お父さん
林芙美子
お父さん 林芙美子 1 僕はおとうさんが好きです。 おとうさんは、まるい顔をしています。このあいだ軍隊からかえってきました。僕は三年もおとうさんと会わなかったのです。おとうさんは、僕が寝ているうちにかえってきました。お土産に熊の仔を貰いました。熊の仔は、黒い木で刻んだものです。おとうさんは北海道に行つていたのです。 いつも僕は六時に起きて、妹や弟とおかあさん
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林芙美子
お父さん 林芙美子 1 僕はおとうさんが好きです。 おとうさんは、まるい顔をしています。このあいだ軍隊からかえってきました。僕は三年もおとうさんと会わなかったのです。おとうさんは、僕が寝ているうちにかえってきました。お土産に熊の仔を貰いました。熊の仔は、黒い木で刻んだものです。おとうさんは北海道に行つていたのです。 いつも僕は六時に起きて、妹や弟とおかあさん
佐藤垢石
父の俤 佐藤垢石 手もとは、まだ暗い。 父は、池の岸に腹這いになって、水底の藻草を叉手で掻きまわしている。餌にする藻蝦を採っているのである。 藻の間を掬った叉手を、父が丘へほおりあげると、私は網の中から小蝦を拾った。藻と芥に濡れたなかに、小さな灰色の蝦がピンピン跳ねている。 母は、かまどの下で火を焚きはじめたらしい。池のあたりまで薪のはねる音が聞こえてくる。
葛西善蔵
ほんのちょっとしたことからだったが、Fを郷里の妻の許に帰してやる気になった。母や妹たちの情愛の中に一週間も遊ばしてやりたいと思ったのだ。Fをつれてきてからちょうど一年ほどになるが、この夏私の義母が死んだ時いっしょに帰って、それもほんの二三日妻の実家に泊ってきたきりだった。この夏以来私は病気と貧乏とでずいぶん惨めだった。十月いっぱい私はほとんど病床で暮した。妻
田山花袋
父の墓 田山花袋 停車場から町の入口まで半里位ある。堤防になつてゐる二間幅の路には、櫨の大きな並木が涼しい蔭をつくつて居て、車夫の饅頭笠が其間を縫つて走つて行く。小石が出て居るので、車がガタガタ鳴つた。 堤防の下には、処々に茅葺屋根が見える。汚ない水たまりがあつて、其処に白く塵埃に塗れた茅や薄が生えて居る。日影のキラキラする夏の午後の空に、起伏した山の皺が明
牧野信一
彼は、自分の父親を取りいれた短篇小説を続けて二つ書いた。 或る事情で、或日彼は父と口論した。その口論の余勢と余憤とで、彼はそれ迄思ひ惑うてゐたところの父を取り入れた第一の短篇を書いたのだ。その小説が偶然、父の眼に触れた。父親は憤怒のあまり、 「もう一生彼奴とは口を利かない。――俺が死ぬ時は、病院で他人の看護で死ぬ。」と顔を赤くして怒鳴つたさうだ。だから彼は、
上司小剣
父の婚禮といふものを見たのは、決して自分ばかりではない。それは繼母といふものを有つた人々の、よく知つてゐることである。 曾て、クロポトキンの自傳を讀んだ時、まだ二十とはページを切らぬところに、父の婚禮を見ることが書いてあつたことを覺えてゐる。 ……母が死んでから、父はもうそろ/\其の眼を世間の若い美しい娘たちの上に投げた。――といふやうなことが、あの黄色い假
豊島与志雄
父と子供たち 豊島与志雄 平時にあっては、父親は子供たちにとって、一種の大きな友だちであり、且つ、雨露をしのぐ家屋のようなものである。時々相手になってくれ、またじっとそこに控えていてくれる、それだけで充分なのだ。その影で、子供たちは彼等自身の世界を持つ。 休暇になって、何かの興にかられ、三人の子供たちだけで相談しあって、いきなり宣言する。 「お父さま、あたく
牧野信一
