Vol. 2May 2026

Buku

Perpustakaan pengetahuan dunia domain publik

14,981종 중 2,304종 표시

応仁の乱

菊池寛

応仁の乱 菊池寛 天下大乱の兆 応仁の大乱は応仁元年より、文明九年まで続いた十一年間の事変である。戦争としては、何等目を驚かすものがあるわけでない。勇壮な場面や、華々しい情景には乏しい。活躍する人物にも英雄豪傑はいない。それが十一年もだらだらと続いた、緩慢な戦乱である。 併しだらだらでも十一年続いたから、その影響は大きい。京都に起った此の争乱がやがて、地方に

JA
Hanya teks asli

真田幸村

菊池寛

真田幸村の名前は、色々説あり、兄の信幸は「我弟実名は武田信玄の舎弟典厩と同じ名にて字も同じ」と云っているから信繁と云ったことは、確である。 『真田家古老物語』の著者桃井友直は「按ずるに初は、信繁と称し、中頃幸重、後に信賀と称せられしものなり」と云っている。 大阪陣前後には、幸村と云ったのだと思うが、『常山紀談』の著者などは、信仍と書いている。これで見ると、徳

JA
Hanya teks asli

大阪夏之陣

菊池寛

大阪夏之陣 菊池寛 夏之陣起因 今年の四月初旬、僕は大阪に二三日いたが、最近昔の通りに出来たと云う大阪城の天守閣に上って見た。 天守閣は、外部から見ると五層であるが、内部は七重か八重になっている。五階までエレヴェーターで行き、後は階段を昇るのであるが、自分は心臓が弱いため、高所にあると云う感じ丈で胸苦しくなり、最高層の窓からわずかに、足下に煤烟の下に横たわる

JA
Hanya teks asli

鳥羽伏見の戦

菊池寛

鳥羽伏見の戦 菊池寛 戦前の形勢 再度の長州征伐に失敗して、徳川幕府の無勢力が、完全に暴露された。この時既に長州は薩摩と連合して討幕の計画を廻らしていた。 温健派の山内容堂は、幕府の命運既に尽きたるを察して、幕府をしてその終りを全うせしむる意味で、大政奉還の止むなき所以を説いた建白書を、慶喜に呈した。当時在京中の慶喜悟る所あり、十月十三日在京の諸大名群臣を二

JA
Hanya teks asli

山崎合戦

菊池寛

山崎合戦 菊池寛 明智光秀は、信長の将校中、第一のインテリだった。学問もあり、武道も心得ている。戦術も上手だし、築城術にも通じている。そして、武将としての品位と体面とを保つ事を心がけている。 それだけに、勿体ぶったもっともらしい顔をして居り、偽善家らしくも見えたのであろう。リアリストで、率直を愛する信長は光秀がすまし過ぎているので、「おい! すますない!」と

JA
Hanya teks asli

島原の乱

菊池寛

島原の乱 菊池寛 切支丹宗徒蜂起之事 肥後の国宇土の半島は、その南方天草の諸島と共に、内海八代湾を形造って居る。この宇土半島の西端と天草上島の北端との間に、大矢野島、千束島などの島が有って、不知火有明の海を隔てて、西島原半島に相対して居るのである。 天正十五年、豊臣秀吉が薩摩の島津義久を征した時、九州全土に勢威盛んであった島津も、東西の両道を南下する豊臣勢に

JA
Hanya teks asli

碧蹄館の戦

菊池寛

碧蹄館の戦 菊池寛 鶏林八道蹂躙之事 対馬の宗義智が、いやがる朝鮮の使者を無理に勧説して連れて来たのは天正十八年七月である。折柄秀吉は関東奥羽へ東征中で、聚楽の第に会見したのは十一月七日である。この使が帰国しての報告の中に、秀吉の容貌矮陋面色黒、眼光人を射るとある。朝鮮人が見ても、猿らしく見えたのである。又曰く、「宴後秀吉小児を抱いて出で我国の奏楽を聴く。小

JA
Hanya teks asli

賤ヶ岳合戦

菊池寛

天正十年六月十八日、尾州清洲の植原次郎右衛門が大広間に於て、織田家の宿将相集り、主家の跡目に就いて、大評定を開いた。これが有名な清洲会議である。 この年の六月二日、京都本能寺に在った右大臣信長は、家臣惟任日向守光秀の反逆に依って倒れ、その長子三位中将信忠も亦、二条の城に於て、父と運命を共にした。当時、織田の長臣柴田修理亮勝家は、上杉景勝を討つべく、佐々内蔵助

