銭形平次捕物控 284 白梅の精
野村胡堂
二月のある日、歩いてゐると斯う、額口の汗ばむやうな晝下がり、巣鴨からの野暮用の歸り、白山あたりへ辿りついた頃は、連の八五郎はもう、何んとなく御機嫌が斜めになつて居りました。 「大層元氣が無いやうだな、八」 平次は足を淀ませて、八五郎の長い顎を振り返りました。 「さういふわけぢやありませんがね、何處かで一と休みして、一服やらかさうぢやありませんか」 「煙草なら
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野村胡堂
二月のある日、歩いてゐると斯う、額口の汗ばむやうな晝下がり、巣鴨からの野暮用の歸り、白山あたりへ辿りついた頃は、連の八五郎はもう、何んとなく御機嫌が斜めになつて居りました。 「大層元氣が無いやうだな、八」 平次は足を淀ませて、八五郎の長い顎を振り返りました。 「さういふわけぢやありませんがね、何處かで一と休みして、一服やらかさうぢやありませんか」 「煙草なら
野村胡堂
「もう宜いかい」 「まアだゞよ」 子供達はまた、隱れん坊に夢中でした。此邊は古い江戸の地圖にも、『植木屋と百姓家多し』と書いてある位で、お天氣さへ良ければ、子供達は家の中で遊ぶといふことは無いのですが、雨が降ると、室内遊戲の方法も興味も持たない子供達は、一日に一度は屹度『隱れん坊』を始めるのです。 それは限りなく安らかな晝下がりでした。櫻が散つて、菜の花が黄
野村胡堂
「親分、ウフ、可笑しなことがありましたよ、ウへ、へ、へツへツ」 ガラツ八の八五郎が、タガの弛んだ桶のやうに、こみ上げる笑を噛みしめ噛みしめ、明神下の平次の家に入つて來ました。 「冗談ぢやない、人の家へゲラゲラ笑ひ乍ら入つて來やがつて、水をブツ掛けて、酒屋の赤犬をけしかけるよ」 「怒らないで下さいよ、あつしはまた、可笑しくて可笑しくて、横つ腹の筋がキリキリする
野村胡堂
「親分、大變ツ」 八五郎の大變が、神田明神下の錢形平次の家へ飛び込んで來たのは、その晩もやがて亥刻半(十一時)近い頃でした。 「何んだ八、お前の大變も聞き飽きたが、夜中は近所の衆が驚くから、少しは遠慮をしてくれ」 これから寢ようとしてゐた平次は、口小言を言ひながら格子戸を開けてやります。 「それどころぢやありませんよ、大變も唯の大變ぢやねえ。お膝元の佐久間町
野村胡堂
「親分。あつしはもう、腹が立つて、腹が立つて」 八五郎は格子をガタピシさせると、挨拶は拔きの、顎を先に立てて、斯う飛び込んで來るのでした。 「頼むから後を締めてくれ。野良犬がお前と一緒に入つて來るぢやないか」 錢形平次は、不精らしく頭をあげました。相變らず三文植木を眺めながら、椽側に寢そべつて、粉煙草をせゝつて居る、閑居の姿です。 「それが親分、いつもと違つ
野村胡堂
「親分、變なことを聽きましたがね」 ガラツ八の八五郎は、薫風に鼻をふくらませて、明神下の平次の家の、庭先から顎を出しました。いとも長閑な晝下りの一齣。 「お前の耳は不思議な耳だよ、よくさう變つたことを聽き出せるものだ。俺の方は尋常なことばかりさ、蒔いた種は生えるし、借りた金は返さなきやならねえし」 平次は氣のない返事をしながら、泥鉢に出揃つた、朝顏の芽をいつ
野村胡堂
「へツ、へツ、親分え」 ガラツ八の八五郎は、髷節で格子戸をあけて、――嘘をつきやがれ、髷節ぢや格子は開かねえ、俺のところは家賃がうんと溜つて居るから、表の格子だつて、建て付けが惡いんだからと――、錢形の平次は言やしません。 兎も角、恐れ入つた樣子で、明神下の平次の家へ、八五郎はやつて來たのです。 「此方へ入んな、何をマゴ/\してるんだ」 平次はツイ、長火鉢の
野村胡堂
