仇討禁止令
菊池寛
仇討禁止令 菊池寛 一 鳥羽伏見の戦で、讃岐高松藩は、もろくも朝敵の汚名を取ってしまった。 祖先が、水戸黄門光圀の兄の頼重で、光圀が後年伯夷叔斉の伝を読み、兄を越えて家を継いだことを後悔し、頼重の子綱条を養って子とし、自分の子鶴松を高松に送って、嗣子たらしめた。 だから、高松藩は、徳川宗家にとっては御三家に次ぐ親しい間柄である。従って、維新の時、一藩挙って宗
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仇討禁止令 菊池寛 一 鳥羽伏見の戦で、讃岐高松藩は、もろくも朝敵の汚名を取ってしまった。 祖先が、水戸黄門光圀の兄の頼重で、光圀が後年伯夷叔斉の伝を読み、兄を越えて家を継いだことを後悔し、頼重の子綱条を養って子とし、自分の子鶴松を高松に送って、嗣子たらしめた。 だから、高松藩は、徳川宗家にとっては御三家に次ぐ親しい間柄である。従って、維新の時、一藩挙って宗
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ゼラール中尉 菊池寛 リエージュの町の人で、ゼラール中尉を知らぬ者はあるまい。中尉は、リエージュの周囲にいくつも並んでいる堡塁の一つである、フレロン要塞の砲兵士官である。スタイルの素晴らしく水際立った、立派な士官である。中尉の短く刈り込んだ髭や、いつも微笑を湛えている蒼い瞳や、一本一本手入れの届いている褐色の頭髪などは、誰にも快い感じを与えずにはいなかったの
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若杉裁判長 菊池寛 △△△地方裁判所の、刑事部の裁判長をしている、判事若杉浩三氏は若い時、かなり敬虔なクリスチャンでありました。 が、普通クリスチャンの青年が、社会に出てしまうと、まるきり物忘れをしたように、けろりとクリスチャンでなくなるように、若杉さんも、いつの間にか、青年時代の信仰をどこかへ置き忘れていました。それは、大学時代に作ったたくさんのノートの中
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藤十郎の恋 菊池寛 人物 坂田藤十郎 都万太夫座の座元、三が津総芸頭と賛えられたる名人 霧浪千寿 立女形、美貌の若き俳優 中村四郎五郎 同じ座の立役 嵐三十郎 同上 沢村長十郎 同上 袖崎源次 同じ座の若女形 霧浪あふよ 同上 坂田市弥 同上 小野川宇源次 同じ座のわかしゅ形 藤田小
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父帰る 菊池寛 人物 黒田賢一郎 二十八歳 その弟 新二郎 二十三歳 その妹 おたね 二十歳 彼らの母 おたか 五十一歳 彼らの父 宗太郎 時 明治四十年頃 所 南海道の海岸にある小都会 情景 中流階級のつつましやかな家、六畳の間、正面に箪笥があって、その上に目覚時計が置いてある。前に長火鉢あり、薬缶から湯気が立っている。卓子台が出してある
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忠直卿行状記 菊池寛 一 家康の本陣へ呼び付けられた忠直卿の家老たちは、家康から一たまりもなく叱り飛ばされて散々の首尾であった。 「今日井伊藤堂の勢が苦戦したを、越前の家中の者は昼寝でもして、知らざったか、両陣の後を詰めて城に迫らば大坂の落城は目前であったに、大将は若年なり、汝らは日本一の臆病人ゆえ、あたら戦を仕損じてしもうたわ」と苦り切って罵ったまま、家康
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出世 菊池寛 譲吉は、上野の山下で電車を捨てた。 二月の終りで、不忍の池の面を撫でてくる風は、まだ冷たかったが、薄暖い早春の日の光を浴びている楓や桜の大樹の梢は、もうほんのりと赤みがかっているように思われた。 ずいぶん図書館へも来なかったなと、譲吉は思った。図書館でゆっくりと半日を暮し得るほどの暇もなかった過去一、二年の生活が、今さらのように振りかえられた。
