皮膚と心
太宰治
皮膚と心 太宰治 ぷつッと、ひとつ小豆粒に似た吹出物が、左の乳房の下に見つかり、よく見ると、その吹出物のまわりにも、ぱらぱら小さい赤い吹出物が霧を噴きかけられたように一面に散点していて、けれども、そのときは、痒くもなんともありませんでした。憎い気がして、お風呂で、お乳の下をタオルできゅっきゅっと皮のすりむけるほど、こすりました。それが、いけなかったようでした
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太宰治
皮膚と心 太宰治 ぷつッと、ひとつ小豆粒に似た吹出物が、左の乳房の下に見つかり、よく見ると、その吹出物のまわりにも、ぱらぱら小さい赤い吹出物が霧を噴きかけられたように一面に散点していて、けれども、そのときは、痒くもなんともありませんでした。憎い気がして、お風呂で、お乳の下をタオルできゅっきゅっと皮のすりむけるほど、こすりました。それが、いけなかったようでした
寺田寅彦
十二月三十一日、今年を限りと木枯しの強く吹いた晩、本郷四丁目から電車を下りて北に向うた忙がしい人々の中にただ一人忙がしくない竹村運平君が交じっていた。小さい新聞紙の包を大事そうにかかえて電車を下りると立止って何かまごまごしていたが、薄汚い襟巻で丁寧に頸から顋を包んでしまうと歩き出した。ひょろ長い支那人のような後姿を辻に立った巡査が肩章を聳かして寒そうに見送っ
田中貢太郎
皿屋敷 田中貢太郎 番町の青山主膳の家の台所では、婢のお菊が正月二日の昼の祝いの済んだ後の膳具を始末していた。この壮い美しい婢は、粗相して冷酷な主人夫婦の折檻に逢わないようにとおずおず働いているのであった。 その時お菊のしまつしているのは主人が秘蔵の南京古渡の皿であった。その皿は十枚あった。お菊はあらったその皿を一枚一枚大事に拭うて傍の箱へ入れていた。と、一
北条民雄
一号室ではまた盆踊りの練習が始まつた。 「またも出ました三角野郎が、四角四面の櫓の上で、音頭とるとはおーそれながら――。」 さつきまで日支戦争の噂話で夢中になつてゐたのだが、それがちよつと途切れると突然一人がかう怒鳴りながら立上つた。すると勿ち戦争の話はけし飛んでしまひ、総立ちになつてどんどんと足を踏み鳴らし出した。 その声を聴きつけると、三号四号の連中もぞ
折口信夫
たなばたと盆祭りと 折口信夫 一 この二つの接近した年中行事については、書かねばならぬ事の多すぎる感がある。又既に、先年柳田先生が「民族」の上で述べてゐられるから、私しきが今更此に対して、事新しく、附け加へるほどのことはあるまいと思ふが、顔が違へば、心も此に応じる。又変つた思案も出ようと言ふものである。 たなばたは、七月七日の夜と、一般に考へられてゐる様であ
田畑修一郎
盆踊り 田畑修一郎 東京に住んで十一年になるが、ずつと郊外だつたから私は東京の夏祭がどんなものかまるで知らない。私には東京の夏は暑くて殺風景だ。ごくまれに、手拭と黒褌とを入れた袋をぶら下げて神宮のプールに出かけ、歸りに新宿の不二屋あたりで濃い熱い珈琲をのんだり、冷房裝置のある映畫館へ涼みがてら出かけたりするのが、東京の夏の樂しみといへば樂しみだつた。 しかし
折口信夫
盆踊りと祭屋台と 折口信夫 一 盂蘭盆と魂祭りと 盆の月夜はやがて近づく。広小路のそゞろ歩きに、草市のはかない情趣を懐しみはするけれど、秋に先だつ東京の盂蘭盆には、虫さへ鳴かない。年に一度開くと言はれた地獄の釜の蓋は一返では済まなくなつた。其に、旧暦が月齢と名を改めてからは、新旧の間を行く在来りの一月送りの常識暦法が、山家・片在所にも用ゐられるやうになつたの
折口信夫
