無題抄
上村松園
無題抄 上村松園 私には、どうも絵以外のことですと、どうせ余技にすぎないからという気がして、打ち込んで熱中する気になれない性分があるようです。三味線にしても長唄にしても、最初は謡曲にしても、皆そういう風にずぼらに考えていました。 が、近頃では、如何に余技にしても、どうせやるからには、何かひとつくらい懸命にやってみようという気になって来ています。 上手な人のを
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上村松園
無題抄 上村松園 私には、どうも絵以外のことですと、どうせ余技にすぎないからという気がして、打ち込んで熱中する気になれない性分があるようです。三味線にしても長唄にしても、最初は謡曲にしても、皆そういう風にずぼらに考えていました。 が、近頃では、如何に余技にしても、どうせやるからには、何かひとつくらい懸命にやってみようという気になって来ています。 上手な人のを
野村胡堂
「海野さんのものを全部読まして下さい」と言って来た、若い電気学生があった。それは私の知人の次男坊で、私の書いたものなどは、鼻であしらって、一向感服した顔もしてくれないお点の辛い青年であったが、海野君の作品にひどく傾倒して、私の持っている海野十三氏著の幾十冊を悉く読破して、まだもの欲しそうな顔をしているのであった。 その青年は今はもう立派な弱電気の学者になり、
田中貢太郎
昭和九年三月二十一日の函館の大火は、その日の午後六時から翌朝の七時まで燃えつづけて、焼失家屋二万四千戸、死傷者三千人を出したが、その時火に追われた市民は、猛火の中をくぐって安全な場所から場所へと逃げ廻った。しかし、風速三十メートルの烈風に煽られた猛火の中では、どうすることもできなかった。 山から海へ、避難民は続々としておしかけたが、そこでもまた猛火に包まれて
宮本百合子
カメラの焦点 宮本百合子 写真機についての思い出は、大層古いところからはじまる。 私が九つになった年の秋に、イギリスに五年いた父親がかえって来た。横浜へ迎えにゆくというので、その朝は暗いうちに起きて、ラムプの下へ鏡台を出して母は髪を結った。私は当時ハイカラであった白いぴらぴらのついた洋服を着せられて行ったが、船宿へついた時は雨であった。俥で波止場へ向ったが、
富永太郎
母親は煎薬を煎じに行つた 枯れた葦の葉が短かいので。 ひかりが掛布の皺を打つたとき 寝台はあまりに金の唸きであつた 寝台は いきれたつ犬の巣箱の罪をのり超え 大空の堅い眼の下に 幅びろの青葉をあつめ 棄てられた藁の熱を吸ひ たちのぼる巷の中に 青ぐろい額の上に むらがる蠅のうなりの中に 寝台はのど渇き 求めたのに求めたのに 枯れた葦の葉が短かいので 母親は煎
中谷宇吉郎
アメリカにはいろいろな學校があるが、パン燒き大學というのまである、という話を最近聞いて、流石にちょっと驚いた。 本當の名前は、アメリカン・インスティテュート・オブ・ベーカリーというので、シカゴに堂々たる校舍をもっている。このごろシカゴで相當大規模な製パン、製菓業をやっている人と知り合いになったが、その家の息子が、この學校へはいったので、はじめてそういう學校が
岸田国士
見物のやじり方には、古今東西を通じていろいろあるやうだが、昔、仏蘭西では、舞台の俳優めがけて、腐つた卵や、焼き林檎を投げつけるといふ野蛮な風習があつた。 この風習は、後にやや緩和されて、口笛(シツフレ)となり、それでも、このシツフレはなかなか盛んで、「大根ひつこめ」ぐらゐの愛嬌では納まらない場合がある。 そこへ行くと、日本の見物は実に寛大で、役者は誠に気楽だ
