狐のつかい
新美南吉
狐のつかい 新美南吉 山のなかに、猿や鹿や狼や狐などがいっしょにすんでおりました。 みんなはひとつのあんどんをもっていました。紙ではった四角な小さいあんどんでありました。 夜がくると、みんなはこのあんどんに灯をともしたのでありました。 あるひの夕方、みんなはあんどんの油がもうなくなっていることに気がつきました。 そこでだれかが、村の油屋まで油を買いにゆかねば
Perpustakaan pengetahuan dunia domain publik
新美南吉
狐のつかい 新美南吉 山のなかに、猿や鹿や狼や狐などがいっしょにすんでおりました。 みんなはひとつのあんどんをもっていました。紙ではった四角な小さいあんどんでありました。 夜がくると、みんなはこのあんどんに灯をともしたのでありました。 あるひの夕方、みんなはあんどんの油がもうなくなっていることに気がつきました。 そこでだれかが、村の油屋まで油を買いにゆかねば
土田耕平
枕もとの障子に笹の葉のかげがうつりました。 「太郎や、お月さまが出ましたよ。」 とおばあさんが云ひました。太郎さんは顔をあげて、おもしろく模様形をした笹の葉のかげを、しばらく見てゐましたが、 「障子をあけて見ようかね、おばあさん。」 「いゝえ、外は寒いからこのまゝがいゝよ。」 秋の夜は早く更けてこほろぎの声がほそ/″\とひゞいてゐます。太郎さんとおばあさんは
宮本百合子
狐の姐さん 宮本百合子 七月○日 火曜日 散歩。 F子洗髪を肩に垂らしたまま出た。水瓜畑の間を通っていると、田舎の男の児、 狐の姐さん! 化け姐さん! と囃した。 七月○日 水曜日 三時過から仕度をし、T・P・W倶楽部の集りに出かけた。A新聞の竹中さんとP夫人の肝煎り。七八人。P夫人は日本に十六年もいる。劇評家。Nさんも見える。P夫人能もすきで屡々見るらしい
グリムヤーコプ・ルートヴィッヒ・カール
むかしむかし、あるところに尻尾の九本ある古狐がいました。古狐は、じぶんのおくさまが心がわりしたのではないかとうたぐって、おくさまを試してみることにしました。ふるぎつねは、腰かけ台の下へ大の字なりになって、ぴくりとも動かず、まるでぶち殺された鼠のように、死んだふりをしていたのです。 おくさま狐は、じぶんのおへやへ行って、とじこもりました。おくさま狐のお女中のお
中島敦
狐憑 中島敦 ネウリ部落のシャクに憑きものがしたといふ評判である。色々なものが此の男にのり移るのださうだ。鷹だの狼だの獺だのの靈が哀れなシャクにのり移つて、不思議な言葉を吐かせるといふことである。 後に希臘人がスキュティア人と呼んだ未開の人種の中でも、この種族は特に一風變つてゐる。彼等は湖上に家を建てて住む。野獸の襲撃を避ける爲である。數千本の丸太を湖の淺い
堀辰雄
狐の手套〈小序〉 堀辰雄 昔からよく隨筆の題にはその筆者の好む花の名などが用ひられてゐる。あれは何んとなく氣もちの好いものである。いま、ここにすこし隨筆めいたものを集めたついでに、ひとつその眞似をしてやらうと思つて、こんな題をつけて見た。因みに『狐の手套』と云ふのは、あの夏の日ざかりに紫いろの花を咲かせるヂギタリスの花の異名ださうだ。
田中貢太郎
幕末の比であった。本郷の枳殻寺の傍に新三郎と云う男が住んでいたが、その新三郎は旅商人でいつも上州あたりへ織物の買い出しに往って、それを東京近在の小さな呉服屋へ卸していた。それは某年の秋のこと、新三郎の家では例によって新三郎が旅に出かけて往ったので、女房のお滝は一人児の新一と仲働の老婆を対手に留守居をしていた。 もう蚊もいなくなって襟元の冷びえする寝心地の好い
土田耕平
