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生活の探求
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生活の探求
島木健作
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 2 of 15

二

駿介は足を開いて立ち、胸を張つて、兩腕をかはるがはる風車のやうにまはした。それから帶革をしめ直した。腰のあたりの感觸が久しぶりのものだつた。長い間押入れの奧に押し込めておいたものからは、ほのかに濕り氣のにほひがする。色のさめた帶革の上には灰いろの黴の花が浮いてゐる。無造作にその上をこすつた手を、繼の多い洋袴になすりつけ、洋袴の裾を高くたくつた。

上はシヤツ一枚の姿である。頭を包んだ手拭ひをきりりと引きしめながら、駿介は上り框の方へ行つた。土間に深く射しこんでゐる日の色はもう夏だが、朝のうちは風が爽やかである。

地下足袋の爪をかけてゐると、うしろに足音がして、駒平の聲であつた。

「なんと、えらい恰好やな。ぢやあ、ほんたうにやる氣かえ。」

さういふ駒平ももう支度をしてゐた。懸念するいろと、からかふやうないろとが、笑ふと子供のやうな無邪氣さになる彼の眼や口のあたりにうかんだ。昨日からの駿介の言ひ分を信用しないと云ふのではなくて、病後の息子を避けたいのであつた。

駿介は默つて、笑つて、土間の隅から畚を持ち出して來て、その出來ぐあひを調べてゐた。昨日、裏山からかづらの蔓を切つて來て、彼自身の手で作つた目の荒い畚である。四隅の釣紐の部分をとくに念入りに見た。

「けども、なんしろがいに力のいる仕事だでな。病みあがりのお前にはなんとしても無理なこつちや、寺田ン家の源次でも頼んだらとおら思ふとるんやが。」

「源次? 寺田の。ああさうか。あれももういい若いものになつたでせうね。」

「ああ、もう十八やからな。今年ももうちつとしたら岡山さ藺刈りに雇はれて行くやらうわい。――源次を頼むかね、ひとつ。」

「まアいいや、お父つあん。おれ、やつて見るから。――寺田なんどぢや、今もあつちこつちさ頼まれて行くんだらうが、百姓の日當は此頃ぢやどれくらゐしてゐるの。」

「まア七十錢が相場ぢやな。よつぽどよくつて八十錢ぢや。四五年前までは九十錢から一圓が相場ぢやつたが、それ、縣の匡救事業な、あれが始まつてから下つたんだ。匡救事業が七十錢だもんで、それが百姓の日當の通り相場になつたわけさな。」

「ぢやあ、人氣がわるいわけですね、救農工事は。」

「さうだな。此頃ぢやこぼしてゐるものも多いやうだな。」

火鉢の前で一服してゐた駒平は、煙管をおさめて立つた。

「そりや一頃は百姓の懷を温ためはしたどもな、なんといつても匡救事業は年百年中の事ぢやないわ。ところがそのために一般に下つた百姓の日當は、二度と上ることはまアちよつと無いもんと見んならん。長い間には結局損するといつたやうなわけぢや。雇ひもし雇はれもするものはいいとして、雇はれる一方のものはつらいわけぢやろ。」

「お父つあんは地下足袋にはせんのか。」

そこに腰をかけて足ごしらへにかかつた駒平は、地下足袋ではなくて草鞋だつた。

「うん、地下足袋ぢや滑つて危なうてどもならんわ。」

「ぢやあ、おれも草鞋にしようかしら。」

「お前はそれでええ。お前は外だからな。俺らは井戸のなかさはいらんならんのぢやけに。」

二人は裏口から外へ出た。

井戸はすぐそこにあつた。傍の大きな柳の木が、井戸の上にまで長く枝をのばしてゐる。秋になつて、風が枯葉を水のなかに落すまでは、枝も葉も、そのまま繁るに任せてある。

井戸側を築き上げてゐる自然石は、地面の上に四尺ほど出てゐる部分も、非常に大きく、年を經て苔蒸し、ゆるぎないさまに見えた。駿介は縁に手をかけてなかをのぞきこんだ。常にも増して、水面までが奧深く、はるかなものに見えた。下から吹き上げて來る冷氣が顏を拂ふ。今朝も近所の人達が汲み上げて行つたあとなのであらう、目立つて水底が淺くなつた感じの水面が、朝の光の滿ち溢れてゐる空を映して、白く光つてゐる。しだれた柳の枝と、井戸の外側にからみつき、次第に内側にまで這つて行つた蔓草の蔓が風に吹かれてゆらぐのと、駿介の顏とがその白さのなかに影をおとした。駿介は子供の氣持になつて、身をのばすやうにすると、底に向つて大きな聲で呼んだ。太い聲で歸つて來る木靈を、三度四度、彼は無心でたのしんだ。

