出版の今昔
市島春城
版書版本は文化の生んだ華で、昔は或る階級の外見ることが出來なかつたものである。この華の咲かない前の吾等の遠い祖先などは夢にも版本を知らずに墓に入つた。出版が出來てからも地方のものなどは全く知らなかつた時代もある。今は婦女小兒の娯樂用に澤山の繪本があるが、或る時代には貴族の家でも、お伽草子は筆寫のものであつた。平安朝には既に版書が行はれた頃だが、版書は幾んど寺
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市島春城
版書版本は文化の生んだ華で、昔は或る階級の外見ることが出來なかつたものである。この華の咲かない前の吾等の遠い祖先などは夢にも版本を知らずに墓に入つた。出版が出來てからも地方のものなどは全く知らなかつた時代もある。今は婦女小兒の娯樂用に澤山の繪本があるが、或る時代には貴族の家でも、お伽草子は筆寫のものであつた。平安朝には既に版書が行はれた頃だが、版書は幾んど寺
市島春城
読書八境 市島春城 古語に居は気を移すとあるが、居所に依つて気分の異なるは事実である。読書も境に依つて其味が異なるのは主として気分が違ふからで、白昼多忙の際に読むのと、深夜人定まる後に読むのとに相違があり、黄塵万丈の間に読むのと、林泉幽邃の地に読むのとではおのづから異なる味がある。忙中に読んで何等感興を覚えないものを間中に読んで感興を覚えることがあり、得意の
池谷信三郎
嘉吉は山の温泉宿の主人だった。この土地では一番の物持で、山や畑の広い地所を持っていた。山には孟宗の竹林が茂り、きのこ畑にきのこが沢山とれた。季節になると筍や竹材を積んだトラックが、街道に砂埃をあげ乍ら、七里の道を三島の町へ通って行った。 嘉吉はまだ三十をちょっと越したばかりの若い男だった。親父が死んだので、東京の或る私立大学を止めて、この村へ帰って来た。 別
池谷信三郎
橋 池谷信三郎 1 人と別れた瞳のように、水を含んだ灰色の空を、大きく環を描きながら、伝書鳩の群が新聞社の上空を散歩していた。煙が低く空を這って、生活の流れの上に溶けていた。 黄昏が街の灯火に光りを添えながら、露路の末まで浸みて行った。 雪解けの日の夕暮。――都会は靄の底に沈み、高い建物の輪郭が空の中に消えたころ、上層の窓にともされた灯が、霧の夜の灯台のよう
生田長江
たとへ大多数の通俗社会主義的民主々義的批評家等や、彼等の無反省な白人的優越感と近代的先入見とから遠くかけ離れてゐないアナトール・フランス、バアナアド・シヨオ程度の著作家等が、私達のこの日本に関してどんな事を言ひ来たつてゐたにもせよ、今尚言ひ続けてゐるにもせよ尚且つ厳密に天才者と言はるべき程の天才者等は、全く何等の除外例もなく、悉く皆、内面的な意味での貴族主義
生田葵山
私が永井荷風君を知つたのは卅七八年も以前のこと、私が廿二歳、永井君は十九歳の美青年であつた。永井君の家は麹町の一番町で以前は文部省の書記官だつた父君は當時、郵船會社の横濱支店長をして居て宏壯なものだつた。永井君は中二階のやうになつた離れの八疊を書齋に當てゝ、座る机もあつたが、卓机もあつて籐椅子が二脚、縁側の欄干に沿うて置かれてあつた。その籐椅子を私はどんなに
淡島寒月
凧の話 淡島寒月 凧の話もこれまで沢山したので、別に新らしい話もないが、読む人も違おうから、考え出すままにいろいろな事を話して見よう。 凧の種類には扇、袢纏、鳶、蝉、あんどん、奴、三番叟、ぶか、烏、すが凧などがあって、主に細工物で、扇の形をしていたり、蝉の形になっていたりするものである。これらの種類のものは支那から来たもののようである。また普通の凧の絵は、達
淡島寒月