JA
Hanya teks asli

長篠合戦

菊池寛

長篠合戦 菊池寛 元亀三年十二月二十二日、三方ヶ原の戦に於て、信玄は浜松の徳川家康を大敗させ、殆ど家康を獲んとした。夏目次郎左衛門等の忠死なくんば、家康危かった。 信玄が、三方ヶ原へ兵を出したのは、一家康を攻めんとするのではなく、三河より尾張に入り岐阜を攻めて信長を退治し、京都に入らんとする大志があったからだ。 だから、三方ヶ原の大勝後その附近の刑部にて新年

JA
Hanya teks asli

田原坂合戦

菊池寛

田原坂合戦 菊池寛 西郷降盛が兵を率いて鹿児島を発したときの軍容は次の通りである。 第一大隊長  篠原 国幹 第二大隊長  村田 新八 第三大隊長  永山弥市郎 第四大隊長  桐野 利秋 第五大隊長  池上 四郎 第六大隊長  別府 晋介 大隊長は凡て、名にし負う猛将ぞろいである。殊に桐野利秋は中村半次郎と称して維新当時にも活躍した男である。各大隊は兵数ほぼ

JA
Hanya teks asli

桶狭間合戦

菊池寛

天文十八年三月のこと、相遠参三ヶ国の大名であった今川氏を始めとし四方の豪族に対抗して、尾張の国に織田氏あることを知らしめた信秀が年四十二をもって死んだ。信秀死する三年前に古渡城で元服して幼名吉法師を改めた三郎信長は、直に父の跡を継いで上総介と号した。 信秀の法事が那古野は万松寺に営まれた時の事である。重臣始めきらびやかに居並んで居る処に、信長先ず焼香の為に仏

JA
Hanya teks asli

川中島合戦

菊池寛

川中島合戦 菊池寛 川中島に於ける上杉謙信、武田信玄の一騎討は、誰もよく知って居るところであるが、其合戦の模様については、知る人は甚だ少い。琵琶歌等でも「天文二十三年秋の半ばの頃とかや」と歌ってあるが、之は間違いである。 甲越二将が、手切れとなったのは、天文二十二年で、爾来二十六年間の交戦状態に於て、川中島に於ける交戦は数回あったが、其の主なるものは、弘治元

JA
Hanya teks asli

厳島合戦

菊池寛

厳島合戦 菊池寛 陶晴賢が主君大内義隆を殺した遠因は、義隆が相良遠江守武任を寵遇したからである。相良は筑前の人間で義隆に仕えたが、才智人に越え、其の信任、大内譜代の老臣陶、杉、内藤等に越えたので、陶は不快に感じて遂に義隆に反して、天文十九年義隆を殺したのだ。 此の事変の時の毛利元就の態度は頗る暖昧であった。陶の方からも義隆の方からも元就のところへ援助を求めて

JA
Hanya teks asli

姉川合戦

菊池寛

姉川合戦 菊池寛 原因 元亀元年六月二十八日、織田信長が徳川家康の助力を得て、江北姉川に於て越前の朝倉義景、江北の浅井長政の連合軍を撃破した。これが、姉川の合戦である。 この合戦、浅井及び織田にては、野村合戦と云う。朝倉にては三田村合戦と云う。徳川にては姉川合戦と云う。後に徳川が、天下を取ったのだから、結局名前も姉川合戦になったわけだ。 元来、織田家と朝倉家

JA
Hanya teks asli

将棋

菊池寛

将棋 菊池寛 将棋はとにかく愉快である。盤面の上で、この人生とは違つた別な生活と事業がやれるからである。一手一手が新しい創造である。冒険をやつて見ようか、堅実にやつて見ようかと、いろ/\自分の思ひ通りやつて見られる。而も、その結果が直ちに盤面に現はれる。その上、遊戯とは思はれぬ位、ムキになれる。昔、インドに好戦の国があつて、戦争ばかりしたがるので、侍臣が困つ

JA
Hanya teks asli

我が馬券哲学

菊池寛

我が馬券哲学 菊池寛 次ぎに載せるのは、自分の馬券哲学である。数年前に書いたものだが、あまり読まれていないと思うので再録することにした。 一、馬券は尚禅機の如し、容易に悟りがたし、ただ大損をせざるを以て、念とすべし。 一、なるべく大なる配当を獲んとする穴買主義と、配当はともかく勝馬を当んとする本命主義と。 一、堅き本命を取り、不確かなる本命を避け、たしかなる

