銭形平次捕物控 237 毒酒薬酒
野村胡堂
運座の帰り、吾妻屋永左衛門は、お弓町の淋しい通りを本郷三丁目の自分の家へ急いで居りました。 八朔の宵から豪雨になって亥刻(十時)近い頃は漸く小止みになりましたが、店から届けてくれた呉絽の雨合羽は内側に汗を掻いて着重りのするような鬱陶しさ――。 永左衛門は運座で三才に抜けた自分の句を反芻しながら、それでも緩々たる気持で足を運んで居りました。 眠そうな供の小僧を
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野村胡堂
運座の帰り、吾妻屋永左衛門は、お弓町の淋しい通りを本郷三丁目の自分の家へ急いで居りました。 八朔の宵から豪雨になって亥刻(十時)近い頃は漸く小止みになりましたが、店から届けてくれた呉絽の雨合羽は内側に汗を掻いて着重りのするような鬱陶しさ――。 永左衛門は運座で三才に抜けた自分の句を反芻しながら、それでも緩々たる気持で足を運んで居りました。 眠そうな供の小僧を
野村胡堂
「親分は、恋の病というのをやったことがありますか」 ガラ八の八五郎は、大した極りを悪がりもせずに、人様にこんなことを訊く人間だったのです。 素晴らしい秋日和、夏の行事は一とわたり済んで、行楽好きの江戸っ子達は、後の月と、秋祭と、そして早手廻しに紅葉見物のことを考えている時分のことでした。 相変らず縁側に腹ん這いになって、不精煙草の煙の行方を眺めていた平次は、
野村胡堂
「親分は、戀の病ひといふのをやつたことがありますか」 ガラツ八の八五郎は、たいして極りを惡がりもせずに、人樣にこんなことを訊く人間だつたのです。 素晴らしい秋日和、夏の行事は一とわたり濟んで、行樂好きの江戸つ子達は、後の月と、秋祭と、そして早手廻しに紅葉見物のことを考へてゐる時分のことでした。 相變らず椽側に腹ん這ひになつて、不精煙草の煙の行方を眺めてゐた平
野村胡堂
「親分、ありや何んです」 觀音樣にお詣りした歸り、雷門へ出ると、人混みの中に大變な騷ぎが始まつてをりました。眼の早い八五郎は、早くもそれを見つけて、尻を端折りかけるのです。 「待ちなよ、八。喧嘩か泥棒か喰ひ逃げか、それとも敵討ちか、見當もつかねえうちに飛び込んぢや、恥を掻くぜ」 平次は若駒のやうにはやりきつた八五郎を押へて、兎も角にも群衆をかきわけました。
野村胡堂
「親分、ありゃ何んです」 観音様にお詣りした帰り、雷門へ出ると、人混みの中に大変な騒ぎが始まって居りました。眼の早い八五郎は、早くもそれを見付けて、尻を端折りかけるのです。 「待ちなよ、八、喧嘩か泥棒か喰い逃げか、それとも敵討ちか、見当もつかねえうちに飛込んじゃ、恥を掻くぜ」 平次は若駒のようにはやり切った八五郎を押えて、兎にも角にも群衆をかきわけました。
野村胡堂
「親分、世の中にこの綺麗なものを見ると痛めつけたくなるというのは、一番悪い量見じゃありませんか、ね」 八五郎が入って来ると、いきなりお先煙草を五、六服、さて、感に堪えたように、こんなことを言い出すのです。 九月になってから急に涼しくなって、叔母が丹精して縫い直してくれた古袷も、薄寒く見えますが、当人は案外呑気で、膝小僧のハミ出すのも構わず、乗出し加減に一とか
野村胡堂
「親分、近頃は滅多に両国へも行きませんね」 八五郎は相変らず何んかネタを持って来た様子です。立てっ続けに煙草を五、六服、鉄拐仙人のように、小鼻をふくらませて天井を睨んで、さてと言った調子でプレリュードに取かかるのです。 「行かないよ。俺が両国へ行くのを、お静がひどく嫌がるんだ。昔の朋輩が多勢居るところへ、亭主野郎が十手なんか持って行くのが気がさすんだろう」
野村胡堂