我が宗教観 淡島寒月 御存じの通り私の父の椿岳は何んでも好きで、少しずつかじって見る人でありました。で、芸術以外に宗教にも趣味を持って、殊にその内でも空也は若い頃本山から吉阿弥の号を貰って、瓢を叩いては「なアもうだ/\」を唱えていた位に帰依していたのでありました。それから後には神官を望んで、白服を着て烏帽子を被った時もありましたが、後にはまた禅は茶味禅味だと
淡島寒月
例の珍らしいもの、変ったもの、何んでもに趣味を持つ僕の事ですから、この間三越の小児博覧会へ行った。見て行く中に、印度のコブラ(錦蛇あるいは眼鏡蛇)の玩具があったが、その構造が、上州の伊香保で売っている蛇の玩具と同じである。全く作り方が同じである処から見ると、この玩具は初め印度辺りから渡ったものらしい。もっとも今は伊香保だけしか売っていないようですが、昔は東京
淡島寒月
梵雲庵漫録 淡島寒月 幼い頃の朧ろげな記憶の糸を辿って行くと、江戸の末期から明治の初年へかけて、物売や見世物の中には随分面白い異ったものがあった。私はそれらを順序なく話して見ようと思う。 一 まず第一に挙げたいのは、花見時の上野に好く見掛けたホニホロである。これは唐人の姿をした男が、腰に張子で作った馬の首だけを括り付け、それに跨ったような格好で鞭で尻を叩く真
淡島寒月
活動写真 淡島寒月 日本の活動写真界の益々進歩隆盛に赴いて来るのは、私のような大の活動写真好きにとっては誠に喜ばしい事である。私は日本製のものは嫌いで見ないから一向知らないが、帝国館や電気館あるいはキネマ倶楽部などの外国物専門の館へは、大概欠かさず見に行く。しかして回を追って、筋の上にも撮影法の上にも、あらゆる点において進歩しつつあるのを見るにつけて、活動写
淡島寒月
土俗玩具の話 淡島寒月 一 玩具と言えば単に好奇心を満足せしむる底のものに過ぎぬと思うは非常な誤りである。玩具には深き寓意と伝統の伴うものが多い。換言すれば人間生活と不離の関係を有するものである。例えば奥州の三春駒は田村麻呂将軍が奥州征伐の時、清水寺の僧円珍が小さい駒を刻みて与えたるに、多数の騎馬武者に化現して味方の軍勢を援けたという伝説に依って作られたもの
淡島寒月
右は年代を寛政といふ人と文政頃といふ人とあり、原品は東海道亀山お化とて張子にて飛んだりと同様の製作にて、江戸黒船町辺にて鬻ぎをりしを後、助六に作り雷門前地内にて往来に蓆を敷きほんの手すさびに「これは雷門の定見世花川戸の助六飛んだりはねたり」と団十郎の声色を真似て売りをりし由にて、傘の飛ぶのが面白く評判となり、江戸名物となりけるとの事。後は雷門より思ひ寄り太鼓
淡島寒月
亡び行く江戸趣味 淡島寒月 江戸趣味や向島沿革について話せとの御申込であるが、元来が不羈放肆な、しかも皆さんにお聞かせしようと日常研究し用意しているものでないから、どんな話に終始するか予めお約束は出来ない。 ◇ 人はよく私を江戸趣味の人間であるようにいっているが、決して単なる江戸趣味の小天地に跼蹐しているものではない。私は日常応接する森羅万象に親しみを感じ、
淡島寒月
寺内の奇人団 淡島寒月 水族館の近所にある植込を見ると茶の木が一、二本眼につくでしょう。あれは昔の名残で、明治の初年には、あの辺一帯茶畠で、今活動写真のある六区は田でした。これが種々の変遷を経て、今のようになったのですから、浅草寺寺内のお話をするだけでもなかなか容易な事ではありません。その中で私は面白い事を選んでお話しましょう。 明治の八、九年頃、寺内にいい
淡島寒月
明治七、八年の頃だったと思いますが、尾張町の東側に伊太利風景の見世物がありました。これは伊太利人が持って来たもので、長いカンバスへパノラマ風に伊太利のベニスの風景だとか、ナポリの景だとかあるいはヴェスビアス火山だとかいったものが描いてあって、それを機械で一方から一方へ巻いて行くに連れてそれらの景色が順次正面へ現れて来ます。そうするとその前の方へ少し離れた所に