斎藤茂吉
昭和二十年の五月に燒けた青山の家には、澤山の書物などがあつて、いまだに目のまへにちらついてかなはない。書棚も、それから、萬葉關係の古書なんかも、燒ける前その儘の姿であらはれて來る。殘念などといつたところで、もはや甲斐ないはなしである。 さういふ灰燼に歸した物の中に、一本の洋傘があつた。これは、大正十年の十月、自分が留學の途にのぼるとき、丸善で買つたものであつ
北大路魯山人
かねて日本を出発する前から、フランスの鴨料理について、やかましく聞かされていた。 それというのも、一方的な西欧礼賛が多く、ほんとうのところは分ったものではないと、私はひそかに考えていた。フランスがどうの、アメリカがどうのと、親切に話してくれる人たちが、日本のこととなると、実はよく知らないのだから、話が初めから狂っている。 日本人にして、日本を知らない連中が向
長谷川時雨
煎藥 長谷川時雨 腸を拂ふと欝血散じ、手足も暖まり頭輕く、肩張りなんぞ飛んでゆくと、三上の友人が漢方醫を同道されて、藥効神のごとしといふ煎藥をすすめてゆかれたので、わたしはそれを一服、ちよつと失禮して見た。 煎藥を、苦い顏をして飮み下したわたしは、あれとこれと、今日から明日中にしてしまふ仕事のはかどりを考へてニコついてゐた。頭をはつきりさせておかないことには
桐生悠々
煎じ詰めれば 桐生悠々 煎じ詰めれば、理想と現実との衝突である。我は理想を見つめて、しかも漸次にこれを進まんとしているにも拘らず、彼等は現実に執着して、唯その直面する難局を打開し得れば、それで以て足れりとしているのだ。 だから、煎じ詰めれば、未来と現在との衝突でもある。我はワンズマンの修正により、進化論の適者を以て未来の状況に適応する者としているに反して、彼
久生十蘭
飯倉の西にあたる麻布勝手ヶ原は、太田道灌が江戸から兵を出すとき、いつもここで武者揃えをしたよし、風土記に見えている。大猷院殿の寛永の末ごろは、草ばかり蓬々とした、うらさびしい場所で、赤羽の辻、心光院の近くまで小山田がつづき、三田の切通し寄り、菱や河骨にとじられた南下りの沼のまわりに、萱葺きの農家がチラホラ見えるほか、眼をさえぎるほどのものもないので、広漠たる
小川未明
うすぐもりのした空を、冷たい風が吹いていました。少年は、お母さんの、針仕事をなさる、窓のところで、ぼんやり、外の方をながめていました。もはや、木の葉がうすく色づいて、秋もふけてきました。 「さっきから、そこで、なにを見ているの。」と、お母さんが、少年のようすに気がついて、聞かれました。 「ぼく、煙を見ていたの。」 お母さんは、ちょっと手を止めて、その方を見る
小川未明
冬の晴れた日のことであります。太陽は、いつになく機嫌のいい顔を見せました。下界のどんなものでも、太陽のこの機嫌のいい顔を見たものは、みんな、気持ちがはればれとして喜ばないものはなかったのであります。 太陽は、だれに対しても差別なく、いつでも、喜んで話し相手になったからであります。ちょうどこのとき、太陽は、ちょろちょろと、白い煙をあげている煙突に向かって、 「
富永太郎
阪を上りつめてみたら、 盆のやうな月と並んで、 黒い松の木の影一本…… 私は、子供らが手をつないで歌ふ 「籠の鳥」の歌を歌はうと思つた。 が、忘れてゐたので、 煙草の煙を月の面に吐きかけた。 煙草は 私の 歌だ。 ●図書カード
萩原朔太郎