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勝負事 菊池寛 勝負事ということが、話題になった時に、私の友達の一人が、次のような話をしました。 「私は子供の時から、勝負事というと、どんな些細なことでも、厳しく戒められて来ました。幼年時代には、誰でも一度は、弄ぶにきまっている、めんこ、ねっき、ばいなどというものにも、ついぞ手を触れることを許されませんでした。 『勝負事は、身を滅ぼす基じゃから、真似でもして
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船医の立場 菊池寛 一 晩春の伊豆半島は、所々に遅桜が咲き残り、山懐の段々畑に、菜の花が黄色く、夏の近づいたのを示して、日に日に潮が青味を帯びてくる相模灘が縹渺と霞んで、白雲に紛れぬ濃い煙を吐く大島が、水天の際に模糊として横たわっているのさえ、のどかに見えた。 が、そうした風光のうちを、熱海から伊東へ辿る二人の若い武士は、二人とも病犬か何かのように険しい、憔
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杉田玄白が、新大橋の中邸を出て、本石町三丁目の長崎屋源右衛門方へ着いたのは、巳刻を少し回ったばかりだった。 が、顔馴染みの番頭に案内されて、通辞、西善三郎の部屋へ通って見ると、昨日と同じように、良沢はもうとっくに来たと見え、悠然と座り込んでいた。 玄白は、善三郎に挨拶を済すと、良沢の方を振り向きながら、 「お早う! 昨日は、失礼いたし申した」と、挨拶した。
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恩讐の彼方に 菊池寛 一 市九郎は、主人の切り込んで来る太刀を受け損じて、左の頬から顎へかけて、微傷ではあるが、一太刀受けた。自分の罪を――たとえ向うから挑まれたとはいえ、主人の寵妾と非道な恋をしたという、自分の致命的な罪を、意識している市九郎は、主人の振り上げた太刀を、必至な刑罰として、たとえその切先を避くるに努むるまでも、それに反抗する心持は、少しも持っ
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恩を返す話 菊池寛 寛永十四年の夏は、九州一円に近年にない旱炎な日が続いた。その上にまた、夏が終りに近づいた頃、来る日も来る日も、西の空に落つる夕日が真紅の色に燃え立って、人心に不安な期待を、植えつけた。 九月に入ると、肥州温泉ヶ嶽が、数日にわたって鳴動した。頂上の噴火口に投げ込まれた切支丹宗徒の怨念のなす業だという流言が、肥筑の人々を慄れしめた。 凶兆はな
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屋上の狂人 菊池寛 人物 狂人 勝島義太郎 二十四歳 その弟 末次郎 十七歳の中学生 その父 義助 その母 およし 隣の人 藤作 下男 吉治 二十歳 巫女と称する女 五十歳位 時 明治三十年代 所 瀬戸内海の讃岐に属する島 舞台 この小さき島にては、屈指の財産家なる勝島の家の裏庭。家の内部は結いめぐらした竹垣に遮ぎられて
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大島が出来る話 菊池寛 苦学こそしなかったが、他人から学資を補助されて、辛く学校を卒業した譲吉は、学生時代は勿論卒業してからの一年間は、自分の衣類や、身の廻りの物を、気にし得る余裕は少しもなかった。 学生で居た頃は、彼はニコニコの染絣などを着て居た。高等程度の学生としては、粗服に過ぎて居た。が、衣類に対しては、無感覚で無頓着であった譲吉は、自分の着て居る絣が
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無名作家の日記 菊池寛 九月十三日。 とうとう京都へ来た。山野や桑田は、俺が彼らの圧迫に堪らなくなって、京都へ来たのだと思うかも知れない。が、どう思われたって構うものか。俺はなるべく、彼らのことを考えないようにするのだ。 今日初めて、文科の研究室を見た。思いのほかにいい本がある。蚕が桑の葉を貪るように、片端から読破してやるのだ。研究という点においては、決して
