島木健作 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
今年は春から雨の降ることが少なかつた。 山林を切り開いて作つた煙草畑まで、一町餘りも下の田の中の井戸から、四斗入りのトタンの水槽を背負つて、傾斜七十度の細い畦道を、日に幾度となく往き還りする老父の駒平の姿はいたいたしい。時には握飯を頬張りながら、葉煙草に水をやつてゐるやうな姿を見ることもある。 今年大學にはいつた息子の杉野駿介は、病氣が治り、健康がすつかりもとに返つても、なぜか東京へ歸らうとはしなかつた。彼は高等學校から大學に進むとほとんど同時に、まだ新學期も始まらぬうちに、感冒から肺炎をひき起して倒れたのだつた。一時は危險だつたが幸に命をとりとめた。東京の病院を出るとすぐに、病後の養生のために田舍の家へ歸つてもう三月からになる。 休暇が來ても、並の學生のやうに、その度毎に歸郷するといふことは事情が許さぬところから今度もほとんどまる二年ぶりで見る息子を、殊に病後であつて見れば、一日でも長く手許に引きとどめておきたいといふ氣持には切實なものがありながら、理由もなくさうして一日一日と出京の日を延ばしてゐる息子の心のうちが解せなくて、親達は不安であつた。しかしその不安を、面と向つて、口に出し

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