こわれた鏡 ジイド知性の喜劇
宮本百合子
ジイドが彼の近著『ソヴェト旅行記』に対して受けた非難に抗して書いている「ローランその他への反撃」という文章は(十月・中央公論)悪意を底にひそめた感情の鋭さや、その感情を彼によって使い古されている切札である知力や統計の力やによって強固にしようと努力している姿において彼のこれまで書いたどの文章よりも悲惨である。 現代のように錯綜し緊張し、処々ではもう火をふき出し
Perpustakaan pengetahuan dunia domain publik
宮本百合子
ジイドが彼の近著『ソヴェト旅行記』に対して受けた非難に抗して書いている「ローランその他への反撃」という文章は(十月・中央公論)悪意を底にひそめた感情の鋭さや、その感情を彼によって使い古されている切札である知力や統計の力やによって強固にしようと努力している姿において彼のこれまで書いたどの文章よりも悲惨である。 現代のように錯綜し緊張し、処々ではもう火をふき出し
折口信夫
鏡花との一夕 折口信夫 他人にはないことか知らん。――私には、あんまり其があつて、あり過ぎて困つた癖だと、始中終それを気にして来た。聞いては見ぬが、大勢の中には、きつと同じ習慣を持つて居ながら、よく/\の場合の外、其に出くはさずじまひになる人が、可なりの人数はあるはずだと思ふ。 歩き睡りと言ふ、あれである。気をつけて居ると、大通りなどでも、どうかすると、ずつ
中島敦
鏡花氏の文章 中島敦 日本には花の名所があるように、日本の文学にも情緒の名所がある。泉鏡花氏の芸術が即ちそれだ。と誰かが言って居たのを私は覚えている。併し、今時の女学生諸君の中に、鏡花の作品なぞを読んでいる人は殆んどないであろうと思われる。又、もし、そんな人がいた所で、そういう人はきっと今更鏡花でもあるまいと言うに違いない。にもかかわらず、私がここで大威張り
宮本百合子
鏡餅 宮本百合子 正面のドアを押して入ると、すぐのところで三和土の床へ水をぶちまけ、シュッシュ、シュッシュと洗っている白シャツ、黒ズボンの若い男にぶつかりそうになった。サエは小使いだと思ったらそうではなく、そういう風体でそのへんにハタキをかけたり、椅子を動かしたり動きまわっているのは、制服の上衣をぬいだ巡査であった。 大きい包みを下げて二階へ上って見ると、こ
小川未明
K町は、昔から鉄工場のあるところとして、知られていました。町には、金持ちが、たくさん住んでいました。西の方を見ると、高い山が重なり合って、その頂を雲に没していました。そして、よほど、天気のいい日でもなければ、連なる山のすがたを見つくすことができなかったのであります。 その山おくにも、人間の生活が、いとなまれていました。ひとりの背の高い、かみのぼうぼうとした、
新美南吉
ごんごろ鐘 新美南吉 三月八日 お父さんが、夕方村会からかえって来て、こうおっしゃった。 「ごんごろ鐘を献納することにきまったよ。」 お母さんはじめ、うちじゅうのものがびっくりした。が、僕はあまり驚かなかった。僕たちの学校の門や鉄柵も、もうとっくに献納したのだから、尼寺のごんごろ鐘だって、お国のために献納したっていいのだと思っていた。でも小さかった時からあの
ポーエドガー・アラン
何時ですか?古諺 世界じゅうで一番立派なところはオランダの Vondervotteimittiss1 の町である――いや、情けないことには、であった――ということは、大体誰でも知っている。しかしその町はどの本街道からも少し離れたところにあって、幾分辺鄙な場所だから、おそらく読者諸君の中でそこへ行ったことのある人はほとんどあるまい。であるから、そこへ行ったこと
