後の業平文治
三遊亭円朝
一 えゝ此の度(たび)は誉(ほま)れ高き時事新報社より、何か新作物を口演致すようとの御註文でございますから、嘗(かつ)て師匠の圓朝(えんちょう)が喝采(かっさい)を博しました業平文治(なりひらぶんじ)の後篇を申上げます。圓朝師が在世中、数百の人情噺(にんじょうばなし)を新作いたしました事は皆様が御承知であります。本篇は師が存生中(ぞんしょうちゅう)、筋々(す
Perpustakaan pengetahuan dunia domain publik
三遊亭円朝
一 えゝ此の度(たび)は誉(ほま)れ高き時事新報社より、何か新作物を口演致すようとの御註文でございますから、嘗(かつ)て師匠の圓朝(えんちょう)が喝采(かっさい)を博しました業平文治(なりひらぶんじ)の後篇を申上げます。圓朝師が在世中、数百の人情噺(にんじょうばなし)を新作いたしました事は皆様が御承知であります。本篇は師が存生中(ぞんしょうちゅう)、筋々(す
三遊亭円朝
一 偖、お話も次第に申し尽し、種切れに相成りましたから、何か好い種を買出したいと存じまして、或お方のお供を幸い磯部へ参り、それから伊香保の方へまわり、遊歩かた/″\実地を調べて参りました伊香保土産のお話で、霧隠伊香保湯煙と云う標題に致してお聴きに入れます。これは実際有りましたお話でございます。彼の辺は追々と養蚕が盛に成りましたが、是は日本第一の鴻益で、茶と生
三遊亭円朝
一 一席申し上げます、是は寛政十一年に、深川元町猿子橋際で、巡礼が仇を討ちましたお話で、年十八になります繊弱い巡礼の娘が、立派な侍を打留めまする。その助太刀は左官の才取でございますが、年配のお方にお話の筋を承わりましたのを、そのまゝ綴りました長物語でございます。元榊原様の御家来に水司又市と申す者がございまして、越後高田のお国では鬼組と申しまして、お役は下等で
三遊亭円朝
一 御免を蒙(こうむ)りまして申上げますお話は、西洋人情噺(にんじょうばなし)と表題を致しまして、英国(えいこく)の孝子(こうし)ジョージ、スミスの伝、これを引続いて申上げます。外国(あちら)のお話ではどうも些(ち)と私(わたくし)の方にも出来かねます。又お客様方にお分り難(にく)いことが有りますから、地名人名を日本(にほん)にしてお話を致します。英国のリバ
三遊亭円朝
序 三遊亭圓朝子、曾て名人競と題し画工某及女優某の伝を作り、自ら之を演じて大に世の喝采を博したり。而して爾来病を得て閑地に静養し、亦自ら話術を演ずること能わず。然れども子が斯道に心を潜むるの深き、静養の間更に名人競の内として木匠長二の伝を作り、自ら筆を採りて平易なる言文一致体に著述し、以て門弟子修業の資と為さんとす。今や校合成り、梓に上せんとするに当り、予に
三遊亭円朝
序 大奸は忠に似て大智は愚なるが如しと宜なり。此書は三遊亭圓朝子が演述に係る人情話を筆記せるものとは雖も、其の原を美作国久米郡南条村に有名なる皿山の故事に起して、松蔭大藏が忠に似たる大奸と遠山權六が愚なるが如き大智とを骨子とし、以て因果応報有為転変、恋と無常の世態を縷述し、読む者をして或は喜び或は怒り或は哀み或は楽ましむるの結構は実に当時の状況を耳聞目撃する
三遊亭円朝
序 むかしおとこありけるという好男子に由縁(ゆかり)ありはらの業平文治(なりひらぶんじ)がお話はいざ言問わんまでもなく鄙(ひな)にも知られ都鳥の其の名に高く隅田川(すみだがわ)月雪花(つきゆきはな)の三(み)つに遊ぶ圓朝(えんちょう)ぬしが人情かしら有為転変(ういてんぺん)の世の態(さま)を穿(うが)ち作れる妙案にて喜怒哀楽の其の内に自ずと含む勧懲の深き趣向
三遊亭円朝