JA
Hanya teks asli

易と手相

菊池寛

易と手相 菊池寛 自分が、易や手相のことを書くと笑う人がいるかも知れないが、自分が一生に一度見て貰った手相は、実によく適中した。 それは、時事新報社の記者をしている頃だった、久米が二十七歳前のことだから、十年近い昔である。久米と芥川と僕とで、晩食を共にした後でもあったろうか、湯島天神の境内を通るとき、彼処に出ている一人の易者に冗談半分に見て貰ったのである。む

JA
Hanya teks asli

ある抗議書

菊池寛

司法大臣閣下。 少しの御面識もない無名の私から、突然かかる書状を、差上げる無礼をお許し下さい。私は大正三年五月二十一日千葉県千葉町の郊外で、兇悪無残な強盗の為に惨殺されました角野一郎夫妻の肉親のものでございます。即ち一郎妻とし子の実弟であります。私の姉夫婦の悲惨な最期は、当時東京の各新聞にも精しく報道されましたから、『千葉町の夫婦殺し』なる事件は、閣下の御記

JA
Hanya teks asli

芥川の事ども

菊池寛

芥川の事ども 菊池寛 芥川の死について、いろいろな事が、書けそうで、そのくせ書き出してみると、何も書けない。 死因については我々にもハッキリしたことは分らない。分らないのではなく結局、世人を首肯させるに足るような具体的な原因はないと言うのが、本当だろう。結局、芥川自身が、言っているように主なる原因は「ボンヤリした不安」であろう。 それに、二、三年来の身体的疲

JA
Hanya teks asli

島原心中

菊池寛

島原心中 菊池寛 自分は、その頃、新聞小説の筋を考えていた。それは、一人の貧乏華族が、ある成金の怨みを買って、いろいろな手段で、物質的に圧迫される。華族は、その圧迫を切り抜けようとしてく。が、いたため、かえって成金の作っておいた罠に陥って、法律上の罪人になるという筋だった。 自分は、その華族が、切羽詰って法律上の罪を犯すというところを、なるべく本当らしく、実

JA
Hanya teks asli

俊寛

菊池寛

治承二年九月二十三日のことである。 もし、それが都であったならば、秋が更けて、変りやすい晩秋の空に、北山時雨が、折々襲ってくる時であるが、薩摩潟の沖遥かな鬼界ヶ島では、まだ秋の初めででもあるように暖かだった。 三人の流人たちは、海を見下ろす砂丘の上で、日向ぼっこをしていた。ぽかぽかとした太陽の光に浴していると、ところどころ破れほころびている袷を着ていても、少

JA
Hanya teks asli

乱世

菊池寛

乱世 菊池寛 一 戊辰正月、鳥羽伏見の戦で、幕軍が敗れたという知らせが、初めて桑名藩に達したのは、今日限りで松飾りが取れようという、七日の午後であった。 同心の宇多熊太郎という男が、戦場から道を迷って、笠置を越え、伊賀街道を故郷へと馳せ帰って来たのである。 一藩は、愕然とした。愕然としながらも、みんな爪先立てて後の知らせを待っていた。 公用方の築麻市左衛門が

JA
Hanya teks asli

義民甚兵衛

菊池寛

義民甚兵衛 菊池寛 人物 農夫     甚兵衛   二十九歳 甚しき跛者 その弟    甚吉    二十五歳 同      甚三    二十二歳 同      甚作    二十歳 甚兵衛の継母 おきん   五十歳前後 隣人     老婆およし 六十歳以上 庄屋     茂兵衛 村人     勘五郎 村人     藤作 一揆の首領  甲 同      乙 刑吏

JA
Hanya teks asli

仇討三態

菊池寛

仇討三態 菊池寛 その一 越の御山永平寺にも、爽やかな初夏が来た。 冬の間、日毎日毎の雪作務に雲水たちを苦しめた雪も、深い谷間からさえ、その跡を絶ってしまった。 十幾棟の大伽藍を囲んで、矗々と天を摩している老杉に交って、栃や欅が薄緑の水々しい芽を吹き始めた。 山桜は、散り果ててしまったが、野生の藤が、木々の下枝にからみながら、ほのかな紫の花房をゆたかに垂れて

JA
Hanya teks asli