彼は子供の時、溜池から取つて來た鯉をこの井戸の中に放つたことがあつたのを思ひ出した。

「始めるかな。」と、駒平が云つた。

駒平が手にしてゐる道具は、鐵梃一本だつた。彼はその鐵梃のさきで、石と石との間のわづかな隙をコツコツと叩いてゐた。しつくりと組み合はさつたまま、何十年もの年を經て、セメントで固めてあるわけでもないのに、所によつてはただ一枚の石ででもあるやうである。鐵梃のさきはものの急所をでもさぐるかのやうに動いてゐた。と、ぐつと力がはいつたと見ると、それはある隙間めがけて喰ひ込んだ。駒平は體勢を變へ、足を大きく開いて踏ん張つた。鐵梃に胸を押しつけると、體全體の重みと力とがぐつと加はつた。土がパラパラと落ちて、石はにじり動いた。こじられるに從つて、隙間は大きくなり、石は浮いて行つた。

「よし――さア、持たう。」

鐵梃を放り出して、駒平はきりつとして云つた。最初に動き出した石は、一人では到底持てさうにもない大きさだつた。

「ああ、これをはめたがええ。」

ふと氣づいて、駒平はふところからよごれた軍手を取り出して投げてよこした。駿介はそれをはめて石の一方を持つた。駒平は裸の手のままだつた。二人はそれを持ち上げて、少し離れた平地の上へ運んで行つて、ころがした。

そのくらゐのことでも、それは駿介には力のいる仕事だつた。滿身の力をふりしぼらねばならぬ仕事といつてよかつた。ただその一囘で、彼の全身の血潮は熱くたぎつて流れた。顏がほてつて、顳のあたりがづきづきした。彼は腰のふらつくのを感じて、石を持ちながら踏む一足一足に鋭い注意をそそいだ。

「よしか――足もとに氣イつけて。」

そして石は地ひびき打つて、地に大きな凹みをつくつて、ころがつた。はずみをつけて石を投げ出し、二足ほど後じさつた時、駿介は、風呂からあがつた時などによく經驗するやうな、立ち眩みを感じた。汗がにはかに流れ出て來た。はげしい呼吸の亂れを駒平には氣づかれまいとして何か云ひたい聲をおさへて、息苦しさに堪へた。

「なんしろ古い話だで。俺らが十かそこいらの時であつたんぢやから……」

はじめてこの井戸が掘られた當時のことを駒平は思ひ出してゐるのだつた。さういひながら一本の鐵梃を巧みに使ひこなして、次々に石を崩して行く六十五歳の老父の、力に滿ちながらゆとりのあるものごしに駿介は見惚れてゐた。彼の足の踏まへ方や腕の張り方や、その一擧一動が精彩を放ち、感動をもつて駿介にはながめられた。神經痛が起つて、いかにも所在なげに長まつてゐる時の、老父の姿を思ひ浮べようとしても思ひ浮ばなかつた。

「そら――落すぞ。」

石が少し小さくなると、さきのやうに二人で運んで行くといふことでなしに、駒平はその場でどんどん地面へころがし落した。身をよけて、そのさまを眺めて、ぼんやり立つてゐるやうな駿介に、駒平が、

「早う、運ばんけい。」と云つた。駿介はハッとして、ひどくあわてた氣持で石に抱きついた。そのあるものは彼一人の力にはほとんど餘るほどの重さだつた。彼は腰を曲げ、引きずられて前へのめるやうな恰好で運んで行つたが、堪へかねて途中で落してそれからは轉がして行つた。その後ろから駒平が、