今日より怪談のお話を申上げまするが、怪談ばなしと申すは近来大きに廃りまして、余り寄席で致す者もございません、と申すものは、幽霊と云うものは無い、全く神経病だと云うことになりましたから、怪談は開化先生方はお嫌いなさる事でございます。それ故に久しく廃って居りましたが、今日になって見ると、却って古めかしい方が、耳新しい様に思われます。これはもとより信じてお聞き遊ば
三遊亭円朝
一 昔はお武家が大小を帯(さ)してお歩きなすったものですが、廃刀以来幾星霜を経たる今日に至って、お虫干の時か何かに、刀箪笥から長い刀(やつ)を取出(とりいだ)して、これを兵児帯(へこおび)へ帯して見るが、何(ど)うも腰の骨が痛くッて堪らぬ、昔は能(よ)くこれを帯して歩けたものだと、御自分で駭(おどろ)くと仰しゃった方がありましたが、成程是は左様でござりましょ
巌谷小波
三角と四角 巖谷小波 数学の中に幾何というものがある。幾何を学ぶにわ、是非とも定木が入る。その定木の中に、三角定木というのがある。――これわ大方諸君も御存じでしょう。 ところがこの三角定木、自分の体にわ、三方に尖った角のあるのを、大層自慢に致し、世間に品も多いが、乃公ほど角のあるものわあるまい、角にかけてわ乃公が一番だと、たった三つよりない角を、酷く鼻にかけ
巌谷小波
奇獄小説に読む人の胸のみ傷めむとする世に、一巻の穉物語を著す。これも人真似せぬ一流のこころなるべし。欧羅巴の穉物語も多くは波斯の鸚鵡冊子より伝はり、その本源は印度の古文にありといへば、東洋は実にこの可愛らしき詩形の家元なり。あはれ、ここに染出す新暖簾、本家再興の大望を達して、子々孫々までも巻をかさねて栄へよかしと祷るものは、 本郷千駄木町の鴎外漁史なり
観世左近二十四世
御承知のやうに能樂には觀世、寶生、金春、金剛、喜多の五流があつて、それ/″\獨特の流風を具へて、互に其の妍を競うて居る。そして謠の曲節も舞の型も流儀に依つて、各々ことなつて居る。よく謠は何流が一番よいとか、型は何流に限るとかいふやうなことを口にする人があるが、それは本當に能の判らない人の言である。各流とも皆獨自な長所を具へて居るので、どの流儀が一番よいなどと
観世左近二十四世
よくぞ能の家に 二十四世 観世左近 およそ千年の鶴は、万歳楽と謡うたりまた万代の池の亀は、甲に三極を備へたり。渚のいさご索々として、あしたの日の色を朗じ、滝の水冷々として、夜の月あざやかに浮かんだり。天下泰平国土安穏、今日の御祈祷なり。 「翁」の章句である。この一節を謡ふ時は、何とも云へない晴々しい爽かな気分になる。元服の披露に初めて「翁」を舞つてから、今日
折口信夫
芳賀先生の爲事を見るのに、最も著しい兩方面があることゝ思ひます。 連歌俳諧流の倭學をのり越えて國學が姿を顯した樣に、明治の國文學は、國學から分化して出て來ました。其中心が芳賀先生だつたのです。もつとも其外にも先驅者もあり、道連れもあり、追隨者もなかつた譯ではありません、でも何と言つても、先生の態度が、即時代の態度を作つて行つた事は、事實なのです。 先生及び先
折口信夫
「女殺油ノ地獄」の芝居を、見て戻つた私である。一日、極度に照明を仄かにした小屋の中にゐて、目も心も、疲れきつてしまつた。思ひの外に、役者たちの努力が、何となく感謝してもよい心持ちを、持たしてくれたけれども、何分にも、先入主となつたものが、度を超えて優秀な技芸であつた為、以前見たその美しい幻影が、今見る役者たちの技術の上に、圧しかゝるやうな気がして、見てゐてひ
折口信夫
播州姫路といへば、沢村一家と因縁のありさうな土地である。そこへ興行で回つて行つて、倒れた宗十郎を思ふ。千鳥の声を幻想して、静かな眠りに落ちて行つたのだらう。 大谷派の本願寺の三代前の法主大谷光瑩さんの落しだねだといふうはさが、古くからあつた。近ごろでは、それを事実と信じる人が多くなつた。それはどうでもよいが、彼の芸質を考へるには、相当に意義のある知識である。