淡島寒月
明治十年前後 淡島寒月 明治十年前後の小説界について、思い出すままをお話してみるが、震災のため蔵書も何も焼き払ってしまったので、詳しいことや特に年代の如きは、あまり自信をもって言うことが出来ない。このことは特にお断りして置きたい。 一体に小説という言葉は、すでに新しい言葉なので、はじめは読本とか草双紙とか呼ばれていたものである。が、それが改ったのは戊辰の革命
淡島寒月
私が子供の時に見たり聞いたりしたことを雑然とお話しようが、秩序も何もありませんよ。その上子供の時の事ですから、年代などは忘れてしまってる。元治慶応明治の初年から十五、六年までの間です。私が住っていた近くの、浅草から両国馬喰町辺の事ですか――さようさね、何から話して好いか――見世物ですな、こういう時代があった。何でもかんでも大きいものが流行って、蔵前の八幡の境
浅井洌
県歌 信濃の国 淺井洌 一 信濃の国は十州に 境連ぬる国にして 聳ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し 松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃の地 海こそなけれ物さわに 万ず足らわぬ事ぞなき 二 四方に聳ゆる山々は 御嶽乗鞍駒ヶ岳 浅間は殊に活火山 いずれも国の鎮めなり 流れ淀まずゆく水は 北に犀川千曲川 南に木曽川天竜川 これまた国の固めなり 三 木曽の谷には
浅井洌
信濃の國は十州に 境つらぬる國にして 山は聳えて峯高く 川は流れて末遠し 松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃の地 海こそなけれ物さはに 萬たらわぬことそなき 四方に聳ゆる山々は 御岳乘鞍駒か岳 淺間は殊に活火山 いつれも國の鎭めなり 流れ淀ます行く水は 北に犀川千曲川 南に木曽川天龍川 これまた國の固めなり 木曽の谷には眞木茂り 諏訪の湖には魚多し 民のかせ
饗庭篁村
鐵道の進歩は非常の速力を以て鐵軌を延長し道路の修繕は縣官の功名心の爲に山を削り谷を埋む今ま三四年せば卷烟草一本吸ひ盡さぬ間に蝦夷長崎へも到りヱヘンといふ響きのうちに奈良大和へも遊ぶべし况んや手近の温泉塲など樋をかけて東京へ引くは今の間なるべし昔の人が須磨明石の月も枴にかけてふり賣にやせんと冷評せしは實地となること日を待たじ故に地方漫遊のまた名所古跡一覽のと云
饗庭篁村
隅田の春 饗庭篁村 第一囘 三月二十日、今日は郡司大尉が短艇遠征の行を送るに、兼ねて此壮図に随行して其景況並びに千島の模様を委しく探りて、世間に報道せんとて自ら進みて、雪浪萬重の北洋を職務の為にものともせぬ、我が朝日新聞社員横川勇次氏を送らんと、朝未明に起出て、顔洗ふ間も心せはしく車を急せて向島へと向ふ、常にはあらぬ市中の賑はひ、三々五々勇ましげに語り合ふて
饗庭篁村
良夜 饗庭篁村 予は越後三条の生れなり。父は農と商を兼ねたり。伯父は春庵とて医師なり。余は父よりは伯父に愛せられて、幼きより手習学問のこと、皆な伯父の世話なりし。自ら言うは異な事なれど、予は物覚えよく、一を聞て二三は知るほどなりしゆえ、伯父はなお身を入れてこの子こそ穂垂という家の苗字を世に知らせ、またその生国としてこの地の名をも挙るものなれとて、いよいよ珍重
桑原隲蔵
私の講演題目は「支那の古代法律」と云ふのであります。今日から見ますとやや時代離れをして居つて、現代生活には關係がないようにも考へられますが、必ずしもさうではないと思ひます。此頃、いろいろ新しい思想が日本に入つて來て居りますが、新しい思想が盛んに行はれて來ると、當然その反動として自國の囘顧と云ふ事が行はれる。既に日本などにもさう云ふ氣分が見えて來て居りまして、