「またこつちへ運ぶんぢやけに、なるべく運びいいやうに並べとけえよ。」と叫んだ。そしてせつせと自分の仕事をつづけた。駿介は恥しさを感じた。さういふ、老父の自分に向つての短いきつぱりした言葉なり態度なりは、駿介が心の隅のどこかで、無意識のうちにひそかに豫想してゐたものとはちがつてゐた。少くともそれは彼を甘やかす、もしくはただいたはるだけのものではなかつた。しかし駿介は、そのやうに撫でられることを、心のどこかで豫想してゐなかつたとは云へなかつた。駒平の言葉なり態度なりには、もちろん、冷酷なものなどはなかつた。また、自分の調子を意識して、未熟な若いものを慣らさうとの教訓的なものでもなかつた。しかしそれはゆるみなく働くもののおのづからな調子であつたから、さういふものとしての嚴しさはあつた。

「やつて見るかね、ひとつ。」

幾つ目かの石を運んで戻つて來た駿介の前へ、鐵梃をつき出して云つて、駒平は笑つた。

駿介はそれを受け取つて使つて見た。渾身の力を搾つてかかつたが、石はコンクリートででも固めたもののやうにびくともしない。手が滑る感じなので軍手をぬいだ。三度四度と突つかかつて行つて、やつと一つを崩してから鐵梃を駒平に返した。たつたそれだけでもう手のひらがひりひりした。皮が剥げさうに赤くなつた手のひらをこすりながら、かすかな鐵のひほひを嗅いだ。

「呼吸もんだで。やつぱしこれも。」と、駒平は愉快さうに笑つた。

地上に出てゐる部分の石がすつかり取りのけられると、駒平は井戸のなかへはいることになつた。不揃ひにとび出てゐる石の角をたよりに、一枚の板をやや斜めに橋のやうに架け、それを唯一の足場として井戸側を次第に下へと降りて行くのであつた。片足は板の上に、片足は石のやや出張つたところにかけて、その不安定な状態で、何貫もの大石を持ち扱つて行かなければならなかつた。危險でないとは決して云へぬのだつた。

「よしか。」

「よし。」

駿介も今は全身がわななくほどの緊張ぶりだつた。ほとんど必死といつてよかつた。駒平が胸のところからわづか上の高さに、下から石を持ち上げるとき、彼が重さを託してゐる一枚の板は撓むかと思はれた。今はただ一つの大きな穴に過ぎなくなつた井戸のなかをのぞき込み、地に膝をつけて、上からその石を受け取る駿介は、石の重さに穴のなかに引きずり込まれるやうな危險をしばしば感じた。はるかな下の水面がものおそろしげに白く光り、目眩むばかりだつた。小石や砂利がさらさらとひそやかに音して井戸側を傳はり、水のなかに落ちるのが聞え、水面のかすかなゆらぎが見えた。

しかし石を下から上へ、そのやうに手から手へ渡して居れるのは、さう長い間ではなかつた。駒平の足場は次第に下へと下り、もはや手は上までは屆かなかつた。そこでかねての用意の畚を滑車の仕掛で引き上げることになつた。

畚は綱をつけて下へ下された。石はそのなかへ入れられ、それはまた引き上げられた。何囘もそれが繰り返された。駿介は汗みづくになり、激しい鼓動を薄い胸壁に堪へながら、總身の力を搾つた。彼はへとへとになり、顏は青ざめてゐた。しかし堪へて行かねばならず、さうして時が經つうちにやがて彼はいつしか自分でも意外な一つの境地につき進んでゐることを感じた。疲勞もあるところを越えればもはや苦痛ではなくなるのであらうか。胸突きの山道を越えて廣濶な平地に出たやうに、苦痛のあとの歡喜に似たものが胸に溢れて來た。力を出し切つたあとなのに、盡くることのない新しい力がよみがへつて來るやうに思はれた。綱を下し、固唾を呑み、掛聲をかけ、引き上げ、また下す、それらの作業の間は、自分のさういふ新しい變化さへ意識しない忘我の状態だつた。

「よしか――上げるぞ!」

彼は聲までも荒々しく叫んだ。彼は野蠻な、猪突的な、何か粉碎し去らねばやまぬやうな力を感じた。相手と組み打ち、これを押し倒し、征服する勝つたものの喜びを感じた。このやうな力の充實感や、力を出し切つたといふ感じや、何にてもあれ、一つ事に體當りにぶつかる感じなどは、ここしばらく、彼の全く知らないところだつた。そしてそのことを意識することによつて彼の歡喜は益々深く大きなものになつた。一つ石を引き上げてホッとすると、彼は井戸の底に向つて大きな聲で話しかけたりした。

