ドナウ源流行
斎藤茂吉
この息もつかず流れている大河は、どのへんから出て来ているだろうかと思ったことがある。維也納生れの碧眼の処女とふたりで旅をして、ふたりして此の大河の流を見ていた時である。それは晩春の午後であった。それから或る時は、この河の漫々たる濁流が国土を浸して、汎濫域の境線をも突破しようとしている勢を見に行ったことがある。それは初冬の午後であっただろうか。そのころ活動写真
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斎藤茂吉
この息もつかず流れている大河は、どのへんから出て来ているだろうかと思ったことがある。維也納生れの碧眼の処女とふたりで旅をして、ふたりして此の大河の流を見ていた時である。それは晩春の午後であった。それから或る時は、この河の漫々たる濁流が国土を浸して、汎濫域の境線をも突破しようとしている勢を見に行ったことがある。それは初冬の午後であっただろうか。そのころ活動写真
豊田喜一郎
私は過去四年間を自動車と寢食を共にして、四六時中唯それのみを考へつゞけて來ました。所が此處に發令されました自工法案の實施に當り、弊社が逸早く特許許可會社の指令を受けた事は身に餘る感激事でありますが之と同時に今迄の樣に單に自動車の事を考へるばかりではすまされない重大責任を擔ふに至つたのであります。國家に對する義務として當然一日も早く自動車の大量生産を實現して國
豊島与志雄
溺るるもの 豊島与志雄 一 或る図書館員の話 掘割の橋のたもとで、いつも自動車を乗り捨てた。 眼の届く限り真直な疏水堀で、両岸に道が通じ、所々に橋があって、黒ずんだ木の欄干が水の上に重り合って見える。右側は大きな陰欝な工場、左側は小さな粗末な軒並……。その軒並の彼方、ぼうっとして明るみの底、入り組んだ小路の奥に、燐光を放ってる一点があった――彼女がいた。 燐
原民喜
溺死・火事・スプーン 原民喜 父に連れられて高松から宇治への帰航の途中だった。号一は一人で甲板をよちよち歩き廻って、誰もゐない船尾へ来ると、舵へ噛みつく波のまっ白なしぶきを珍しがって眺めてゐた。それは白熊のやうな恰好になったり、時には巨人の貌になった。あたりの海は凡て穏かに煙ってゐたのに、号一が視凝めてゐる部分だけが怒り狂ってゐた。号一はその渦のなかに巻込ま
嘉村礒多
滑川畔にて 嘉村礒多 北鎌倉で下車して、時計を見ると十時であつた。驛前の賣店で簡單な鎌倉江の島の巡覽案内を買ひ、私とユキとは地圖の上に額と額とを突き合せて、圓覺寺の所在をさがしても分らなかつた。 「圓覺寺といふのは、どちらでございませうか?」 ユキが走つて行つて、そこの離々と茂つた草原の中の普請場で鉋をかけてゐる大工さんに訊いて見てから、二人は直ぐ傍の線路を
原民喜
雁江の病室には附添ひの看護婦がゐた。彼女と同じ位の年輩だったが、看護婦の方が遙かに大人びてゐた。長い患ひが、この頃やうやく癒えて来ると、雁江は身体だけでなく心までがすっかり変って来るやうな気がした。病室には早咲きのシクラメンがあった。看護婦は四六時中雁江の部屋にゐた、もう一カ月あまりその部屋の空気を一緒に呼吸して来たのだった。病気に罹ると云ふことを雁江はもと
今井邦子
瀧を見ることはたのしいことです。 瀧は私はどんな小さい瀧でも、たとへば行きずりに見るほどのものでも、必ず一寸立ち止まつてその水の音をきゝ、碎け落つる白泡を見て一瞬たのしい心になる程好きなのであります。 私は近年、夏を郷里の信濃下諏訪町のカメヤホテルといふ古風な旅館にすごす事に定つてしまひましたが、それはその家の人々が家族的に親切であるといふ事も大きい原因です
萩原朔太郎
