Chapter 1 of 1

Chapter 1

――まど子さん、何年になつたの、今度?……

と、ぼくは、たま/\逢つたKさんの、上のはうのお嬢さんに、何んの気なしに訊いた。

――来年、卒業です。

と、まど子さんは、ニッコリ、口もとをほころばした。

――えッ、来年、卒業?……

ぼくは、おもはず大きな声をだして、

――ほんと、まど子さん?……

と、改めて、まど子さんの顔をみた。

――えゝ。

まど子さんは、もう一度、ニッコリした。

――へえ、それァ……

ぼくは、おもはず今度は、溜息を……自分だけにわかる溜息をついた。……のは、嘗て、まど子さんの慶応義塾の大学の入学試験をうけるときの心配と、そして、首尾よく合格したときの喜びの幾分とを、まど子さん、及び、まど子さんのお母ァさんとゝもにわけ合つたぼくだからである。……お父さんのKさんは、ちやうど、そのとき、フランスへ行つてゐた。……そして、それが、そのまど子さんの返事を聞くまで、ついまだ、昨日の出来事のやうにしか、ぼくには思へなかつたのである……

――驚いたなァ、それァ……

いつ、そんな……いゝえ、いつの間に、そんな、三年も五年もの年月がすぎたのだらう?……その間で、一たい、ぼくは、何をしたといふのだらう?……すくなくとも、一人のお嬢さんが大学に入り、やがてもう、来年は卒業するといふその間で……

ぼくは、いまさらのやうに、ぼくをめぐつて去つた年月のかげを追ひ、身のまはりをみまはした。

東京にでゝゐて、七八日ぶりで鎌倉に帰ると、下河原の雅楽多堂といふ、文字どほりのガラクタばかり並べた古道具屋が、いつの間にか、八百屋になつてゐた。

――はて?

と、ぼくは、わが目を疑つた。……しかし、みれば、その八百屋の店で働いてゐるのは、いつもの、よれ/\の古洋服を無精ッたらしく着た、もとの、矢つ張、雅楽多堂の老主人だつた。

すれば、雅楽多堂が転業したので、代の替つたのでないことはあきらかだ。

しかし、古道具屋と八百屋……

判じものだ、どうしたつて、これ。……

下河原には、もう一けん、同じやうな店がある。雅楽多堂よりはあたらしくできた……といふことは、ぼくが鎌倉に住むやうになつてからできた店だが、雅楽多堂とはちがつて、このはうは上物屋だつた。一二度、買物をしたのが縁で、顔なじみになり、ときには、必要がなくつても、ぼくは、その店のまへに立つた。……すなはち、ぼくは、そこに寄つて、道具屋、化して、八百屋になつたわけを聞いてみた。

――家の方たちが、いやになつたんださうです、道具屋が……

と、年のわかいその店の主人のこたへは、しごく簡単だつた。

――しかし、いやになつたからつて、右からひだり、道具屋なんてものが、すぐに?……

――止められるか、と被仰るんですか?……

――と思ふけれど、われ/\にすると。……手もちのものを処分するだけだつて、君……

――そんなことは、あなた。……トラックに積んで、市場にさへもつて行けば、何んにも苦労は入りません。……市場で、適当に、処理してくれます。

――なるほど、さういふ手があれば……

――ですから、逆に、はじめようと思つたら、金とトラックをもつて市場にさへ行けば、明日からでもすぐ開業できます。……道具屋なんてものは、ですから、思ひやうによつちやァ、こんなわけのない稼業はないんで……

――八百屋はどうだらう?

――八百屋ですか?……このはうは知りませんが、これだつて、中へ入つてみたら、存外、わけなくできるんぢやアないでせうか?……何分、値段のきまつてるものを売るんですから。……そこへ行くと、道具屋のはうは……

ぼくは、主人のすゝめてくれた、店頭の、売りものゝ大きな椅子に腰を下ろし、さうした話をしつゝ、みるともなしに往来のはうをみた。曇つて、底冷えのする二月の末の、たま/\人通りの絶えた、白く、しんとした道のまん中に、素足にサンダルを穿いた、パン/\としか思へない洋服の女が二人、何かヒソヒソ、話をして立つてゐた。

――鎌倉ッてところ、こんなにも寂しいところだつたのか?