その頃江戸中を荒した、凶賊黒旋風には、さすがの銭形平次も全く手を焼いてしまいました。 本郷、神田、小石川へかけて、町木戸の無いところを選って、三夜に一軒、五日に二軒、どうかするとそれが連夜に亘って、江戸の物持ち、有徳の町人共を、全く恐怖のドン底に陥入れてしまったのです。 「八、弱ったな、俺は十手捕縄を預かってから、こんなに弱ったことは無いよ」 銭形平次ほどの
野村胡堂
すべて恋をするものの他愛なさ、――八五郎はそれをこう説明するのでした。 「ね、親分、――笑わないで下さいよ――あっしはもう」 「どうしたえ、臍が痒いって図じゃないか」 「臍も踵も痒くなりますよ。二年越し惚れて惚れて惚れ抜いた同士が、口説きも口説かれもせず、思い詰めた揚句の果、男の方も女の方もどっと患いついたなんて古風な話が、今時の江戸にあるんだから――」 「
野村胡堂
その晩、出雲屋の小梅の寮は、ハチ切れそうな騒ぎでした。 出雲屋の主人、岩太郎が、野幇間の奇月の仲人で、新たにお滝という召使を雇い入れ、その御披露やらお祝やらを兼ねて、通人出雲屋岩太郎が、日頃昵近にして居る友達や、お取巻の面々を、小梅の寮に招き、一刻千金と言われる春の宵を、呑んで騒いで、頃合を見計って船と駕籠で送り返そうという寸法だったのです。 多寡が召使を一
野村胡堂
「世の中に何が臆病と言ったって、二本差の武家ほど気の小さいものはありませんね」 八五郎はまた、途方もない哲学を持ち込んで来るのです。 「お前の言うことは、一々調子ッ外れだよ、武家が臆病だった日にゃ、こちとらは年中腰を抜かして居なきゃなるまい」 平次は大した気にも留めない様子でした。障子を一パイに開けると、建て混んだ家並で空はひどく狭められて居りますが、一方か
野村胡堂
「世の中に何が臆病と言つたつて、二本差の武家ほど氣の小さいものはありませんね」 八五郎はまた、途方もない哲學を持ち込んで來るのです。 「お前の言ふことは、一々調子ツ外れだよ、武家が臆病だつた日にや、こちとら年中腰を拔かして居なきやなるまい」 平次は大して氣にも留めない樣子でした。障子を一パイに開けると、建て混んだ家並で空はひどく狹められて居りますが、一方から
野村胡堂
「あ、錢形の兄さん」 平次は兩國橋の上で呼留められました。四月の末のある朝、申分なく晴れた淺黄空、初鰹魚の呼び聲も聽えさうな、さながら江戸名所圖繪の一とこまと言つた風情でした。 「おや、お品さんぢやないか、こんなに早くどこへ行くんだ、お詣りや物見遊山でも無ささうだが――」 呼び留めたのは、平次の大先輩で、昔は相當に顏を賣つた御用聞き、石原の利助の娘で、お品と
野村胡堂
「親分、大變ツ」 日本一の淺黄空、江戸の町々は漸く活氣づいて、晴がましい初日の光の中に動き出した時、八五郎はあわてふためいて、明神下の平次の家へ飛び込んで來たのです。 「何んて騷々しい野郎だ。今日は何んだと思ふ」 これから屠蘇を祝つて、心靜かに雜煮の箸をとらうといふ平次、あまりの事にツイ聲が大きくなりました。 「相濟みません。元日も承知で飛び込んで來ましたよ
野村胡堂
「親分、金持になつて見たくはありませんか」 八五郎はまた途方もない話を持ち込んで來たのです。やがて春の彼岸に近い、ある麗らかな日の晝過ぎ。 「又變な話を持つて來やがる、俺は今うんと忙しいところだ。金儲けなんかに取合つちや居られねえよ」 「何が忙しいんです、――はたで見ると隨分呑氣さうですね。日向に寢そべつて本なんか讀んでゐて」 「それが忙しいんだよ。曾我の五
野村胡堂
「八、あれに氣が付いたか」 兩國橋の夕景、東から渡りかけて平次はピタリと足を停めました。 陽が落ちると春の夕風が身に沁みて、四方の景色も何んとなく寒々となりますが、橋の上の往來は次第に繁くなつて、平次と八五郎が、欄干に凭れて水肌を見入つてゐるのを、うさんな眼で見る人が多くなりました。 「雪駄直しでせう。先刻から三足目の註文ですが、良い働きですね」 「お前も一