みどりをつらぬきはしる蛇、 瀬川ながれをはやみゆき、 ゆめと流れて瀧はおつ、 たうたうたる瀧の水音、 音なみさえ、 主も遠きより視たまへば、 銀の十字をかけまつる、 我しもひとり瀧水の、 若葉に靴を泳がして、 念願せちに涙たる、 念願せちに涙たる。 ●図書カード
尾崎士郎
瀧は没落の象徴である。その没落がいかに荘厳であるかということについて説こう。 私は一日天城の峻嶺を越え、帰途、山麓の雑木林の中の細径に、しめやかな落葉のにおいを踏んで浄簾の瀧の前に立った。 冷々とした水煙を頬に感じながら、私は夕暮るる大気の中を白々といろどる瀧を眺めた。私の心は幾度びとなく瀧とともに没落した。すると、ある自暴自棄な感慨が私を圧えつけた。私は眼
高山樗牛
やがて來む壽永の秋の哀れ、治承の春の樂みに知る由もなく、六歳の後に昔の夢を辿りて、直衣の袖を絞りし人々には、今宵の歡曾も中々に忘られぬ思寢の涙なるべし。 驕る平家を盛りの櫻に比べてか、散りての後の哀れは思はず、入道相國が花見の宴とて、六十餘州の春を一夕の臺に集めて都西八條の邸宅。君ならでは人にして人に非ずと唱はれし一門の公達、宗徒の人々は言ふも更なり、華冑攝
牧野信一
僕はね、親父たちが何といつたつて、キエ、お前と、結婚するよ……。 三千雄は、はつきりと、いく度もキエの手をとつて、さうはいつてゐたものゝ、キエは、里にかへつて日が経つにつれて、哀しさといふほどのこともなく、むしろ苦笑に似たものを感じた。何か、もう、断ち難い関係でもがあるかのやうに、三千雄の親たちが騒ぎ出したので、キエは自分から先に暇をとつて里に戻つた。自分は
正岡容
私は半生をつうじての貧困の生活を、昭和初世の滝野川と杉並馬橋とでおくつた。場末の洋食店に女給をしてゐた、醜貌の上に無教養至極だつた女との腐れ縁の生活が絶えようとしてはまた続き、常に順環小数のやうな別れ話の繰返しに漸く私の生活は精神物質共に日に/\不如意とはなつて行く許りであつた。その上はじめ西ヶ原の雪中庵ちかくの西洋洗濯店の二階借りをしてゐたのがやがて近傍の
牧野信一
停車場へ小包を出しに行き、私は帰りを、裏山へ向ふ野良路をたどり、待ち構へてゐた者のやうにふところから「シノン物語」といふ作者不明の絵本をとり出すと、それらの壮烈な戦争絵を見て吾を忘れ、誰はゞかることも要らぬ大きな声を張りあげて朗読しながら歩いてゐた。歩く――と云つても朗読の方へ大方の注意を込めてゐたから、一間すゝむと其処に五分間も立ちどまつて、神妙に首をひね
マクラウドフィオナ
シェーン婆さんは青々した草原の向うのほそい流れで馬鈴薯の皮むきに使う板を洗うとやがて自分の小舎に帰って来て泥炭の火の前に腰を下ろした。 婆さんはもうひどく年をとっていた。それに、真夏の日のいちにち、陽はよく当っていたけれど、山風は肌さむかった。泥炭の火の前で休むのはうれしいことだった。 婆さんの小舎は山の斜面にあって南に向いていた。北も南も東も西も、ほかの山
宮原晃一郎
漁師の冒険 宮原晃一郎 いつの頃でしたか、九州の果の或海岸に、仙蔵と次郎作といふ二人の漁師がをりました。 或日二人はいつものとほり小さな舟にのつて沖へ漁に出ますと大風が吹いて、とほくへ流されました。けれども運よく舟も沈まず、怪我もしないで、とある島へ流れつきました。二人はお腹がすいてゐるものですから、早く人家のあるところへ出て、御飯をたべさして貰はうと、奥の
徳冨蘆花
常陸の国霞が浦の南に、浮島と云って、周囲三里の細長い島がある。 二百あまりの家と云う家はずらり西側に並んで、向う岸との間は先ず隅田川位、おおいと呼べば応と答えて渡守が舟を出す位だが、東側は唯もう山と畠で持切って、それから向うへは波の上一里半、麻生天王崎の大松も、女扇の絵に画く子日の松位にしか見えない。 此の浮島の東北の隅の葭蘆茫々と茂った真中に、たった一軒、