ヒョイと、ぼくは、さう思つた。……途端に、血の退くやうに、すべての希望の身うちから消えるのを感じた。

――今日、東京のお宿をおたづねしましたら、こちらだといふことで……

と、たま/\東京から来た客はいつた。

――えゝ、昨日、帰りました。

と、ぼくはこたへた。

――今度は、当分、こちらで?……

――いゝえ、明日、また、出ます。

――それは、また。……それぢやァ、せッかく、お帰りになつても……

――さうなので。……何んのために帰つて来るのか、自分でも分りません。……しかし、夜、十一時十五分の終電車に乗つて帰り、あくる朝、すぐ、また、九時まへの電車に乗つて、十時までに新橋に下りたりする諸君のことを思つたら、ぜいたくはいへません。……寝に帰るばかりのわが家けふの月、にしちやァ、鎌倉ッてところは、何んとしても東京から遠すぎます。

――しかし、どのみち、馴れておしまひになれば……

――ところが、馴れません。……不思議な位、馴れません。……といふことは、いつになつても、何年たつても、鎌倉、東京間の距離はちッとも短縮されません。……短縮されるどころか、年とゝもに、その逆になつて来るやうな気さへするので……

――それは、なぜで?……

――それだけ、こッちの健康も衰へて来たんでせうね、とる年で……

――何年におなりになります、こちらへおうつりになつて?……

――ちやうど、十年になります。

――十年?……

――一むかしです。……終戦の年の十一月ですから、こッちへ来たの……

――なるほど、それだと……

――東京から帰つて、停車場に下りても自動車はおろか、リンタクさへなかつたんです、その時分。……いやでも、この材木座まで、あるくより外に方法がなかつたんです。……仕方がない、あるきました、真つ暗な道を、二十分かけて……勿論、十時……といひたいが、じつは、九時すぎたら、人通りはなくなり、起きてゐる家なんぞ、一けんもありません。……何も、これはしかし、鎌倉にかぎつたことではなく、そのころは、銀座でもさうでしたが……

――わたくしも、一度、新橋演舞場のところの橋の上で、三人づれのアメリカの酔ッぱらひに追ッかけられ、“シェーム、オン、ユウ”と怒鳴りながら、逃げました、逃げました……

――鎌倉にはクロンボのわるい奴が出没しましてね。……だから、ぼくは、万一にそなへて、右のかくしに、ナイフに附いてゐるキリを握りづめでした。……そして、大きな声でウタを……うたふんぢやなくて、呶鳴りつゞけてあるいた。……いまは八幡まへにゐる漫画のSさんが、まだ、材木座にゐた時分で、帰る方角が同じだつたんで、しば/\一しよに合唱しながらあるいたことをおぼえてゐます。

――何を合唱なすつたので?……

――“青葉しげれる”です。……知ってますか、あの歌?……

――知つております。……“青葉しげれる桜井の、里のわたりの夕まぐれ……木の下蔭に駒とめて、世の行末を、つく/″\と”……、子供の時分、上の兄のうたふのを聞いておぼえました。

――ぼくは、好きでしてね、むかし、あの歌が。……ぼくの小学校の二三年時分に流行つたんですが、ぼくは、いまでも、あの歌をしまひまで知つてゐる。……“ともに、み送り、み返りて、わかれを惜しむをりからに、またもふりくるさみだれの、なかに一こゑ、ほとゝぎす……”といふんですが……