次第に下へ下へと下るにつれて、石は水氣に濡れて苔蒸してゐた。手をあてると水垢でよく滑つた。たくさんに足のある、這ふ蟲が、苔のなかにかくれてゐて、にはかに明るい外光のなかをあわてて逃げ惑うた。

「今度は少し大きいぞう!」と下から聲がかかつた。「今までで一番大きいか知れんぞう! ところどころかうしたでかいのが坐つとるんだ。側をしつかりさせるためにわざわざしたこつた。」

駿介はそれに答へた。そしてのぞき込んだ。成程、上から見てもそれは大きかつた。

「それ、のつけるぞ! 氣イつけろよ。」

とたんに、綱を持つ駿介の手にずしんと來た手應へは、彼を極度の緊張にまで驅り立てた。彼は狼狽したほどだつた。その重さは今までに初めてのものだつた。彼は渾身の力で綱を引いた。それはやうやく二尺ほど上つた。彼はさらに引いた。そしてそれはもう一尺ほどあがつた。滑車はきしり、綱は彼の手のひらをすり切るほどだつた。しかしそれ以上はもうどうしても上りはしなかつた。足の踏ン張りかげんをいろいろに變へて見たが同じことだつた。

彼はそのままの恰好でしばらく息せき切つてゐた。彼は進むことも出來ず、退くことも出來ずそこに釘づけになつてもがいてゐる形だつた。汗が眼に入り、しかし拭くことはできなかつた。肩の附け根と肘の關節のあたりに、痛みとだるさとを同時に感じて來た。忘れてゐた疲勞がにはかに戻つて來たが、今度來たそれは非常に深いところからのもので、もうだめだといふ感じが熱してゐる頭にひらめいた。どうしよう?……非常にたよりない、せつぱつまつた危急の感じが目くるめくやうな氣持のなかに來た。

この大きな石を畚にのせると同時に、駒平が足場をもう一段下に移したことを駿介は知つてゐた。さういへば、「どうした?」と訝つてなかから叫んでゐる駒平の聲は、今迄よりも一層奧深くはるかな所から來てゐるやうだ。駿介は自分が綱を持つてゐる手を、今にも離しはしないかといふ恐怖におそはれた。どうしても力に餘るなら、再びそろそろと下して、下から駒平に受け止めてもらへばいい筈だつた。理窟では、それは別に造作もいらぬ筈のことだつた。しかし實際にはそれは彼にはむづかしかつた。そろそろと少しづつ加減して下すといふことが到底出來さうにもないことだつた。一度下さうとするならば、石の非常な重さで、それは激しい勢で一直線に落下しさうなおそれしかなかつた。それは落下する、そしてその眞下にゐるに違ひない老いた父は?……瞬間にその思ひがひらめくと、駿介の全身はへんにこはばつたまま動かなかつた。硬直した腕は擂粉木のやうに鈍感だつた。

「どうした? え? あがらんのか?」といふやうな穴のなかからの聲が、ぼーつとした感じできれぎれに聞える。

その聲にふと氣づいたもののやうに、駿介は、突然、

「じゆん! じゆん! 道! おい、誰かゐないか!」

と、ふりしぼつた聲で叫んだ。

何度目かに答へがあつて、あわてた恰好でじゆんが裏口から飛び出して來た。それからつづいてその妹のお道も。

じゆんは今朝早く、駿介達がまだ仕事にかからぬうちに、母のおむらに從つて、煙草畑に行つたのだつた。そして丁度今少し前に、十時の飯を運ぶために歸つて來たのだつた。

「どうしたんや? 兄さん。」

何かただならぬけはひに、じゆんは顏いろを變へて駈け寄つて來た。

「引つぱつてくれ、ひつぱつてくれ。これを。」と駿介は喘ぎ喘ぎ云つた。

すぐにそれと知つて、じゆんは力を協せはじめた。それは云ふに足らぬほど、わづか上つた。しかし、それきりだつた。じゆんも息を急いて、ふりかへり、

「道も。」

と、云つた。十六になるかぼそいお道も、走つて來て、二人に加つた。

三人がその一本の綱に、ここを先途と取りすがつた恰好だつた。女手ながら二人の應援を得て駿介も元氣を恢復した。畚の石は少しづつ上へあがつて行つた。ふと新しい一つのおそれが、稻妻のやうに彼を刺し貫いた。もしも途中で綱が切れたなら!