永井荷風
鐘の声 永井荷風 住みふるした麻布の家の二階には、どうかすると、鐘の声の聞えてくることがある。 鐘の声は遠過ぎもせず、また近すぎもしない。何か物を考えている時でもそのために妨げ乱されるようなことはない。そのまま考に沈みながら、静に聴いていられる音色である。また何事をも考えず、つかれてぼんやりしている時には、それがためになお更ぼんやり、夢でも見ているような心持
寺田寅彦
鐘に釁る 寺田寅彦 昔シナで鐘を鋳た後にこれに牛羊の鮮血を塗ったことが伝えられている。しかしそれがいかなる意味の作業であったかはたしかにはわからないらしい。この事について幸田露伴博士の教えを請うたが、同博士がいろいろシナの書物を渉猟された結果によると釁るという文字は犠牲の血をもって祭典を挙行するという意味に使われた場合が多いようであるが、しかしとにかく、一書
喜田貞吉
「鐵」の字古く「銕」また「※」に作る。「銕」の字は旁が「夷」に従っている。夷は東方異族の称で、「銕」はすなわち東夷の金の義である。東方の国早くこの金属を産し、シナに輸入したものと見える。『魏志』〔(弁辰伝)〕に「国鐵を出す、韓・]・倭皆従ひて之を取る。諸市買ふに皆鉄を用ふ」とある。「神功紀」に、百済谷那の鉄山の事もある。わが国にも随処砂鉄を産する地多く、鉄を
北大路魯山人
芸術の中でも、絵画は努力次第で一寸楽しめる境地までは漕ぎつけることが出来るものであるが、書道となるとなかなかに至難である。現代人が書と漢字を等閑に付しているのは、要するにわからないからである。しからば、志の徒はいかにして書き練達するかというに、それは神韻ある古法帖に学ぶより外ない。いわゆる習字の先生という人々の指導を受けても、なんらの収穫にはならない。結果は
寺田寅彦
鑢屑 寺田寅彦 一 ある忙しい男の話である。 朝は暗いうちに家を出て、夜は日が暮れてしまってから帰って来る。それで自分の宅の便所へはいるのはほとんど夜のうちにきまっている。 たまたま祭日などに昼間宅に居ることがある。そうして便所へはいろうとする時に、そこの開き戸を明ける前に、柱に取付けてある便所の電燈のスウィッチをひねる。 それが冬だと何事もないが、夏だと白
楠山正雄
長い名 楠山正雄 一 ちょんきりのちょんさんのほんとうの名をだれも知りませんでした。何でも亡くなったこの子のおかあさんが、この子の運がいいように何かいい名前をつけようと、三日三晩考えぬいて、病気になって、いよいよ目をつぶるというときに、かすかな声で、 「ああ、やっと考えつきました。この子の名はちょん。」 といいかけたなり、もう口が利けなくなってしまったのです
喜田貞吉
エタをチョウリという地方が多い。文字に「長吏」と書く。或いはこれをチョウリンボウともいう。「長吏坊」で、長吏に「坊」という賤称を附したのである(「坊」という賤称の事は他日別に発表する予定)。 長吏の名義は徂徠の「南留別志」に、張里の誤りなるべしとある。張里は馬医者の事だという。「燕石雑志」には、「鎌倉将軍の時に穢多の長を長吏と云ひけり」とあるも確かな出所を知
折口信夫
私どもの様に大阪の町の中に育つた者にとつては、江戸長唄は生れだちから縁が少かつた。 上方では、旧幕時代から引き続いて、明治の中頃に到るまで、関東から来た芸謡は、すべて、長唄であらうと、清元であらうと、一中であらうと、新内であらうと、皆ひつくるめて、たゞ江戸唄と言つた。そしてどれも同じ様な三味線の節に、同じ様な歌ひぶりで歌つてゐた。 だからその後、明治三十年代
長塚節