折口信夫
東京の年中行事は、すべて太陽暦ですることになつてゐる。勢、盆狂言も、新の七月に興行せられる訣である。「夏祭」や「四谷怪談」など今行つてしゆんはづれの芝居ではない。だが暑さの峠を越さうとする頃、どうかすれば朝夕の蜩の声が、何か寂寥を感じさせる時分が、季節感にぴつたりしてよい。さうした初秋残暑の気分にゐて、見物する積りになつてほしい。 夏祭の方は、丸本歌舞妓であ
折口信夫
大谷友右衛門は、松本幸四郎と共に、立役らしい本当の姿を持つた人だと思ひます。最大の欠点は、口元にあるらしく、そのために一寸しまらない感じを与へます。死んだ片市の敵役を見ましたが、この人は眼があまりに善良なため、その人らしくなりませんでした。 友右衛門は、そんな風に、本然の姿から云へば立役・実悪と言つた風なものが向くと思ふのですが、口が邪魔をして、そこへ行けま
折口信夫
寛政八年五月四日、伊勢古市の油屋で、山田の医師、孫福斎と言ふ者が、九人斬りをしたと言ふ騒動があつたと伝へられる。これを近松徳叟が三日間で脚色し、同年七月二十五日、大阪の角の芝居にかけたものだと言ふ。所が古市側の記録では、騒動のあつたと言ふ同じ日を初日として、古市の芝居にこれがかゝつてゐる。いかに手廻しがよくても、夜の出来事を其昼に予め舞台にかけると言ふ事はあ
折口信夫
月々、多かれ少かれ芝居は見る。子どもの時からの癖が、まるで脅迫観念になつてゐる様だ。芝居茶屋や、出方に頼んだ頃は、少々いらぬ入費もかゝつたが、扨其が改良せられた今の興行法では、一度の見物にも、手数がかゝつて為方がない。前売り切符だの、ぷれいがいどなどは、便利に見えるのは、金のかゝらぬと言ふ点だけで、却て手数が多くかゝる様になつた。幾十年興行者の為に御奉公して
折口信夫
○此頃いくらか、芝居が嫌ひになれた様な気がする。性根場になつて、どうにもこらへられないで、とろ/\する事が多い。其でも尚芝居に行つて、廊下を歩く気持ちがよくて、やめられないと言ふ人もある。私もさうかと考へて見たが、廊下で知り人などに会ふのは、思つても愧しい。幸と、しげ/\出入しながら、芝居で、あんまり人に会うて、赧い顔をした事がない。私の知つた範囲には、芝居
折口信夫
あなたは確か、芝居の噂などは、あまりお嗜きでなかつた様に思ひます。併し、此だけは一つ、是非お耳に入れて置きたい、と思ふのです。そちらでも、東京の新聞は御覧になつて居ませう。坪内博士の「名残星月夜」が、五月狂言として、歌舞伎座に出たことは、もう御承知の事、と思ひます。あの脚本が、始めて中央公論に出た時、あなたも、坪内さんに宛てゝ、大分長いものを、お書きになりま
折口信夫
いよ/\芝翫が歌右衛門を襲ぐさうである。考へれば、大変成長したものであるが、一往此辺で、飛躍の階梯を作るのに、双手をあげて賛成する。それは昭和の歌舞妓芝居から、最意味のある功労賞を贈るとすれば、まづ海老蔵と此人とに贈るのが、当を得た功績をあげてゐると思ふからである。かう言ふ言ひ方が、誇張した言ひ分の様に受けとられるかもしれぬが、私はちつとも大袈裟にものを言つ
折口信夫
久しぶりで又、「人形の家」が、町の話題に上つてゐる。松井須磨子の初演以来、今度が、幾度目になるのか、ちよつとには考へ浮ばぬ年月である。いつまでも素人抜けのせぬ様に言はれて来た新劇の人々も、随分鳥居の数は潜つて来てゐるのである。だから存外此戯曲なども、漠とした賑やかな印象ほどには、然ういろんな劇団で、とりあげて来て居なかつた様にも考へられる。何分新劇の興行年表