しかしその時は畚はもう穴の縁にすれすれの所まで來てゐた。畚の頭が、汗がにじんで曇つた駿介の眼に映つた。そして最後の一踏張りで、それは完全に地上のものとなつた。

「あーあ。」

綱を離すなり、駿介は太い溜息をついて、ぺつたりとそこに尻餅をついてしまつた。あぐらをかき、がつくりと頭を落し、手もだらつと膝のあたりに投げて、しばらくは汗を拭かうともせずものも云はなかつた。

井戸の底では駒平が何か叫んでゐる。それに答へて戻つて來たじゆんは、そんなにして動かずにゐる駿介を、しばらくぢつと見つめてゐたが、ふいに、

「ふふふふふ。」と、こみあげて來る笑ひを、押へようとしてつひに押へかねたといつたふうで吹き出してしまつた。そして一度聲を立てて笑つてしまふと、もうどうしても笑ひがとまらぬといふふうに、腹をおさへ、家のなかであつたなら、さぞそのあたりを轉げまはることだらうと思はれるむすめの笑ひ方で、いつまでも笑つた。

「なんだ。」と云つて、駿介は險しい顏をしてそつちを見た。しかし、やうやく笑ひをおさへたじゆんとふと顏が合ふと、今度は彼がてれ臭さうに横を向いて、ぷつと吹き出してしまつた。するとそれがきつかけで彼も大聲をあげて笑ひ出した。じゆんもまた笑つた。お道も、何かわからぬやうなへんな顏をしながら、そのなかに入つて笑つた。

駿介は立ち上つた。畚のなかの石を外へ轉がし出さうとして手をかけた。持ち上げて運んで行くといふことはとても出來さうにない。轉がして行くのほかはない。一方の、二つの角に手をかけて、寢てゐるのを起すのさへもやつとだつた。彼はもたげたそれをまつすぐ前の方へ轉がした。――いや、轉がしたつもりだつた。彼は石を向うへ押しやつて、手を離さうとした瞬間、それまで張りつめてゐた緊張のなかに、ちやうど風穴のやうに不意にゆるみが入つたと思つた。大切な最後の一瞬に、うつとり我を忘れた氣持でゐたらしい。ハツと我にかへつた時にはもう手を離してゐた。手が滑つたなと狼狽した氣持で感じたのと、石がぐらりと横に逸れて轉んだのとは同時だつた。

「あツ。」と叫んで、駿介は横さまに倒れた。すぐに後ろに飛びしさるやうに立ち上ると、片足を上げた一本足で、きりきり舞ひをするやうにそこらを飛びつた。あつけにとられて見てゐたじゆんが、駿介が立つてゐる片足が、左足であることに氣づくまでには少し間があつた。

「どうしたんや、兄さん。」と、じゆんは叫んで駈け寄つて行つた。その時、駿介はもう土の上に坐り、右足を投げ出してゐた。投げ出された足のさきが、どの指を傷つけたものか、あわててしまつてゐるじゆんの眼にはわからない、ただそこらあたりが眞赤な血潮に染まつて見えた。

顏色を變へたじゆんが、井戸の方へ急がうとした。その後ろから駿介が鋭く、

「じゆん、默つて。」

井戸のなかの老父に衝動を與へて、萬一のことがあつてはと、とつさに思ひついたのだつた。

しかし默つてゐても駒平は上つて來た。じゆんが煙草畑から歸つて來たし、もう十時の飯の時刻だと知つたのだつた。彼は上からの綱をも待たずに、ひとりで上つて來てしまつた。

「駿、何とした?」

駒平はすぐに氣づいておどろいて云つた。暗い地の底から急にそのなかに出た外界の明るさに、眩しさうに眼をくしやくしやさせながら、起つたことをぢつと見究めるやうにした。

