中房温泉
荒模様であった空は、夜が明けると少し穏になって、風は強いが雨脚は疎になった。七月二十四日の朝である。松本駅前の旅館に泊っていた槇君と私とは、駅に向って馳せ集る夥しい人の群に、それは秩父宮殿下が今朝此処へ御着きになって、やがて信濃鉄道へ御乗換になる其折の、奉迎奉送の人達であると知りながら、又昨日中房温泉から殿下のお迎に下って来た私等でありながら、忘れてはふと何事が起ったのかと怪しむのであった。
汽車は定刻の午前七時二十分より可なり遅れて到着した。信濃鉄道では有明駅まで特に臨時列車を運転することになっているので、別に長いこと御待合せの必要もなく、殿下はプラットホームにお立ちになった儘、伺候の人々に謁見を賜わり、お荷物の積入れが済むと直ぐ御乗込みになって、列車は有明駅に向って出発した。
殿下は御質素な登山服に登山靴というお身軽な御扮装で、御附武官の竹本さんも御用掛の渡辺さんも同じく登山の服装であった、槇君は元より言う迄もない。唯県庁からお伴の列に加わる矢沢君其他の人達や各新聞社の特派員の大部分は、私と同じ草鞋仲間なので、少しは心強くなる。
有明駅に着く頃から、山は雨に烟っているが、里では雲が切れて幸に雨は歇んだ。前から打合せて置いた通り、槇君に人夫の指図を任せ、私は御先導をつとめて、直に行進を始めた。此辺の土質は花崗岩の※爛した砂地である為に、雨は降っても道は濘らない。路傍の草なども綺麗に刈り払われてあった。途中特に有明小学校に御立寄になって、天蚕飼育の状況や、天蚕糸を原料とした各種の製品を仔細に御覧になり、校庭には記念の松を御手植になった。有明村は有名な天蚕飼育地であるから、地方の産業に深く御心を留めさせられる殿下の台覧を仰いだ当事者は、さぞ忝く思った事であろう。
村々の沿道には、老若男女が堵列して殿下をお迎え申上げていた。殿下がお弁当や写真機や雨具などの御品を入れさせられた重そうなリュックサックを御自身お背負になり、ピッケルを御手に、ゆったりした御足取で歩まれながら、路傍に立って礼拝する人達に帽子を取って一々御会釈を賜わる御姿を拝して、その御無造作に驚くまでに感激しない者はなかったであろう。殿下の御強健にましますことは兼て拝承していたが、実際毎日二貫目から三貫目をお背負になって、険しい山路に少しも御艱みのさまがあらせられなかったのには、随行の誰もが今更のように恐れ入ってしまったのであった。
宮城の有明神社に御着きになったのは九時半頃であった。祐明門や拝殿などの構造が精巧であるところから、俗に信濃日光の称がある。時間はまだ早いけれども、此処で御中食をなさる御予定であったので、社務所では特に舞殿を装飾して、御休息所に充る積りであったらしい。されど殿下は神社に御参拝になると、いと御気軽に祐明門の傍にある老媼の茶店に御立寄になって、お伴の者に店にあったサイダーを下され、御携帯のお弁当をお開きになった。茶店とはいえ、唯だ木蔭に四つ五つの縁台を並べ、それへ薄縁を敷き、其上に坐布団を置いた至って粗末な露店である。古風な竈に茶釜を懸けて湯を沸かしていたお婆さんは、一時に押寄せた大勢の客に、転手古舞を演じていたのも無理はない。