グリムヤーコプ・ルートヴィッヒ・カール
むかしむかし、ひとりの漁師とそのおかみさんがおりました。ふたりは、海のすぐそばの小屋に住んでいました。漁師はまい日魚つりにでかけました。あけてもくれても、魚つりばかりしていました。 あるとき、漁師はつりざおのそばにすわって、きらきらかがやく水のなかをじっとのぞきこんでいました。漁師は、いつまでもすわったきりでした。 と、とつぜん、つり糸が水底ふかくぐんぐんし
宮本百合子
漁村の婦人の生活 宮本百合子 随分昔のことであるけれども、房州の白浜へ行って海女のひとたちが海へ潜って働くのや天草とりに働く姿を見たことがあった。 あの辺の海は濤がきつく高くうちよせて巖にぶつかってとび散る飛沫を身に浴びながら歌をうたうと、その声は濤の轟きに消されて自分の耳にさえよくきこえない。雄大な外洋に向って野島ケ崎の燈台が高く立っている下の浜辺にところ
折口信夫
漂著石神論計画 折口信夫 1 柳田先生の民俗学的研究上、一大体系をなす石信仰。今新な回顧の時に達した。2 諸国海岸に、古代より神像石の存在した事実。3 神像石の種類。 a 定期或は、臨時に出現するもの。 ┌イ、海岸。 b 常在するもの┤ロ、海岸から稍隔つた地。 └ハ、海中の島又は、岩礁。4 神像石の様態。 a 唯の石であるもの
野上豊一郎
演出 野上豊一郎 能の芸術価値は、ひとへにそれが舞台芸術としての存在の上に係つてゐるものであるから、演出が殆んど能の全価値であるといつてもよい。 それほど重大な演出の問題が、従来能の研究者の間に於いて等閑視されて来たのは、能の研究といへば多くは文学的に能の台本(謡曲)の訓詁註釈に没頭するとか、原典批判を試みるとか、或ひは、歴史的に能の発生・発展に関する史実の
岸田国士
演出について 岸田國士 以前は単に「舞台監督」と呼ばれてゐた者が、今日では「演出者」といふ名称を与へられ、その下に、更に「舞台監督」なるものや、「演出助手」なるものが従属するやうなシステムを、少くとも新劇団体の間で採用してゐるのは、多分、築地小劇場あたりの「独逸流演出法」から範を取つたものだと思はれるが、近代に於ける演劇革命の一特色が、舞台労役の組織化に在つ
岸田国士
近代劇の古典といわれるゴーリキイの「どん底」を文学座がそのレパートリーのなかに入れたことは、そんなに驚くには当らない。 しかし、私が演出を引受けるについては、自分でもその柄でないような気がしなくもなかつた。 第一に、私はロシア文学について勉強が足りず、原作も原語で読めない弱味は、戯曲演出の場合はまず致命的といつていいからである。 それにも拘わらず、私は、少々
岸田国士
演出者として 岸田國士 芸能祭の為の臨時公演として、特に内村直也君の書卸ろした戯曲「歯車」を幹事会の指名によつて私が演出することになつたのだが、私は先づ、この戯曲の主題と形式について研究した。表題の歯車は都会と農村との相関性を象徴すると同時に、社会の有機的な活動単位に於ける「個人」の在り方について一つの暗示を含むものと解釈した。 この作品はかういふ主題を率直
岸田国士
本書を編むにあたって、私は、「まえがき」に述べたような精神と内容を盛るために、特にその題目と執筆者の人選に意をくばった。 一、どんな芝居がよい芝居か この問いに答える最も適当な人として、私は、京都大学教授英文学者にして、演劇学者として私の長年にわたる演劇活動を通じての畏友、山本修二君をすぐ頭に浮べた。私の希望はかなえられた。 一、演劇と社会生活 これは、現代