「どうしたんぢや、一體。何ぞぶちつけでもしたんか?」

駿介は手拭ひを二つに裂き、素早く足さきを包んでしまつた。

ずしんと重い物音がして鐵梃で打ち摧かれたやうな痛みをおぼえ、一度打ち倒され、またすぐ飛び上つた瞬間は、高い所から底まで、ずーんと一ぺんに落ちた感じで、眼がくらくらした。貧血だな、とまた倒れさうになる氣持のなかで思つた。しかし倒れずに飛び跳ね、自分から腰を下した時には、痛みは、灼くやうな、刺すやうな、づきんづきんするものになつて戻つて來て彼はほとんど口も利けなかつた。全身が鳥肌立つて一時に冷えて行つた體の内部から、じわじわと脂汗がにじみ出て來た。惡寒がして手足がぶるぶるふるへた。嘔き出したいやうな氣持になつた。苦しみにゆがんだ顏に強ひて笑ひをつくつて、「なに、何でもない、ちよつとしたことで。」と云つた。そして手短かに事の起りを語つて、「ちよつと手當てして來るから。」と云つて家のなかへ入つて行つた。後ろからついて來るじゆんを呼びとめて、新しい繃帶が、たしかどこそこにあつた筈だから、と云つてゐる駒平の聲も何やら遠い感じで聞いた。

アルコホルとか脱脂綿とか繃帶とかいふやうなものは家にあつた。まだたしかあつた筈だと云つて、じゆんは小箱の引出しを幾つも開けてはヨードホルムの瓶を探した。そしてそれも見つかつた。それらを持つて、縁側へ出て來て、駿介は手療治にかかつた。血潮は幾重にも捲いた手拭地の上にまで浸み出て、したたるほどだつた。石の角があたつたのであらう、皮と肉とを引き裂かれた傷は、親指の爪の上のあたりだつた。鈍角が強引に引き裂いて行つた傷は石榴のやうに赤い肉をはみ出してゐた。血を見ると、腰から脹脛にかけての神經がざわざわして來るのが駿介の平常だつた。しかし、傷よりは、押しひしやがれた蝮の頭みたいな親指の頭の方がもつと大事な感じで迫つた。それはひどい打身になつてゐた。爪のいろはもう死んでをり、肉の部分も紫いろに變つて、しだいに大きく腫れ上らうとしてゐるもののやうであつた。うづくやうな痛みはそこから來てゐた。

脱脂綿にアルコホルを浸して傷口を洗ひ、ヨードホルムをふりかけ、繃帶をし終へてから、駿介は、そのままそこの板の間に仰向けに寢た。そこはもう日陰になり、爽かな風が吹き拔け、涼しかつた。

じゆんは、父に呼ばれて、表の方へ出て行つた。

しばらくは、何の物音もなく、あたりは靜かだつた。空には白い雲一つなかつた。その空の青さにも、家を取りまく緑にも、一ぱいに光が滿ちてゐるのが、一層、晝の靜けさを増してゐるやうであつた。ぢつとはるかな空に眼をやつてゐると、駿介は自然涙ぐんだ。それは眩しいせゐばかりではなかつた。少しすると、松も交つてゐる裏の山の木立ちのあたりに、春蝉の鳴くのが聞えた。しかしそれも、しやがれたやうな聲で少し鳴いてすぐに止んだ。

駒平が、寢てゐる傍へ來て、立つた。

「どうや、痛みは。醫者には見せんでもええか。」

「ええ。打身ですからね。時が經てば自然に治つちまひます。傷の方はヨードホルムをつけといたし。」

骨に罅がはいつてゐやしないか、それが駿介のおそれるところだつた。しかし、口に出しては云はなかつた。

「一度見せといた方がいいと思ふが――見せるんぢやつたら、澤井の森口な、あそこの忰が此頃家さ歸つとるけに。新しい學校出なだけ、佐久間なんぞよりはええやらう思ふが。もつとも森口の忰も外科とはちがふやらうが。」