盆踊りの話 折口信夫 一 盆の祭り(仮りに祭りと言うて置く)は、世間では、死んだ聖霊を迎へて祭るものであると言うて居るが、古代に於て、死霊・生魂に区別がない日本では、盆の祭りは、謂はゞ魂を切り替へる時期であつた。即、生魂・死霊の区別なく取扱うて、魂の入れ替へをしたのであつた。生きた魂を取扱ふ生きみたまの祭りと、死霊を扱ふ死にみたまの祭りとの二つが、盆の祭りな
中島敦
盈虚 中島敦 衞の靈公の三十九年と云ふ年の秋に、太子が父の命を受けて齊に使したことがある。途に宋の國を過ぎた時、畑に耕す農夫共が妙な唄を歌ふのを聞いた。 既定爾婁豬 盍歸吾艾 牝豚はたしかに遣つた故 早く牡豚を返すべし 衞の太子は之を聞くと顏色を變へた。思ひ當ることがあつたのである。 父・靈公の夫人(といつても太子の母ではない)南子は宋の國から來てゐる。容色
ポーエドガー・アラン
Nil sapienti odiosius acumine nimio. (叡智にとりてあまりに鋭敏すぎるほど忌むべきはなし) セネカ(1) パリで、一八――年の秋のある風の吹きすさぶ晩、暗くなって間もなく、私は友人C・オーギュスト・デュパンと一緒に、郭外サン・ジェルマンのデュノー街三十三番地四階にある彼の小さな裏向きの図書室、つまり書斎で、黙想と海泡石のパ
坂口安吾
ある朝、兜町のさる仲買店の店先へドサリと投げこまれた郵便物の山の中で、ひときは毛色の変つた一通があつた。たいへん分厚だ。けれども証券類や印刷物とは関係のない様子に見える。 ペン字のくせに一字一画ゆるがせにしない筆法極めて正確な楷書で、なにがし商店御中とある。で裏を返してみると、これまた奇妙である。 なにがし区なにがし町――といつても、つい先年まではさしづめ武
ブラックウッドアルジャーノン
九月四日――ロンドン中を歩き回った末、なんとか年収――百二十ポンド――に見合う下宿を発見した。実のところ水道類のない二部屋で、古く崩壊寸前の建物の中だ。だがP――プレイスから石を投げれば届く距離で、極めて上品な街にある。下宿代は年に二十五ポンド。ほんの偶然からこの下宿を見つけたのは、もう駄目かと思い始めた矢先だった。偶然は単なる偶然であり詳述するに及ばない。
佐藤垢石
盗難 佐藤垢石 一 私は、娘を盗まれたことがある。そのときのやるせなさと、自責の念に苛まれた幾日かの辛さは、いまでも折りにふれてわが心の底によみがえり、頭が白らけきる宵さえあるのである。 結婚後、五、六年になるが不幸にも、私ら夫妻は子宝に恵まれなかった。しかし、私らはそれを悩みとも、不幸とも思っていなかった。そして、子供のない安易の生活を楽しんでいるのである
永井荷風
われは病いをも死をも見る事を好まず、われより遠けよ。 世のあらゆる醜きものを。――『ヘッダ ガブレル』イブセン ――兄閣下 お手紙ありがとう御在います。無事帰朝しまして、もう四、五カ月になります。しかし御存じの通り、西洋へ行ってもこれと定った職業は覚えず、学位の肩書も取れず、取集めたものは芝居とオペラと音楽会の番組に女芸人の寫真と裸体画ばかり。年は已に三十歳
羽志主水
監獄部屋 羽志主水 (一) 同じ持場で働いて居る山田という男が囁いた。 「オイ、何でもナ、近けえ内に政府の役人の良い所が巡検に来るとヨ」 「エッ、本当かイ夫りゃア、何時だってヨ」 「サア、其奴ア判ら無えがナ、今度ア今迄来た様な道庁の木ッ葉役人たア違うから、何とか目鼻はつけて呉れるだろう、何時も何時も胡麻化されちゃア返るんだが、今度ア左様は往くめエ、然し之で万
国枝史郎
ミラは何うしても眠れなかった。 夜も更けて真夜中を少し廻った頃だったが、二階では彼女の息子のウィリアムと嫁のエフィが先刻から喧嘩を続けているので、ミラは一時間余りも床の中で眼をぱちくりさせていた。彼女はウィリアムが腹を立てたが最後、手に負えぬことを知っているだけに余計心配でならなかった。彼女の耳にはウィリアムが床をばたばたさせながら、切りに喚いている声や、エ