「世の中には變つた野郎があるものですね、親分」 ガラツ八の八五郎は、又何やら變つた噂を持つて來た樣子です。 「大抵の人間は、自分は世間並より變つた人間だと思つて居るよ」 錢形平次は、相變らず、はなつから茶化してかゝります。 結構な冬日向、何が無くとも豆ねぢに出がらしの番茶、お靜は目立たぬやう、そつと滑らせてお勝手に引下がると、晝下がりの陽を膝に這はせて、八五
野村胡堂
浪人大澤彦四郎は、まことに評判の良い人でした。金があつて情け深くて、人柄が穩かで、これが昔、人斬庖丁を二本、腰にブラ提げて、肩で風を切つた人とは、どうしても受取れないほどの物柔かな中老人だつたのです。 中老人と言つても、五十になるやならずで、男前も立派、武藝のほどは知りませんが、金も相當以上に持つてゐるらしく、分に過ぎた慈悲善根を施こして、その日/\を豊かに
野村胡堂
「親分、向島は見頃だそうですね」 ガラッ八の八五郎は、縁側からニジリ上がりました。庭いっぱいの春の陽ざし、平次の軒にもこの頃は鴬が来て鳴くのです。 「そうだってね、握り拳の花見なんかは腹を立てて帰るだけだから、お前に誘われても付き合わねえつもりだが――」 平次は相変らず世上の春を、貧乏くさく眺めているのでしょう。 「へッ、不景気ですね、銭形の親分ともあろうも
野村胡堂
「親分、向島は見頃ださうですね」 ガラツ八の八五郎は、縁側からニジり上がりました。庭一杯の春の陽ざし、平次の軒にもこの頃は鶯が來て鳴くのです。 「さうだつてね、握り拳の花見なんかは腹を立てゝ歸るだけだから、お前に誘はれても附き合はねえつもりだが――」 平次は相變らず世上の春を、貧乏臭く眺めて居るのでせう。 「へツ、不景氣ですね、錢形の親分ともあらうものが、―
野村胡堂
「八、居るかい」 向う柳原、七曲の路地の奧、洗ひ張り、御仕立物と、紙に書いて張つた戸袋の下に立つて、平次は二階に聲を掛けました。よく晴れた早春のある朝、何處かで、寢呆けた雄鷄が時をつくつて居ります。 「誰だえ、人を呼捨てにしやがつて、戸袋の蔭から出て、ツラを見せろ」 八五郎の長んがい顎が二階の窓へ出ると、滿面に朝陽を浴び乍ら、眩しさうに怒鳴るのです。 「大層
野村胡堂
「親分は源氏ですか、それとも平家ですか」 ガラツ八の八五郎は、いきなりそんなことを言ふのです。御用も一段落になつた春のある日、後ろに一立齋廣重がよく描いた、桃色の空を眺めて、一本の煙管をあつちへやつたり、此方へ取つたり、結構な半日を、百にもならぬ無駄話に暮らすのです。 「螢や蟹ぢやあるめえし、源氏だらうと平家だらうと一向構はないぢやないか」 錢形平次は氣のな
野村胡堂
「親分、金儲けを好きですか」 ガラツ八の八五郎、また飛んでもないことを言ひ出すのです。 櫻は過ぎたが、遊び足りない江戸の人達は、ゆく春を惜んで、ほろ醉心地のその日/\を送つてゐるやうな、ウラウラとした日が續きます。 相變らず神田明神下の平次住居の段、親分は怠け者で、子分は呑氣者で、お米の値段と係はりのない掛け合ひ噺ばかりしてゐるのかと思ふと、豈計らんや、今日
野村胡堂
「親分、良いお天氣ですね――これで金さへありや――」 薫風に懷ろを膨らませて、八五郎はフラリと入つて來ました。相變らず寢起の良ささうなのんびりした顏です。 「お早う、天氣が續くと、懷ろの方も空つ尻らしいな」 「お察しの通り、四五日はお濕りにもありつきませんよ。いよ/\料簡を入れ替へて――」 「まさか、泥棒を働く氣になつたわけぢやあるまいな」 「それは大丈夫で
野村胡堂
「親分、あつしのところへ、居候が來ましたよ」 八五郎がまた、妙な報告を持つて來ました。六月のある朝、無風の薄曇り、今日もまた、うんと暑くなりさうな日和です。 「良い年をしてみつともない。何處へ居候に行くんだ」 單衣の尻を端折つて、三文朝顏の世話を燒き乍ら、平次は氣のない返事をして居ります。素足に冷たい土の感觸、こいつはまた、滅法良い心持です。 「あつしが居候