「さうですか。森口の息子はもう學校を出たんですか。もつともさうだらうな、あれはおれより五つ六つ年上だつたから。」

田舍の事だから、中等學校以上の學校へ行つた近くの村の者達のことは互ひの記憶にはつきり殘つてゐた。

「たしか愼一つて云ひましたね。なんですか、村へ歸つて親父のあとでも繼ぐんですか。」

「さあ、それについてはいろいろゴテゴテもあるふうぢやて。森口の親父さんももういい年ぢやし――さう、かれこれ七十にはならうわい、――自轉車で病家をるもらくなこつちやない。近頃はとくべつ弱つて來たふうぢやて、それで東京の學校の研究室とかにゐる息子を呼んだんやらうが、息子の方にして見りや、今時の若いもんのこつちや、わざわざ東京の大學を出て、醫學士にまでなつて、こんな草深い田舍で百姓相手に暮さうなんて氣は毛頭ないわ。しかし親父は、また親父で、森口と云やあ、殿樣の拜領物まである、醫者としてはこの地方きつての舊家ぢや。先祖に對しても、めつたに澤井の土地は見棄てられるもんぢやない。またそなな昔氣質を離れて、今風に、損得一方からだけ云つたとて、東京に居ることが何で得なもんか。博士になる云うたからとて博士なんぞは當節箒で掃くほどある。病院でちつとばしの月給もらうたり、知らん土地で開業したりして、先祖代々の、この實入りのいい澤井に代へられるか、とまアかう云ふんぢやろ、親父は。それで息子も腰が坐らず、何かともめてゐるふうぢや。」

町の古い藥屋に家傳の煉り藥があつて、卵の白味に溶かして煉るのだが、打身などの熱を取るにはいいと云ふから、明日にも行つて買つて來よう、と云つて立ち去りかけて、

「源次を頼むことにしたが。さつきじゆんを使にやつたら飯を食つてからすぐに來るさうな。」

「明日中に仕事は終りますか。」

「さうだな。まア明日一杯といふところやらうな。今日中に井戸側を取りのけ、明日は水を干し上げて、底を掘つて、また石を積まにやならん。」

それらの仕事の一切を、手を拱いて見てゐなければならなくなつた自分について、駿介は何か云ひたかつた。しかし云へなかつた。駒平も亦、だから云はんこつちやない、といふやうなことは、たとひ揶揄的にしろ、一口も云はなかつた。

午後になると、體が熱を持つて來たやうだつた。さうではなくて高い氣温からの錯覺に過ぎないのかも知れなかつた。どつちにしても、ひとり家のなかにぢつとしてゐても、何一つ手につかぬ感じであつた。呼ばれて來た源次なのであらう、若々しく張りのある高い聲で云つてゐるのが裏手から聞える。滑車の軋る音や、ものを運んで動く人の氣配も聞える。それらに誘はれるやうな氣持で、駿介は裏へ出て行つた。

汗みづくになつて働いてゐる若ものは、十八にしては大きく、二十にも二十一にも見える出來上つた立派な體だつた。體は大人でも、十四五の少年の頃の面影がまだはつきり殘つてゐるその顏と互に見合つて、駿介は親しい笑ひを見せた。源次も、内氣でよく働くその年頃の青年らしくなぜともなくはにかんだふうで微笑した。もうかなり長い間彼等は會つてゐない。

「やあ、しばらく……今日はまたどうも御苦勞さん。」

「お歸りだと、話はもうせんに聞いてゐたつけが、いつも掛け違うて失禮しました。――何ですか、病氣の方はもうすつかりええのですけ。」

「うん、ありがたう、もうすつかりいいんだ。今日はまた柄にもなく親父さんの手傳ひをしようとしたらこの始末さ。」

駿介は、草履をやつとのことで引つかけてゐる足さきの繃帶を指して笑つた。

次の日は、朝のうちに、丸太の長いのを三本組み合せて、その足を三方に開いて井戸の上に立てた。これに滑車を結びつけて水を汲み出す設備をした。水はいくらも經たぬうちにすつかり汲み上げられてしまつた。