グリムヤーコプ・ルートヴィッヒ・カール
昔 むかし、ひとりの女の人がいました。この人には、三人の娘がありました。 いちばん上の娘は、ひたいのまんなかに、目がひとつしかありませんでした。それで、みんなから、ひとつ目、とよばれていました。 二番めの娘は、ふつうの人間とおなじように、ふたつの目をもっていました。それで、ふたつ目、とよばれていました。 いちばん下の娘は、目が三つありました。それで、三つ目、
加藤道夫
戰後になつてから餘り見なくなつてしまつたが、學生時代には僕も隨分足繁く能樂堂に通つたものだ。併し、正直に言ふと僕自身「能」の世界に入り込める樣になるには大分時間がかゝつた樣である。初めのうちは退屈で居眠りをしたりした覺えもある。ところが次第に「能」の魂みたいなものが分つて來た。いゝ能とつまらない能の區別がはつきり分つて來た。能も結局、曲と演者で、この二つがぴ
牧野信一
あしたはきつと五時に起きよう――と、また美智子さんは、堅く決心しました。あしたこそ大丈夫だ――と、更に美智子さんは、自分の胸に念をおしました。そして今年の春、叔父さんから貰つた大形の眼醒時計を書棚の上から取りおろして、ぴつたり朝の五時にベルをかけました。この時計は、ベヒーベンとか云ふ米国製の時計で、暗闇のなかでも指針と文字が青白い光を放つて、はつきりと読めま
岡本綺堂
目黒の寺 岡本綺堂 住み馴れた麹町を去って、目黒に移住してから足かけ六年になる。そのあいだに『目黒町誌』をたよりにして、区内の旧蹟や名所などを尋ね廻っているが、目黒もなかなか広い。殊に新市域に編入されてからは、碑衾町をも包含することになったので、私のような出不精の者には容易に廻り切れない。 ほか土地はともあれ、せめて自分の居住する区内の地理だけでも一通りは心
太宰治
盲人独笑 太宰治 よる。まつのこのまより月さやかにみゆると。ひとの申さるるをききてよめる。 はなさきて。ちりにしあとの。このまより すすしくにほふ。つきのかけかな まだ。ほかにも。あるなれど。ままにしておけ。 ――葛原勾当日記―― はしかき 葛原勾当日記を、私に知らせてくれた人は、劇作家伊馬鵜平君である。堂々七百頁ちかくの大冊である。大正四年に、勾当の正孫、
島木健作
盲目 島木健作 その日の午後も古賀はきちんと膝を重ねたまゝそこの壁を脊にして坐つてゐた。本をよむことができなくなつてからといふもの、古賀には一日ぢゆうなにもすることがないのだ。終日ぽつねんとして暗やみのなかにすわつてゐるばかりである。時々彼は立上つて房のなかを行つたり來たりする。わづか三歩半で向ふの壁につきあたるやうな房のなかなのだ。一分間に十往復とすると、
田中正造
謹奏 田中正造 ※ 草莽ノ微臣田中正造誠恐誠惶頓首頓首謹テ奏ス。伏テ惟ルニ臣田間ノ匹夫敢テ規ヲ踰エ法ヲ犯シテ 鳳駕ニ近前スル其罪実ニ万死ニ当レリ。而モ甘ジテ之ヲ為ス所以ノモノハ洵ニ国家生民ノ為ニ図リテ一片ノ耿耿竟ニ忍ブ能ハザルモノ有レバナリ。伏テ望ムラクハ陛下深仁深慈臣ガ[狂→至]愚ヲ憐レミテ少シク乙夜ノ覧ヲ垂レ給ハンコトヲ。 伏テ惟ルニ東京ノ北四十里ニシテ
寺田寅彦
相対性原理側面観 寺田寅彦 一 世間ではもちろん、専門の学生の間でもまたどうかすると理学者の間ですら「相対性原理は理解しにくいものだ」という事に相場がきまっているようである。理解しにくいと聞いてそのためにかえって興味を刺激される人ももとよりたくさんあるだろうし、また謙遜ないしは聞きおじしてあえて近寄らない人もあるだろうし、自分の仕事に忙しくて実際暇のない人も