野村胡堂
「親分、良い陽氣ですね」 ガラツ八の八五郎が、鼻の頭から襟へかけての汗を、肩に掛けた手拭の端つこで拭きながら、枝折戸を足で開けて、ノツソリと日南に立ちはだかるのでした。 「陽氣の良いのはオレのせゐぢやないよ、頼むから少し退いてくれ。草花の芽が一パイに天道樣に温ためられてゐるんだ」 平次は縁側に並べた小鉢の前から、忌々しく八五郎を追ひやるのです。 「へツ、宜い
野村胡堂
「八、近頃お前は、大層な男になつたんだつてね」 錢形平次は、珍らしく此方から水を向けました。ガラツ八の八五郎が縁側へ腹ん這ひになつて、手長猿のやうに遠方の煙草盆を引寄せ、默つてお先煙草を二三服立て續けに吸つたところへ冠せた話のきつかけです。 「それほどでもありませんがね。――尤も人を助けるといふのは、まことに、良い心持のもので」 「大きいな、さうしてゐるとこ
野村胡堂
「人の心といふものは恐ろしいものですね、親分」 八五郎が顎を撫で乍ら、いきなりそんな事を言ふのです。 「あれ、大層物を考へるんだね。菓子屋の前を通ると、店先の大福餅をつかみ喰ひしたくなつたり、酒屋の前を通る度に、鼻をヒク/\させるのも、人間の心の恐ろしさだといふわけだらう」 「止して下さいよ、親分、あつしのことぢやありませんよ」 平次の鼻の先で、八五郎は無性
野村胡堂
「親分、あつしは百まで生きるときめましたよ」 八五郎はまた、途方もない話を持ち込んで來るのです。江戸はもう眞夏、祭太鼓の遠音が聞えて、心太にも浴衣にも馴染んだ、六月の初めのある朝のことでした。 「きめなくつたつて、お前の人相なら、百二三十迄は生きるよ、――何んだつてまた、そんな慾張つたことを考へたんだ」 平次は讀みさしの物の本を、疊の上に屋形に置いて、さてと
野村胡堂
「あつしはつく/″\世の中がイヤになりましたよ、親分」 八五郎は柄にもなく、こんなことを言ひ出すのです。 「あれ、大層感じちやつたね、出家遁世でもする氣になると、二三人泣く娘があるぜ」 平次は縁側に腰を掛けたまゝ、明日咲く鉢の朝顏の蕾などを勘定して居りました。まことに天下泰平の姿で、八五郎の厭世論などには乘つてくれさうもありません。 「何時の世になつたら、惡
野村胡堂
「親分、あつしはもう口惜しくて口惜しくて」 八五郎はいきなり怒鳴り込むのです。彼岸過ぎのよく晴れた朝、秋草の鉢の世話に、餘念も無い平次は、 「騷々しいな、何が一體口惜しいんだ。好物の羊羹でも喰ひ損ねたのか」 一向氣の無い顏を擧げるのでした。 「そんな氣樂な話ぢやありませんよ。親分も知つて居なさるでせう、菊坂小町と言はれた小森屋の娘お通が、昨夜殺されましたぜ」
野村胡堂
三田四國町の大地主、老木屋勝藏の養父で今年六十八になる八郎兵衞は、その朝隱居所の二階で、紅に染んだ死骸になつて發見されました。 老木屋といふのは、裏庭に一と抱に餘る松の老木があるので知られた家で、先代の主人八郎兵衞は病弱のため五年前に隱居し、家督を夫婦養子の勝藏お元に讓つて、老妻のお妻と二人、母屋からは廊下續きになつて居る小さい二階家の離屋に住んで、雜俳に凝
野村胡堂
「ところで親分はどう思ひます」 「ところで――と來たね、一體何をどう思はせようてんだ。藪から棒に、そんな事を言つたつて、わかりやしないぢやないか」 錢形平次と子分の八五郎は、秋日和の縁側に甲羅を並べて、一刻近くも無駄話を應酬して居たのです。 「先刻言つたぢやありませんか、子曰くの先生のお妾――」 「あ、お玉ヶ池の春名秋岳先生か、あれは儒者といふよりは兵學者の