いよいよ、井戸底の掘り下げにかかる時になつて、源次ばかりではなく、その父の平藏も力を貸すためにやつて來た。

「ほう、下半分は殘したままぢやな。大丈夫かいや。」と、平藏は暗い底をのぞき込んで見て、懸念らしく井戸側のことを云つた。

「大丈夫やとも。」と、駒平は言下に自信に滿ちた答へをして、梯子を下した。

それを傳つて下りて行き、井戸底に立つた。そして底を掘りにかかつた。底は粘土質の土が、石のやうに固くなつてゐるとの駒平の話で、鐵梃を玄翁で叩き込んでは掘りおこす音が、ウワーン、ウワーンといふやうに末廣がりに響いて、長く尾を引いて消えて行つた。はかばかしくは行かぬらしく、下から聲がかかるまで、上にゐる二人は暇であつた。上にゐる者の仕事は、掘り起された土や水を釣り上げることにある。今日も駿介はそこへ出て行つて、待機の姿勢でゐる二人を相手に四方山の話をした。

一時間程して駒平は上つて來た。見ると、シヤツの上に毛のセーターを着込んで行つた彼が、齒をカチカチ云はせてふるへてゐる。唇は紫いろに變つてゐる。深く掘られた井戸底の冷寒がそのやうな激しさだといふこと、そのために長くは居れず、一時間交替にしなければならぬといふことは、駿介には聞いて見てはじめて成程と頷かれるやうなことである。上つて來た駒平に代らうとして平藏が立ち上つた。しかし、源次が、「まア、お父つあん、おれがやつから。」と云つておさへて、平藏が何か云はうとする間にもう、腰から下は穴のなかに隱れてゐた。短い言葉のなかに、年寄りをいたはる心と、一人前の若ものになつた自負とが溢れてゐる。

掘下げは四尺ほどの深さまでで止め、新に掘つたその部分には、かねて用意の素燒きの井戸側を嵌め込んだ。所々は石で補なつた。底の方の工事はそれですみ、今度は、昨日一日かかつて取り除いた石を再び積み上げて行くことになつた。石を運んで來て釣り下すのであるが、築き上げる仕事は、取り外す仕事よりは云ふまでもなく、一層困難なことと思へた。井戸の底にあつて指圖するものは、源次でもなく、平藏でもなく、駒平でなければならなかつた。今度だけは交替といふことは許されなかつた。人任せにせぬ駒平はそれだけ自信に滿ち、愼重な態度を取つたのであらう。駒平は一々指圖をし、上にゐる二人はそれに應じて適當と思へる石を下したが、下した石がその箇所にしつくり合はなければ、何度でも他に適當なものを探してやり直さなければならなかつた。

石が一側ならべられる。すると駒平が、「ウラグリを」と叫ぶ。朝のうちに源次の手でバラスが運ばれて、そこに山と積んである。目の細かな畚が持ち出される。バラスが畚に入れられて下ろされる。もういいと云はれるまで、何杯となくそれは下ろされる。駿介が覗いて見てゐると、駒平はそれらのバラスを、並べた石の裏側、一尺五寸ほどの空隙へぎつしり詰め込んでゐるのだつた。それがいはゆる「ウラグリ」だつた。駿介は平藏に訊いた。

「ウラグリといふのはどんな效能のあるものなのかね。」

「これはなアあんさん、非常に大切なもんなんぢやよ。つまりさ、雨が降るだらう、大雨や長雨の時、土のなかに浸んだ水が、四方から井戸側に押し寄せる力てえものは、こりやずゐぶん強いものらしい。泥が内側に流れ込んだりするばつかりか、土が軟つこくなつて、側の石が崩れたりもする。ウラグリて奴あ、さういふことを防ぐもんなんだ。このウラグリをまるで入れとかなかつたり、吝々したりするてえと、雨が降る毎に水は濁るし、折角積んだ石がガラガラつと行つちまつたりする。こりやあんさん、何も井戸側ばかしぢやない、たとへば石垣なんぞもおんなじ理窟さ。當節のそれ、不正工事といふ奴にあ、たいていこのウラグリが誤魔化してあるによつて、長持ちはせんわけさ。」

仕事はさうして順調に進んで行つた。

二人の老人、一人の若ものの、しつくりと氣合の合つたいかにも力に滿ちた肉體の動きを、駿介はいつまでも飽かず眺めてゐた。彼はふしぎな快さと感動のなかにあつた。三人のなかに混らずに、彼は三人と一緒になることが出來た。遠い昔に遺失したものを、再び取り戻したやうな感じがするのであつた。

Chapter 2 of 15
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