町田村の香雪園
大町桂月
東京府南多摩郡町田村の香雪園、横濱八王子間の一名所として、その地方の人には知られけるが、土田政次郎氏の有となるに及びて、其の名漸く世に現はる。土田氏自から東道の主人となりて、あまたの記者を招くに方り、記者ならぬ裸男にも及ぶ。一同東京驛に落合ひて、横濱行の電車に乘る。幹事役の結城蓄堂、一同に向ひ、『誰か碁を打つものは無きか』と問ふに、誰も答ふるもの無し。裸男ひ
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大町桂月
東京府南多摩郡町田村の香雪園、横濱八王子間の一名所として、その地方の人には知られけるが、土田政次郎氏の有となるに及びて、其の名漸く世に現はる。土田氏自から東道の主人となりて、あまたの記者を招くに方り、記者ならぬ裸男にも及ぶ。一同東京驛に落合ひて、横濱行の電車に乘る。幹事役の結城蓄堂、一同に向ひ、『誰か碁を打つものは無きか』と問ふに、誰も答ふるもの無し。裸男ひ
大町桂月
大いに醉ひて、洋服着たるまゝにて、寢につきたるは夜の一時半、五時の出發には間もなけれど、少しでも睡らむと思へるなり。平生は宵つ張りの朝寢坊なるも、氣の張れる故にや、五時半に眼さめたり。眼ざまし時計を五時にかけ置きたるに、なぜ鳴らぬぞと、いぶかりて、よく見れば、鳴らぬもその筈や、五時にかけたるつもりなるも、大醉のあまりに、誤つて七時にかけたるなり。さるにても、
大町桂月
本州の北に盡きむとする處、八甲田山崛起し、その山脈南に延びて、南部と津輕とを分ち、更に南下して、東海道と北陸とを分ち、なほ更に西に曲りて、山陽道と山陰道とを分つ。長さ數百里、恰も一大長蛇の如し。中國山脈は、その尾也。甲信の群山は、その腹也。八甲田山はその頭也。頭に目あり。凡そ三里四方、我國の『山湖』にては最も大なる者也。之を十和田湖と稱す。 鳥谷部春汀、一日
大町桂月
夏の末の大雨に、多摩川氾濫し、家流れ、田流れ、林流れ、人畜死し、汽車不通となりけるが、雨霽れて、三四日經たり。幸ひ日曜なればとて、三人の友と共に、大山街道を取りて、二子の渡に至る。平生水は砂磧中の一小部分を流るゝに過ぎざるに、今や全砂磧を蓋ひ、なほその外にも溢れて、洪水の跡を留む。一見人をして快と叫ばしむ。渡舟にて渡りて後、しばし泳ぎけるが、歸りは別路を取り
大町桂月
秋の雨しめやかに降る日、夜光命飄然來りて裸男を訪ひ、『久しく旅行せざりき。今や紅葉正に好し。何處かへ出掛けずや』といふ。『我れとても近來髀肉の歎に堪へざるが、例の軍用金なきを如何んせむ』と云へば、『其儀は心配に及ばず』といふ。『さらば、善は急げ。今日雨を衝いて程に上らむ』と云へば、『何處へ行く』と問ふ。『何處でも好けれど、利根川を溯りて沼田に至り、會津街道を
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甲子温泉に滯在する中、一日白河へとて、田中桃葉と共に山を下りけるに、白河の青年藤田虎太、長谷部英一、同英吉の三氏後より追付き來りて、共にす。芝原を經て奧州街道に出でし頃、日暮れたり。雨大いに至り、電閃き、雷鳴る。白河の市街に入り、右折して南湖に向ふ。咫尺を辨ぜざる闇の夜にて、雷雨益盛ん也。 いかづちの鳴る度ごとに路見えて 我を導く闇の稻妻 湖畔の偕樂園に籠居
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思へば夢に似たる哉。われ十九歳の時、仙臺なる叔父を訪はむとて、東京より徒歩したることありき。音に聞きつる白河の關の跡は白河にあるものと思ひしに、白河に至りて、始めて南方三里の外にあることを知りぬ。さらばとて南湖を經て訪ねゆく。岐路あれども、問ふに家なく、人なし。時は午を過ぎて、空腹に堪へず。漸くにして一壯漢の來たるに逢ふ。髯鬚長く垂れて、眼光人を射る。やれ嬉
大町桂月