白菜や間引き/\て暮るゝ秋 七年の約を果すや暮の秋 散りぬべき卿の秋の毛虫かな 花煙草葉を掻く人のあからさま 藁灰に莚掛けたり秋の雨 豆引いて莠はのこる秋の風 わかさぎの霞が浦や秋の風 佐渡について母への状や秋の風 蓼の穗に四五日降つて秋の水 此村に高音の目白捉へけり 鳴きもせで百舌鳥の尾動く梢かな 柿くふや安達が原の百姓家 柿赤き梢を蛇のわたりけり 芝栗や
長塚節
野を行けばたゞに樂しく森行けばことゝしもなく物ぞ偲ばゆ 菅の根のなが/\し日も傾きて上野の森の影よこたはる
長塚節
郷にかへる歌并短歌 草枕旅のけにして、こがらしのはやも吹ければ、おもゝちを返り見はすと、たましきの京を出でゝ、天さかる夷の長路を、ひた行けど夕かたまけて、うす衾寒くながるゝ、鬼怒川に我行き立てば、なみ立てる桑のしげふは、岸のへになべても散りぬ、鮭捕りの舟のともしは、みなかみに乏しく照りぬ、たち喚ばひあまたもしつゝ、しばらくにわたりは超えて、麥おほす野の邊をく
長塚節
落葉松の溪に鵙鳴く淺山ゆ見し乘鞍は天に遙かなりき 鵙の聲透りて響く秋の空にとがりて白き乘鞍を見し 我が攀ぢし草の低山木を絶えて乘鞍岳をつばらかにせり おほにして過ぎば過ぐべき遠山の乘鞍岳をかしこみ我が見し 乘鞍と耳に聲響きかへり見て何ぞもいたく胸さわぎせし おもはぬに天に我が見し乘鞍は然かと人いはゞあらぬ山も猶 くしびなる山は乘鞍かしこきろ山の姿は目にかにか
夏目漱石
長塚節氏の小説「土」 夏目漱石 一方に斯んな考えがあった。―― 好い所を世間から認められた諸作家の特色を胸に蔵して、其標準で新しい作物に向うと、まだ其作物を読まないうちに、早く既に型に堕在している。従ってわが評論は誠実でも、わが態度は独立でも、又わが言説の内容は妥当でも、始めから此方に定まった尺度を持っていて、其尺度で測ってならないもの迄も律したがる弊が出る
中谷宇吉郎
國際雪氷委員會の前總裁チャーチ博士は、現在八十九歳くらいである。チャーチ博士とは、十數年來文通をしていたが、初めて會ったのは、今から六年前、一九四九年の夏であった。 ネヴァダ州のリノの町に、ネヴァダ大學があって、チャーチ博士は、その大學の教授を永らくつとめていた。私が初めてチャーチ博士に會った年、即ち一九四九年に、老齡の故をもって、大學から引退することになっ
中谷宇吉郎
長岡先生と寺田先生とは、学問のやり方でも、対世間的のすべての点でも、まるで正反対のように、一般に思われている。事実、外から見たところは、その世評のとおりである。そして外から見たいわゆる皮相の観が、案外ことがらの真をついていることが多い。両先生の仲は、決して良かったとはいえない。 しかし両先生とも、何といっても、大正昭和の日本における傑出した学者であった。お互
坂口安吾
長島の死 坂口安吾 長島に就て書いてみたところが、忽ち百枚を書いたけれども、重要なことが沢山ぬけているような気がして止してしまった。長島は私の精神史の中では極めて特異な重大な役割を持っているので、私の生きる限りは私の中に亡びることがないのである。従而、今あわただしく長島の全てに就て書き尽すまでもなく、これからの生涯に私の書くところの所々に於て、陰となり流れと
坂口安吾
長島に就て書いてみたところが、忽ち百枚を書いたけれども、重要なことが沢山ぬけてゐるやうな気がして止してしまつた。長島は私の精神史の中では極めて特異な重大な役割を持つてゐるので、私の生きる限りは私の中に亡びることがないのである。従而、今あわただしく長島の全てに就て書き尽すまでもなく、これからの生涯に私の書くところの所々に於て、陰となり流れとなつて書き尽されずに