたりて佐伯の子弟に語学教うることほとんど一年、秋の中ごろ来たりて夏の中ごろ去りぬ。夏の初め、彼は城下に住むことを厭いて、半里隔てし、桂と呼ぶ港の岸に移りつ、ここより校舎に通いたり。かくて海辺にとどまること一月、一月の間に言葉かわすほどの人識りしは片手にて数うるにも足らず。その重なる一人は宿の主人なり。ある夕
岡本綺堂
源之助の一生 岡本綺堂 田圃の太夫といわれた沢村源之助も四月二十日を以て世を去った。舞台に於ける経歴は諸新聞雑誌に報道されているから、ここにはいわない。どの人も筆を揃えて、江戸歌舞伎式の俳優の最後の一人であると伝えているが晩年の源之助は寄る年波と共に不遇の位地に置かれて、その本領をあまりに発揮していなかった。 源之助が活動したのは明治時代の舞台で、大正以後の
沖野岩三郎
源八栗 沖野岩三郎 一 もうりい博士は、みなとの汽船会社から、こまりきつたかほをして、かへつて来ました。それは、午後一時に、出るはずの汽船が、四時にのびたからです。 もうりい博士は今晩の八時から、次の町でお話をする、やくそくをしてあるのです。だから、四時のおふねにのつては、十時すぎにしか、次の町へつくことが出来ないのです。 ふねにのらないとすれば、三十きろの
喜田貞吉
往時「エタ」と呼ばれておった不幸なる人々は、本来いかなる性質のものか、またいかなる事情からかくの如き気の毒なる境遇に落ちたか。この解決は自分の日本民族史研究上、最も必要なる事項であるのみならず、この人達と一般社会との真の融和を得る上にも、まず以て是非とも知っておかなければならぬ問題であると信ずる。 それについて自分は、「穢多」という同情なき文字の使用に甚だ多