「いくら日曜の朝だからつて、もうお起ししなければいけませんわ。もう十時ぢやありませんか。美津子さん、お前お二階に行つてお父さんをお起ししていらつしやい。」 お母さんにかう云はれると、美津子は直ぐに立ちあがりました。他の用だとかう直ぐには承知しないのですが、お父さんをお起しするといふことが、大好きなのです。別に理由もないんですが、何だか自分が斯うちよつと偉くな
小林多喜二
父帰る 小林多喜二 夫が豊多摩刑務所に入ってから、七八ヵ月ほどして赤ん坊が生れた。それでお産の間だけお君はメリヤス工場を休まなければならなかった。工場では共産党に入っていた男の女房を一日も早く首にしたかったので、それがこの上もなくいゝ機会だった。――それでお君は首になってしまった。 お君は監獄の中にいる夫に、赤ん坊を見せてやるために、久し振りで面会に出掛けて
小寺菊子
「あれ誰だか、兄さんは知つとるの!」 「知らん!」 「ちよつとそこ覗いて来ると分るわ。」 小学校から帰つて来た兄と妹である。部屋一つ隔てた奥の座敷を、兄の孝一は気味わるさうにそつと覗きに行つた。 「分つた?」 賢こい眼を輝かせて、みよ子は微笑した。 「うゝん。」 孝一は頭を振つた。 「をかしな兄さん、恍けとるのね、」 「………………」 可愛い下り眼の兄の表情
豊島与志雄
父の形見 豊島与志雄 正夫よ、君はいま濃霧のなかにいる。眼をつぶってじっとしていると、古い漢詩の句が君の唇に浮んでくるだろう。幼い頃、父の口からじかに君が聞き覚えたものだ。 その頃君の父は、土地の思惑売買に失敗し、更に家運挽回のための相場に失敗し、広い邸宅を去って、上野公園横の小さな借家に移り住んでいた。君の母はもう亡くなっていた。老婢が苦しい世帯をきりもり
久米正雄
父の死 久米正雄 一 私の父は私が八歳の春に死んだ。しかも自殺して死んだ。 二 その年の春は、いつもの信州に似げない暖かい早春であつた。私共の住んでゐた上田の町裾を洗つてゐる千曲川の河原には、小石の間から河原蓬がする/\と芽を出し初めて、町の空を穏かな曲線で画つてゐる太郎山は、もう紫に煙りかけてゐた。晴れた日が幾日も続いて乾いた春であつた。雪解時にもかゝはら
豊島与志雄
父母に対する私情 豊島与志雄 私は初め、父と母とのことを書くつもりだった。そして愈々ペンを執って原稿紙に向うと、それが書けなくなった。 父と母とに対する私の感情のうちには、何かしら神聖なるものがある。その神聖なるものが、父と母とのことを書くのの妨げとなる。父と母とを自分からつき離して客観的に眺め、具体的に描写し、それを公表する、そういったことを今の私は為し難
今野大力
住み古した父母達の家に 父母達の顔にきざんだ皺をかぞえることなく 老いたる父母達の苦難な生活の有様を覗い見ることなく 俺の健康な顔を見せ ガッシリとしてきた手を差のべることなく 街の中に 幾百万の人民の中の一人となり 父母達の家を 数々の家々とひとしく見過して 立去るおもい、 逢わねば心細くもあり 語らねば物がなしくもある わが子をはげまし わが子を階級戦の
原民喜
広子は父が出て行くと毎日一人でアパートの六畳で暮した。お昼頃父が拵へて置いてくれた弁当を食べると、絵本などを見てゐるが、そのうちに段々淋しくなって耳を澄ます。すると隣りの部屋には夜半によく夢をみて怒鳴る怕い小父さんがゐるらしいのだが、ことりとも物音を立てないので何をしてゐるのか気味が悪くなる。と、それが直ぐにむかふに通じたのか、突然隣りの小父さんはへらへらと
牧野信一
彼が、単独で清友亭を訪れたのはそれが始めてだつた。――五月の昼日仲だつた。 「先に断つておくがね、僕今日は用事で来たんぢやないよ。……芸者をよんで、そして僕を遊ばせて呉れ。」 彼は、玄関に突ツ立つて、仏頂面でそんな言訳をした。彼の姿を見ると、女将は眼を伏せて、黙つて頭をさげた。それで彼は、一寸胸が迫つたので、慌てゝそんな気分をごまかす為に、決して云ひたくはな