夜光命、十口坊、打揃ひて裸男を訪ひ、『鹽原温泉に遊ばずや』といふ。『鹽原は幾度も遊びたる處也。唯未だ鹽原の紅葉を見ず。紅葉の時節なら、否應は云はねど、今はその時節に非ず。又避暑の時節にも早し』と首打傾くれば、『我等兩人未だ鹽原を知らず。枉げて東道の主人となり給はずや』といふ。斯く押強く言ふ以上は、必ず懷が暖かなるべしとは思ひたれど、『例の軍用金』はと念を押せ
大町桂月
這へば立て、立てば歩めと育つる子の、歩きても、『おんぶ』せざるやうになるまでの年月は、短しとせず。四郎もこの頃は漸く『おんぶ』を口にせざるやうになりぬ。さあ來い、運動につれていつてやらうと云へば、『飛び/\』をして喜ぶ。桃葉も倶にす。途に東行を誘へり。 大※驛さして行く。市區改正は郡部にも及びて、路幅は倍以上にならむとし、兩側の家みな新たにならむとす。肴屋に
大町桂月
裸男が十口坊と共に、梅を久地に探りし時も、山神附纏ひたれば、壬生忠岑の子となりたりき。又裸男が夜光命と共に、梅を江東に探りし時も、山神が附纏ひたれば、矢張壬生忠岑の子となりたりき。忠岑の子は忠見、即ち唯見るだけといふ苦しい洒落也。飮みもせず、食ひもせざる也。薩摩守だけの罪は無けれども、『酒なくて何の己れが櫻かな』と云へり、いつも/\山神に附纏はれては閉口と、
大町桂月
上野公園の新緑に送られて、來て鹽釜神社に詣づれば、祠側の鹽釜櫻、笑つて我を迎ふ。一株の老櫻、倒れむとして、また起つ。八重の瓣内に葉を出すこと、他に比類なし。海内たゞ一本の珍木と、もてはやさるゝもの也。祠は鹽釜町外れの丘上にあり。古檜老杉欝として、百餘級の石磴を夾む。祠宇宏壯、おのづからこれ東北第一のやしろ也。安産の守札世に名高し。親戚の女に孕れるものあり。そ
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曲浦長汀、烟霞縹渺として、いつ見ても厭かぬは霞ヶ浦の風光なるかな。この湖、常陸の信太、河内、新治、行方の四郡、及び下總の香取郡にまたがり、周圍三十五里、首部は新治郡の一端をはさんで、燕尾の形をなし、末は北利根川となり、北浦と合して浪逆浦となり、終に大利根川と合す。十六島とは、霞ヶ浦を西にし、浪逆浦を東にし、大利根を南にし、北利根を北にせる、一帶幾萬頃の平地に
大町桂月
箱根路を我が越えくれば伊豆の海や 沖の小島に浪の寄る見ゆ とは、鎌倉右大臣の作として有名なるが、二所參詣の時、箱根權現を經て伊豆山權現に詣づる途中にて詠みたるものなるべし。沖の小島とは初島の事なり。當年箱根より伊豆山へ下るには、蘆ノ湖の東南端より鞍掛山に上り、峯づたひに十國峠を經たるべしと思はる。七百年後の今日、裸男この路を經過するに、白浪依然として沖の小島
大町桂月
碓氷峠へとて、臨時の汽車にて、上野驛を發したるは、午後の十一時、西村渚山、鷹野止水に、子の芳文を加へて、同行四人、腰かけたるまゝにて、眠るともなく、覺むるともなく、一夜をすごして、二十六の隧道も、闇にそれとは知らずに通りぬ。滿山の紅葉は、夜の錦とかこちけむ。午前五時、輕井澤驛に下れば、空は白みかけたり。淺間山堂々として人の眉目を壓するに、頓に目覺むる心地す。
大町桂月
『石田三成』一部、朝吹英二氏よりおくりこさる。名は知り居れど、面識は無き人也。氏の著書かと思ひしに、さにあらで、氏はいたく石田三成に同情を表し、其事跡を世に明かにせむとて、渡邊世祐氏にたのみてこの書をつくらしめ、非賣品として、梓に上したる也。渡邊氏も、まだ不完全なりとて、自から謙遜して、稿本と題したるが、ひろく材料を集め、一々出所をしるし、態度眞面目にして、
大町桂月
『白川へ至りて甲子の山見ざらむは、甲子の門過ぎて入らざるが如し。甲子の山へ到りて楓葉の景見ざらむは、堂に至りて室に入らざるが如し』とは、白河樂翁公の記せる所也。夏の事とて、その所謂、室には入るを得ざれど、いざ往いて堂に上らむ哉。 一家一族あはせて九人、午後十一時發の汽車にて上野を發し、曉の四時半白河驛に着し、驛前の旅店に朝食し、『馬あるか』と問へば、『前夜よ