――兄は、そこまではうたひませんでした。

――いゝえ、だれも知りません、こゝまでは。……しかし、一寸さきもわからない真つ暗な道を、この歌をうたつてあるいてゐると、しまひには胸が一ぱいになつて、だん/\声が小さくなつた。……いまにして思へば、それこそ“世の行末”だつたんですね。……“世の行末”が案じられたんですね、いはず語らずに……

――じッさい、あの時分は、このさき自分がどうなるのか、まるッきり見当がつきませんでした。……そのくせ、われ人ともに、わりに平気で、カストリを飲んで酔ッぱらつてゐたといふことは、度胸がよかつたのか、バカだつたのか?……

――両方ですよ。

――両方?……左様ですか、なるほど……

――だから、鎌倉でも、たッた一人、靴みがきがでゝゐたゞけの若宮大路に、そのうち、だん/\、闇市はできる、リンタクはできる、パン/\宿はできる。……さうなると、ぼくも、歌をわすれたカナリヤになつて、自然“青葉しげれる”と縁が切れた……のを、あるとき、“あなた、ちッとも、このごろ、あれをうたひませんね”と、ある人からひやかされました。……で、さういはれて、ぼくは、はッと思つた。……さういはれるまで、うッかりしていたんです、ぼくは……

――どなたです、そのある人といふのは?……

――やッぱり漫画のYさんです。……

四五日、また、東京の宿屋ですごして、ある晩、終電車よりずッと早い、九時十五分といふのに乗つた。あたまが重く、何か、気もちがさッぱりしなかつたからである。

電車に乗るなり、ぼくは、腐つたやうに眠つた。

鎌倉に着くと、いつふりだしたのか、雨がビショ/\ふつてゐた。そればかりでなく停電だつた。

――めづらしいナ、こんなあんたんとした光景は……

と自分にいひつゝ、ぼくは、駅まへの、“リンドウ”の扉を押した。……“リンドウ”といふのは、鎌倉ペンクラブの会員たちを定連にもつ喫茶店である。

どのテーブルにも、蝋燭の火が瞬いてゐた。

ぼくはそこから電話をかけた。……わが家へではない、わが家のそばのF医院へ……

電話口にでた声は、奥さんだつた。

――風邪だらうと思ひます。……大したことはないと思ひますが、一寸、これから、お寄りしますが……

と、ぼくはいつた。

――じつは、宅も、いま、少々熱がありまして、休んでをりますんでございますが……

と、奥さんはいつた。

――お風邪ですか?

――と思ひますんでございますが、……

――御診察ねがへなくつても、お薬だけでも頂戴に、いま、すぐ、うかゞひますから……

F医院の院長のF博士は、満洲帰りのもと軍医で、六七年まへ、材木座に開業したのだが、二三人、むづかしい病人を直したので、たちまち“名医”だといふことになつた。そして、近所でも、おどろくほど繁昌した。ぼくとは、学校の関係で……Fさんも、ずッと、慶応義塾だつた……医者対患者の附合以上の附合をもつた。……つまり、幾分、飲み仲間でゞもあつたわけである。

十分ほどのあと、ぼくは、F医院の門のまへで自動車を下りた。大きな水たまりが門のまへにひろがつてゐた。こゝも停電で、蝋燭の火がたよりだつた。

ぼくは玄関に立つたまゝ、奥さんからうけとつた検温器を腋の下にはさんだ。

八度すこしの熱があつた。

――宅は、九度越してをります。

と、奥さんはいつた。

雨の音が、蝋燭の火の瞬きにかよつた。

Fさんは、それから十日ほどして、この世を去つた。

何といふ、あッけなさ。……と思ったのは、ぼくが知らなかつたので、Fさんは、それまでに、幾たびも喀血してゐたのだつた。

しかも、その胸のやまひは、患者から感染したものだつた。

ぼくは、このごろ、世の行末ならぬ身の行末についてのみ考へてゐる。……なぜだらう?……庭の、まッさかりの連翹の黄が、春の漸くふかいことをつたへてゐるのは……

●図書カード

Chapter 1 of 1