むかし、一人の旅人が、科野の国に旅して、野路を踏みたがへ、犀川べりへ出ました。むかうへ渡りたいと思ひましたが、あたりに橋もなし、渡も見えず、困つてをりますと、 「もうし、旅のお人。」 といふ声がします。見ると、いつどこからとも知らず、一人のうつくしい顔した子どもが舟をこぎよせてゐるのでした。 「渡しのコン助といふものだが渡しの御用はないかな。」 といひますの
豊島与志雄
狐火 豊島与志雄 一 馬方の三吉というよりも、のっぽの三公という方が分り易かった。それほど彼は背が高かった。背が高いばかりでなく、肩幅も広く、筋骨も逞ましく、力も強く、寧ろ大男というべきだったが、それに似合わず、どこか子供らしい無邪気な気質を持っていたので、のっぽの三公という綽名がよく人柄についていた。底知れぬ酒飲みで、飲むと気嫌がよくなるということも、如何
林芙美子
狐物語 林芙美子 四國のある山の中に、おもしろい狐がすんでいました。 いつも、ひとりで歩くことがすきでしたが、ある雨の日、いつものように餌をあさってぼつぼつ歩いていますと、男の子が四五人、がやがや話しながら山を下っていました。 狐は、時々人間をみたことがあったし、人間は二本の足で立って歩いているので、狐は珍らしくて仕方がないのです。狐のおかあさんは、「人間の
田中貢太郎
コクリと云う遊戯は、海外から渡来したものであって、渡来期は正確には判らないが、明治十六年比、米国船が伊豆の下田へ寄港した時、水夫の一人がそれを伝えたと云われている。 コクリの遊戯をするには、まず女竹を見つけて来て、節を揃えて一尺二寸に切った物を三本作り、それを交叉して中心を麻糸で括って、上に飯櫃の蓋又は盆を伏せ、三人以上の人数で手をその上へ軽く載せて、指と指
田中貢太郎
狐と狸 田中貢太郎 燕の恵王の墓の上に、一疋の狐と一疋の狸が棲んでいた。二疋とも千余年を経た妖獣であったが、晋の司空張華の博学多才であることを知って、それをへこますつもりで、少年書生に化けて、馬に乗って出て往こうとすると、華表神が呼び止めて、 「君達はどこへ往くのか」 と聞いた。華表神とは墓の前にある鳥居の神である。狸は華表神の問いに答えて、 「司空の張華と
グリムヤーコプ・ルートヴィッヒ・カール
猫が森のなかでお狐さまに行きあったことがありました。「きつねは、りこうで世慣れてる、世間でたっとばれてる」と、こう考えたので、猫は、あいそうよく狐に話しかけました。 「おきつねさま、今日は! ごきげんいかがですか、ご景気はいかがですか、せちがらい世の中になりましたが、おきつねさまは、どんなお生活をなすっておいでですか」 狐は、それはそれは威張りくさって、猫を
折口信夫
狐の田舎わたらひ 折口信夫 藤の森が男で、稲荷が女であると言ふ事は、よく聞いた話である。後の社の鑰取りとも、奏者とも言ふべき狐を、命婦と言うたことも、神にあやかつての性的称呼と見るべきで、後三条の延久三年、雌雄両狐に命婦の名を授けられたなど言ふ話は、こじつけとは言へ、あまりに不細工な出来である。 今日の稲荷社では、なぜか、命婦を一社と考へたがる傾きが見える様
田中貢太郎
狢 田中貢太郎 幕末の話である。 某商人が深更に赤坂の紀の国坂を通りかかった。左は紀州邸の築地塀、右は濠。そして、濠の向うは彦根藩邸の森々たる木立で、深更と言い自分の影法師が怖くなるくらいな物淋しさであった。ふと濠傍の柳の木の下にうずくまっている人影に気づいた。 どうやら若い女のようで、悄然と袂に顔をうずめて泣いているのであった。商人はてっきり身投げ女だと思
永井荷風