野村胡堂
「親分、お早やうございます」 八五郎はいつになく几帳面に格子戸を開けて入つて來ました。神田明神下の、錢形平次住居の段、――尤も、几帳面に引かないと、この格子は番ごと敷居から外れます。 借金の言ひわけと細工事が大嫌ひで、棚が落ちても釣らうとせず、半日肩で押へてゐて、八五郎が來るのを待ち兼ねない平次です。入口の格子戸の外れるくらゐのことは、三年でも我慢する氣でな
野村胡堂
「親分、ちよいと江戸をあけますがね」 八五郎はいきなりこんなことを言つて來たのです。彼岸を過ぎたばかり、秋の行樂の旅にはまだ早過ぎますが、海道筋は新凉を追つて驛馬の鈴の音も、日毎に繁くなる頃です。 「江戸をあける?――大層なこと言やがるぢやないか、日光へ御代參にでも出かけるのか、それとも――」 錢形平次は滅法忙しいくせに、相變らず暇で/\仕樣がないやうな顏で
野村胡堂
「へツ、へツ、へツ、親分」 ある朝、八五郎が箍の外れた桶見たいに、笑ひながら飛び込んで來ました。九月もやがて晦日近く、菊に、紅葉に、江戸はまことに良い陽氣です。 「挨拶も拔きに、人の家へ笑ひ込む奴もねえものだ。少しは頬桁の紐を引締めろよ、馬鹿々々しい」 平次は、精一杯に不機嫌な顏を見せながらも、實はこの二三日、八五郎を待ち構へて居たのです。八が來てくれないと
野村胡堂
八五郎の取柄は、誰とでも、すぐ友達になれることでした。長んがい顎と、とぼけた話し振りと、そして桁の外れた己惚れが、どんな相手にも、警戒させずに近づけるのです。 その代り、時には飛んでもない者と、すつかり眤懇になつてゐることがあります。巾着切辰三などもその一人で、相手は御法の網の目をくゞる、雜魚のやうな男。人の懷ろを狙ふのが渡世と言つても、五兩と纒まつた仕事を
野村胡堂
錢形平次は久し振りに田舍祭を見物に出かけました。 調布街道を入つた狛江村、昔から高麗人の裔が傳へた、秋祭の傅統がその頃まで殘つて居て、江戸では見られぬ異國的な盛大さが觀物だつたのです。 宿は北見の三五郎、義理堅い良い目明しでした。この邊は伊奈半左衞門の支配で、江戸の眞ん中と違つて、事件は少ないやうです。が、人間と人間の關係がうるさいので、實際斯う言つた顏の良
野村胡堂
「大層な人ですね、親分」 兩國橋の上、ガラツ八の八五郎は、人波に押されながら、欄干で顎を撫でてをります。 「まア、少し歩けよ。橋を越せば、一杯呑む寸法になつてゐるんだ」 錢形平次は、泳ぐやうに近づいて、八五郎の袖を引きます。 引つ切りなしに揚がる花火、五彩の火花が水を染めて、『玉屋ア、鍵屋ア』といふお定まりの褒め言葉が、川面を壓し、橋を搖るがして、何時果つべ
野村胡堂
「あら、八五郎親分」 神田お臺所町、これから親分の錢形平次の家へ朝詣りに行かうといふところで、八五郎は馥郁たる年増に抱きつかれてしまひました。 櫻の蕾もふくらみさうな美しい朝、鼻の穴を大きくして、彌造を二つ、七三に拵へて、間伸びのした小唄なんかをひよぐりながら、親分の錢形平次の家へ、その日の新聞種を持つて行くのが、長い間の八五郎の慣はしだつたのです。 「わつ
野村胡堂
いつものやうに、この話は、八五郎の早耳帳から始まります。 「ところで親分」 「何が『ところで』なんだ、藪から棒に」 棚の落ちたのも吊れないやうな、不器用な平次が、唐紙の穴を繕いながら、鳴り込むやうに入つてくる八五郎を迎へました。片襷――それは女房のお靜に、袂へ糊がつくからとこぼされて、お靜自身のを拜借した赤いの。なか/\に甲斐々々しい姿ですが、脂さがりの哺へ