此処から道は信濃富士の称ある有明山の南側を廻って、中房川に沿いながら次第に深く山懐に這入って行くのである。約三里の行程も、時には昼も暗い程に繁った森林を穿ち、或は脚下十丈の底に中房川の奔湍激流を瞰、又は徂徠する雲の間から有明山の突兀たる姿を仰ぎなどして、鶯や時鳥の鳴く音に耳を傾けながら、三度目に中房川の釣橋を渡ると、間もなく中房温泉に達する。有明神社から四時間とは費さないであろう。骨の折れる道という程の道ではない。しかし真夏の日盛りであるから暑さはきびしい。お伴の人達が汗にまみれる頃になると、殿下は清水の流れている木蔭や谷の隈で、そこらに転がっている岩の上又は丸太などにお腰掛けになって、お休みになる。尤も路のほとりに白い幔幕を張り廻して、御休息所らしいものがしつらえてあるにはあったが、御立寄りにならなかった。これは畏くも山の旅であるという御気持の上から、特殊の施設を避けさせられて、わざと御立寄りにならなかったものと有り難く拝察した。
温泉の在る所は海抜千四百六十米を超えている。温泉は山裾の各所から湧き出して、盛に蒸気を噴出しているものもあれば、沸々と熱い湯玉をたぎらしているものもある。湯の種類も湯の量も極めて豊富で、幾棟にも分れた建物に浴場が設けられ、湯は満々と湛えて而も溢れて止まない。実に気持のよい湯だ。其外蒸風呂もあれば湯滝もあり、泳げるような大きなプールさえも設けてある。そして余った湯は其儘小川をなして中房川に流れ入るのである。夫を見ると何だか惜しいような気がする。
殿下が温泉へ御着きになったのは午後二時半頃であった。人夫を除いても四、五十人の一行が押寄せたので、山中の別天地も都会の宿屋と同じような賑さである。温泉宿の主人百瀬君は、漸く落成した許りの新館が殿下の御用に役立つことを非常に喜んでいた。二つの新浴室も一は御用、一は随行者に充てられ、化粧煉瓦に装飾された大きな浴槽は、此山中には珍しいものであった。
槇君と一緒に一風呂浴びて部屋に戻り、御座所に伺候すると、殿下は御浴衣がけで、渡辺さんや竹本さんと明日入用の缶詰類をかれこれとお選分の最中であった。御手伝申上げている中にも明日の天候に就て「どうですか」とお尋がある。県庁の人や記者団からは、明日の御出発時間を問合せて来る。兎に角天気がよければ遅くも午前五時御出発のことに決め、お荷物を造り直して貫目を量り、人夫頭の畠山善作に米味噌其他の必要品と共に、一切の準備を整えさせた。
夕方になってまた雨が激しく降り出した、そして容易に止みそうな景色もない。しかのみならず翌二十五日の午前一時頃になると、東南の風が頗る強く、一陣の突風が谷から吹上げて来る毎に、戸障子が鳴りはためく許りでなく、家までも震動することがある。其中に闇を劈いて電光が閃き始めた。遠方で轟く雷鳴の音が何処からともなく幽に耳に伝わる。夜目にも万象は漸く惨憺たる有様を呈して来たことが窺われる。槇君は、これこそ御登攀の光栄に浴する山々が驚喜のあまり、熱狂的に奏する豪快な大交響楽であると言う。成程そうに違いなかった――二時――三時――四時となってもまだ此状態は続いていた。斯くては天候の恢復する迄御出発を見合せるより外に方法はない。竹本さんや渡辺さんと相談して殿下に渡辺さんが其事を申上げる。とうにお目覚であった殿下は、私達が膝を崩して談合している場所へお出ましになって、「ひどい風ですね、硝子障子が頭の上に倒れるかと思って、心配で寝られなかった」と仰しゃりながら、私達の申上げたことに対しては、「そうするより外に仕方ないでしょう」と御同意遊ばされた。
さしも険悪であった天候も、しかし午前七時頃になると急に雨も歇み、雲が途切れて西の山蔭から碧空が覗き出した。風も北に変って、この模様なら今日一日位は持ちこたえそうに思われる。もう時間が遅いから最初の予定通り槍の殺生小屋までは辿り着けない、けれども大天井迄は楽に行ける。それで午前十時御出発のことに取極めた。