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M侯爵と写真師 菊池寛 ……君も知っているでしょう、僕の社の杉浦という若い写真師を。君もきっとどこかで、一度くらいは会ったことがあるはずです。まだ若い、二十をやっと出たか出ないかの江戸っ子です。あの男とM侯爵との話です。M侯爵って、無論あのM侯爵です。大名華族中第一の名門で重厚謹厳の噂の高い、華族中おそらく第一の名望家といってもよいあのM侯爵です。第三次の桂
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三浦右衛門の最後 菊池寛 駿河の府中から遠からぬ田舎である。天正の末年で酷い盛夏の一日であった。もう十日も前から同じような日ばかりが続いていた。その炎天の下を、ここから四、五町ばかり彼方にある街道を朝から、織田勢が幾人も幾人も続いて通る。みんな盛んに汗をかいている。その汗にほこりが付いて黒い顔がさらに黒ずんで見える。しかしこう物騒な世の中ではあるが、田の中に
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身投げ救助業 菊池寛 ものの本によると、京都にも昔から自殺者はかなり多かった。 都はいつの時代でも田舎よりも生存競争が烈しい。生活に堪えきれぬ不幸が襲ってくると、思いきって死ぬ者が多かった。洛中洛外に激しい飢饉などがあって、親兄弟に離れ、可愛い妻子を失うた者は世をはかなんで自殺した。除目にもれた腹立ちまぎれや、義理に迫っての死や、恋のかなわぬ絶望からの死、数
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勲章を貰う話 菊池寛 一 春が来た。欧州戦争第二年目の春が来た。すべてのものを破壊し、多くの人類を殺傷している戦争も、春が蘇ってくるのだけは、どうすることもできなかった。 戦争の荒し壊す力よりも、もっと大きい力が、砲弾に砕かれた塹壕の、ベトンとベトンの割れ目から緑の芳草となって萌え始めた。砲弾に頂を削り去られた樺の木にも、下枝いっぱいに瑞々しい若芽が、芽ぐん
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吉良上野の立場 菊池寛 一 内匠頭は、玄関を上ると、すぐ、 「彦右衛と又右衛に、すぐ来いといえ」といって、小書院へはいってしまった。 (そらっ! また、いつもの癇癪だ)と、家来たちは目を見合わせて、二人の江戸家老、安井彦右衛門と藤井又右衛門の部屋へ走って行った。 内匠頭は、女どもに長上下の紐を解かせながら、 「どうもいかん! また物入りだ! しょうがない!」
菊池寛
入れ札 菊池寛 人物 国定忠治 稲荷の九郎助 板割の浅太郎 島村の嘉助 松井田の喜蔵 玉村の弥助 並河の才助 河童の吉蔵 闇雲の牛松 釈迦の十蔵 その他三名 時所 上州より信州へかかる山中。天保初年の秋。 情景 秋の日の早暁、小松のはえた山腹。地には小笹がしげっている、日の出前、雲のない西の空に赤城山がほのかに見える。幕が開くと、才助と浅太郎とが出てくる。二
菊池寛
青木の出京 菊池寛 一 銀座のカフェ××××で、同僚の杉田と一緒に昼食を済した雄吉は、そこを出ると用事があって、上野方面へ行かねばならぬ杉田と別れて、自分一人勤めている△町の雑誌社の方へ帰りかけた。 それは六月にはいって間もない一日であった。銀座の鋪道の行路樹には、軽い微風がそよいでいたが、塵をたてるほど強いものではなく、行き交うている会社員たちの洋服はたい
岡本綺堂
春の雑誌に何か怪奇趣味の随筆めいたものを書けと命ぜられた。これは難題であると私は思った。 昔も今も新年は陽気なものである。お屠蘇の一杯も飲めば、大抵の弱虫も気が強くなって、さあ矢でも鉄砲でも幽霊でも化物でも何でも来いということになる。怖い物見たさが人間の本能であると云っても、屠蘇気分と新年気分とに圧倒されて、その本能も当分屏息の体である。その時、ミステリアス
岡本綺堂
お福さんという老女は語る。 わたくしのような年寄りに何か話せと仰しゃっても、今どきのお若い方々のお耳に入れるような、珍らしい変わったお話もございません。それでも長いあいだには、自分だけには珍らしいと思うようなことが無いでもございません。これもその一つでございます。 わたくしが十七の年――文久二年でございます。その頃、わたくしの家は本郷の千駄木坂下町、どなたも