葛西善蔵
いよいよ明日は父の遺骨を携えて帰郷という段になって、私たちは服装のことでちょっと当惑を感じた。父の遺物となった紋付の夏羽織と、何平というのか知らないが藍縞の袴もあることはあるのだが、いずれもひどく時代を喰ったものだった。弟も前年細君の父の遺物に贈られた、一族のことで同じ丸に三つ柏の紋のついた絽の羽織を持っているが、それはまた丈がかなり短かかった。 「追而葬式
小川未明
娘の父親は、船乗りでしたから、いつも、留守でありました。その間、彼女は、お父さんを恋しがっていたのです。 「いまごろは、どこに、どうしておいでなさるだろうか?」 こう思うと、少女の目には、はてしない青い海原がうかびました。そして、その地平線を航海している、汽船の影が見えたのであります。 「もう、いくつ眠たら、お父さんは、お帰りなさるだろう?」 彼女は、毎日、
田山花袋
多喜子は六歳の時に此処に来たことがあるさうであるけれども、さうした覚えは少しもなかつた。石段になつてゐるやうな坂の両側に宿屋だの土産物を売る店だのが混雑と並んでゐて、そのところところから温泉の町のしるしである湯気がぱつと白く夜の空気を隈取つた。 『不思議ね。ちつとも覚えてゐないわ』 『さう……』 姉の政子はそんなことは何うでも好いといふやうに素気なく言つて、
小川未明
吉坊は、父親に、自転車を買ってくれるようにと頼みました。 「そんなものに、乗らなくたって、いくらでも遊べるでないか、ほかの子供をけがさしてみい、たいへんだぞ。もうすこし大きくなってから、買ってやる。」と、父親は頭を振りました。 「清ちゃんも、徳ちゃんも、みんな自転車を持っているのに、僕だけ持っていないのだもの、つまんないなあ。」と、吉坊は、いくら頼んでもむだ
内藤湖南
爾雅の新研究 内藤湖南 爾雅の研究に就いては余は嘗て之を二つの方面から考へたことがある。即ち一は新らしい言語學に依つて研究する方法であつて、これは爾雅が如何なる成立の書であるとも、又其の中に含んでゐる言語が如何なる時代、若しくは地方のものであるとも、それらのことを必ずしも穿鑿することなしに、單にこれを支那古代の言語を集めた書として、其の傍近の種族が有する國語
宮本百合子
片すみにかがむ死の影 宮本百合子 うす暗き片すみにかがむ死の影は 夜の気の定まると共に その衣のひだをまし 光をまし 毒気をまして 人間の心の臓をうかがいて迫る。 黒き衣の陰に 大鎌は閃きて世を嘲り 見すかしたる様にうち笑む 死の影は長き衣を引きて足音はなし 只あやしき空気の震動は 重苦しく迫りて 塵は働きを止めかたずのみて 其の成り行きを見守る。 大鎌の奇
小川未明
さびしい片田舎に、おじいさんとおばあさんが住んでいました。 ある日、都にいるせがれのところから、小包がとどいたのです。 「まあ、まあ、なにを送ってくれたか。」といって、二人は、開けてみました。 中から、肉のかん詰めと果物と、もう一つなにかのかん詰めがはいっていました。 「これは、おいしそうなものばかりだ。」といって、二人は喜びました。 夕飯のときに、おじいさ
小栗風葉
降続きたる卯の花くだしようようはれて、かき曇りたる天もところどころ雲の切間を、朧なる五日の月は西へ西へと急ぐなり。千載茲許に寄せては返す女浪男浪は、例の如く渚を這上る浪頭の彼方に、唯形ばかりなる一軒立の苫屋あり。暮方より同じ漁師仲間の誰彼寄り集いて、端午の祝酒に酔うて唄う者、踊る者、跂る者、根太も踏抜かんばかりなる騒ぎに紛れて、密と汀に抜出でたる若き男女あり