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足柄山へとて、天野長川をつれて、新橋より汽車にのりけるが、何十度となく通過せる路なれば、送る水、迎ふる山、最早めづらしくも無し。地圖をひろげて見入りけるに、長川も同じく地圖をひろぐ。その地圖の裏面に細字にて書きならべたるを、何かと手に取りて見れば、足柄山に關する古歌をかき集めたる也。試みに歌合にして見むとて、嗚呼がましくも、自稱判者となる。 右 勝大江廣房
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明治四十一年十月の末、われ三度目にて妙義山に遊び、去つて榛名山の麓を過ぎて、赤城山に上りぬ。 世に、妙義、榛名、赤城の三山を、上州の三名山と稱す。げに、いづれも、名山也。されど、各其特色を異にす。まづ高さを云へば、赤城は六千尺、榛名は五千尺、妙義は三千尺にも足らず。大きさを云へば、妙義は二里四方、榛名は六里四方、赤城は十里四方の地盤を占む。赤城にも、榛名にも
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層雲峡より大雪山へ 大町桂月 一 層雲峡の偉観 富士山に登って、山岳の高さを語れ。大雪山に登って、山岳の大さを語れ。 大雪山は北海道の中央に磅して、七、八里四方の地盤を占め頂上の偉大なること、天下に比なく、群峰攅って天を刺し、旭川の市街を圧す。最高峰は海抜七千五百五十八尺、ただに北海道の十国島に冠たるのみならず、九州になく、四国になく、中国になく、近畿になく
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風船玉 大町桂月 ぱつと日がさして、風なきまゝに、運動にとて、電車を閑却して、家路さして歩く。雨餘の泥濘殘れり。危くも轉ばむとして漸く支へたるが、その拍子に、右足に穿きたる足駄の前齒拔けたり。それを入れむとして見れば、やれ/\前齒の入るべき溝の底より前へかけて、足駄の臺が一面に横に割れたれば、最早溝の用をなさず。新に買ふだけの錢は持たず。已むを得ず、片足だけ
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箱根神社祈願の記 大町桂月 明治四十五年の夏、われ箱根山下の湯本村にありて、聖上陛下御重病の飛報に接し、夢かとばかり打驚きぬ。この飛報は、瞬くひまに、山又山を越え、海の外までも傅はりて、一團の愁雲忽ち東海の空を掩へり。六千萬の同胞誰か憂懼に堪へざるものあらんや。村の在郷軍人會の人々、山上の箱根神社に詣でて、御平癒の祈祷をなすと聞き、われも請ひて、その一行に加
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猫征伐 大町桂月 鷄の親鳥、ひなどり、合せて、六十羽ばかり飼ひけるが、一匹の、のら猫來りて、ひよつこを奪ひ去ること、前後、十五六羽に及べり。是に於て、わが家に、一の波瀾起る。その猫を殺さむとは、血氣盛りの甥の意見也。猫も憎けれど、祟るもの也。どうぞ殺して呉れるなとは、母、姉、妻などの意見也。なほ露國が滿洲を占領せしを見ても、清國、韓國などが何等の手出しをも爲
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日月喩 大町桂月 天に日月あるは、人に男女あるが如し。日の光は明かにして強く、月の光は清くして麗しく、おのづから陰陽のけぢめあるは、男の徳の剛を貴び、女の徳の柔を貴ぶに譬ふべし。されば、夏の日は畏るべく、冬の日は愛すべしと云ひけむ。げに、夏の日影はげしく照りては、眼もくらみて仰ぎ見ること能はざれども、紅葉かつ散る小春の日和のうらゝかなるまゝに、南の軒の下に横
大町桂月
南洲留魂祠 大町桂月 明治四十年六月三十日、第十一回目の文藝講演會を牛込の演藝館に開き、演説終りて、同所に小宴を催し、夜の十時過ぎに散會したるが、和田垣博士に要せられて、小日向臺なる其家にいたる。博士は、博識多才、一代に超絶す。洋畫や、日本畫や、書や、古物や、一々實物に就いて説明せらる。謠曲をもうたはる。終に手風琴をとり出し、曾て小栗風葉來りし時、奏して聞か