井桁古びた天井に 鼠の夢を驚かして 今朝年越しの煤拂ひ、 主人七兵衞いそいそと 店の小者を引具して 事に堪ふべく見えにけり。 さて若衆のいでたちや 奴冠りに筒袖の 半纏すがた意氣なるに 帶ぶや棕梠の木竹箒、 事あり顏に見交して 物物しくも構へたり。 お花、梅吉、喜三郎 ことし十五の小性とて 娘お蝶がませぶりを さげすみしたる樣もなく 家代代の重寶を そつと小
宮地嘉六
彼は波止場の方へふら/\歩いて行つた。此の土地が最早いつまでも長くは自分を止まらせまいとしてゐるやうで、それが自分のにぶりがちな日頃の決心よりも寧ろ早く、此の土地を去らねばならぬ時機が迫つて来はせぬかといふ、妙に心細い受け身の動揺の日がやつて来たのだ。勿論それは彼の思ひ過ぎでもあつた。これまでも屡々あつたことだ。こんな気持の時は足がおのづからステーションや波
夏目漱石
『煤煙』の序 夏目漱石 「煤煙」が朝日新聞に出て有名になつてから後間もなくの話であるが、著者は夫を単行本として再び世間に公けにする計画をした。書肆も無論賛成で既に印刷に回して活字に組み込まうと迄した位である。所が其頃内閣が変つて、著書の検閲が急に八釜敷くなつたので、書肆は万一を慮つて、直接に警保局長の意見を確めに行つた。すると警保局長は全然出版に反対の意を仄
正岡子規
時は午後八時頃、体温は卅八度五分位、腹も背も臀も皆痛む、 アッ苦しいナ、痛いナ、アーアー人を馬鹿にして居るじゃないか、馬鹿、畜生、アッ痛、アッ痛、痛イ痛イ、寝返りしても痛いどころか、じっとして居ても痛いや。 アーアーいやになってしまう。もうだめかな。もういかんや。ほんとうに人を馬鹿にしとる。いやになっちまうな。いやになりんすだ。いやだいやだも………だっていや
新美南吉
熊は月夜に声きいた。 どこか遠くでよんでゐた。 熊はむくりと起きて来た。 檻の鉄棒ひえてゐた。 熊は耳をばすましてた。 アイヌのやうな声だつた。 熊は故郷を思つてた。 落葉松林を思つてた。 熊はおゝんとほえてみた。 どこか遠くで、 こだました。 ●図書カード
久米正雄
熊といいますと、いうまでもなく恐しい猛獣ですが、熊だって何も好き好んで人を殺すのではありません。人が熊を恐しがるように、矢張熊の方でも人が恐いのです。そして人が来るのを知れば、熊の方で先逃げてくれるのです。けれども両方がふいに出合うか、どうしても顔を合せる外仕方のないような路ででも出合うと、熊も絶体絶命になって、激しく襲い掛るのです。ですから北海道の山道など
佐左木俊郎
熊の出る開墾地 佐左木俊郎 無蓋の二輪馬車は、初老の紳士と若い女とを乗せて、高原地帯の開墾場から奥暗い原始林の中へ消えて行った。開墾地一帯の地主、狼のような痩躯の藤沢が、開墾場一番の器量よしである千代枝を伴れて、札幌の方へ帰って行くのだった。 落葉松林が尽きると、路はもはや落ち葉に埋められて地肌を見せなかった。両側には山毛欅、いたやかえで、斎樹、おおなら、大
正岡子規
本郷の金助町に何がしを訪うての帰り例の如く車をゆるゆると歩ませて切通の坂の上に出た。それは夜の九時頃で、初冬の月が冴え渡って居るから病人には寒く感ぜられる。坂を下りながら向うを見ると遠くの屋根の上に真赤な塊が忽ち現れたのでちょっと驚いた。箒星が三つ四つ一処に出たかと思うような形で怪しげな色であった。今宵は地球と箒星とが衝突すると前からいうて居たその夜であった
宮原晃一郎
熊捕り競争 宮原晃一郎 一 御維新の少し前頃、北海道有珠のアイヌ部落にキクッタとチャラピタといふ二人の少年がゐました。キクッタは十七で、チャラピタは一つ下の十六でした。小さなときから、大へん仲好しで、遊ぶにも魚をとるにも、また罠をかけに行くにも、いつも一しよでした。ところが、その年になつて、二人が今までのやうに睦じくやつていけないことが起りました。それはアイ