私は病気その他いろいろの事情のために五六年前から今以て独居の生活を続けている。私は別に独身主義を主張しているわけではない。しかし事実において独身で暮しているから、男の独身生活についていろいろ感じたこともある。今それらについて書いてみようと思う。 最初私は独身ということを、大変愉快のことのように感じていた。それは西洋の独身者などの生活を見たり聞いたりしていたか
相馬御風
今年は雪の降り方が非常に少く、春の來方のあまりに早かつたのにひきかへ、高い山々の雪の消え方は何だかあまりぐづ/\し過ぎてゐるやうである。今私が二階の南向の書齋の窓から眺めてゐる山々もまだ麓まで眞白である。白馬や蓮華などの今頃なほ眞白なのは例年のことであるが、左手に見える雨飾岳が、今頃なほ裾まで深い雪に包まれてゐるやうなことは、ちと變てこである。 里はもう綿入
種田山頭火
独慎〔扉の言葉〕 種田山頭火 昭和八年一月一日、私はゆうぜんとしてひとり(いつもひとりだが)こここうしてかしこまっていた。 昨年は筑前の或る炭坑町で新年を迎えた。一昨年は熊本で、五年は久留米で、四年は広島で、三年は徳島で、二年は内海で、元年は味取で。―― 一切は流転する。流転するから永遠である、ともいえる。流れるものは流れるがゆえに常に新らしい。生々死々、去
小林多喜二
独房 小林多喜二 誰でもそうだが、田口もあすこから出てくると、まるで人が変ったのかと思う程、饒舌になっていた。八カ月もの間、壁と壁と壁と壁との間に――つまり小ッちゃい独房の一間に、たった一人ッ切りでいたのだから、自分で自分の声をきけるのは、独り言でもした時の外はないわけだ。何かものをしゃべると云ったところで、それも矢張り独り言でもした時のこと位だろう。その長
高祖保
蛾は あのやうに狂ほしく とびこんでゆくではないか みづからを灼く 火むらのただなかに わたしは みづからを灼く たたかひの 火むらのただなかへ とびこんでゆく あゝ 一匹の蛾だ
中勘助
昭和三十三年十二月 家のない私は三十前後のころ谷中の真如院という寺に仮寓していた。そのじぶん上野公園から谷中の墓地へかけては何千本という杉の老木が空をついて群立ち、そのほかにも椎、樫、もち、肉桂などの古い闊葉樹が到る処繁ってたので、昼でも薄暗くしんめりとしていかにも私向きのところだった。それに真如院をはじめその辺一帯に集まってる寛永寺の末寺はほとんど墓地をも
ジェファーソントマス
アメリカ独立宣言 福沢諭吉訳 千七百七十六年第七月四日亜米利加十三州 独立ノ檄文 人生已ムヲ得ザルノ時運ニテ、一族ノ人民、他国ノ政治ヲ離レ、物理天道ノ自然ニ従テ世界中ノ万国ト同列シ、別ニ一国ヲ建ルノ時ニ至テハ、其建国スル所以ノ原因ヲ述ベ、人心ヲ察シテ之ニ布告セザルヲ得ズ。 天ノ人ヲ生ズルハ億兆皆同一轍ニテ、之ニ附与スルニ動カス可カラザルノ通義ヲ以テス。即チ其
牧野信一
習慣と称ぶ暴虐なる先入主を打破せんと欲する者は、多くの事柄が、単にそれに伴ふ習慣のと皺とに支へられて何等の疑念なく認容せられてゐるのを見るであらう。然しながら一度びこの仮面を剥いで、事を真理と理性との前に引き出して見るならば、自己の従来の判断が殆んど全く顛覆したといふ感じがすると共に、却つてそれが前よりもずつと確固たる基礎を得たと感ずるであらう。 ……………
北条民雄
昨日MTLで「療養所文芸の発展策その他」について書いた諸氏のものも拝見し、また原田嘉悦氏の雑記をも読んでみた。 原田氏は僕の言葉を引用してあるのだが、まあそのやうなことはどうでもよいことであるかも知れない。しかしあれは「自殺志願者」に贈るために書かれたもので、おまけに僕も引つぱり出されたのであつてみれば、僕もまたあの文章を頂戴すべき一人なのであるかも知れない