Chapter 1 of 4

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この夜も、明けるのだと思った。

お葉は目を明けたまゝ、底深い海底でもきはめるやうに、灰色の天井を身ゆるぎもせず、見つめたまゝ、

『お母さん!』低く呼んだ。

淡黄色い、八燭の電気の光りのなかに、母親は重苦しくひそやかに動いて、ベッドのそばに手をかけた。

『苦しいのかい。水が呑みたい?』

お葉は、なほ天井を見つめたまゝ、何といってよいか、只悲しかった。

お母さんは、なんでも知ってゝ呉れる。私に解らない心をも、お母さんは知ってて呉れる。わたしは、只お母さんの声が聞きたかったのだ。動くのが見たかったのだ。

お葉は、なほ黙って居る。

『お前、足が痛むのかい。』

『いゝえ。』彼女は、はっきりと答へた。

『お母さん、今日も夜があけるのでせうね。』

『あゝ、もうぢき明けるだらうから、なるべく気を安めて眠った方がいゝよ。』

彼女は、その言葉を聞きながら、気力なさゝうに目蓋を閉ぢた。もう、何も考へる事は出来ない。この夜も明けるんだと思へば、彼女の心に思ふ事も、見ることもいらない。

母親は、娘の目蓋の静かに閉ぢるのを見た。そして疲れて眠りに捕はれたのだらうと、そっと身を引いて、布団の上に坐った。

そして、枕を引きよせながら、自分の心を強ひて盲目にしようと、くぼんだ眼を閉ぢて、うとうととなって行った。

お葉は、またいつか目を閉ぢたまゝ、気力なく青白く疲れた心のうちに、只、この夜もあけるんだと思ひつゞけた。そして、そのまゝにこの夜もあけるんだと思ひつゞけた心のなかに引き入れられて、茫と意識を失ひかける。

やがて、彼女はいつか目を見開いて、天井を見てゐた。いつ目蓋が開いたのか、自分にもわからない。只、ぢっと見てゐる。そして、物悲しい心のうちに、

『お母さん!』と呼んだ。

しかし、その声は彼女の唇をもれなかったので、彼女の両の瞳の周囲には矢張り淡黄な光りが一ぱいにたゞよって、その静寂は一つも動かなかった。そして母親の身動きだに、彼女の頭に感じられない。お葉の心には、遣瀬ない波動が起った。そして、『お母さん!』と再び呼んだ。彼女のぢっとなほ天井を見つめてゐる二つの瞳は、自分の乾いた唇が、微かにふるへたのを見た。

そして室内の空気が静かに、けれども大きく動いたのを見た。お葉は安心した。

母親が、またひそかに起き出て来る気配がする。やがて母親の手が、また静かにベッドの毛布にふれた。

お葉は、また何を言ひ出すのやら解らない、母親が、只動いたといふだけで、彼女の心は自分におそひ掛らうとする魔を払ひのけたやうな気がした。そしてこれから聞いて見ようとするのは、この夜もいつもの様に明けるんだらうといふ事だけであった。

『お前、さう目が覚めちゃいけないねえ。』

母親は、静かにわが子の青白い頬から解けかゝった頸のあたりにふるへてる毛条を見ながら言った。併し、それは反って自分の心に向って、あまりに多い煩悩の心を押へるやうに考へられた。お葉は黙したまゝ、衿元まで掛けられてあった毛布を静かに胸の下へ押しやった。

お葉の眼には淡い幕がかゝったやうに、すべての物がはっきりと見えない。睫毛は乾いて涙の露も宿ってないのだけれども、すべての物が茫とうるんで見える。

母親はそっとベッドの前を通りぬけた。そしてドアを押して廊下に出た。足音がバタバタと遠ざかって聞える。

彼女は、目の前に黒い影をチラと見たまゝ、又瞳は自然に閉ぢられて行った。そしてまた彼女の弾力のない瞳が細く開かれた時、また黒い影がチラとベッドの前を通った。けれども呼び止めようとは思はなかった。

母親は、うす暗い廊下を、自分の草履の音にせき立てられて便所に行ったが、月の光が彼女の心をかきむしるやうに、窓の外にさえて居た。そして親子の本能の愛が、彼女を土の中にうづめなければならないやうに思った。

母親は、小走に帰って来たが、静かにドアをあけ、はゞかるやうにお葉の方を見ながら、ベッドの前を通りぬけて、夜具のなかに顔をうづめた。

お葉は、また目を開いた。時は一刻も動かないやうに見えた。そして同じ夜であると思った時、彼女の瞳はさぐるやうな不安に動いて、また母親を呼んだ。いま彼女の心には、母より以外にすがる神はなかった。母親は、また起き上った。そして、もはや何事も言はずに、彼女の毛布にかくれた足の方をぢっと見入った。

かくて、お葉はこの一夜の中を、うゑた人のやうに疲れと絶望とに力なく瞳をとぢては、又いつか重い瞼を上げて空を仰ぎ、死の恐怖に堪へられなかったのである。

やがて、夜はあけた。世のあらゆるすべての静寂が、この花一つにふくまれて咲くやうな月見草のはなのやうに夜はあけはなれた。ほの白い夜あけの空気が、病室のなかに立ちこめる。

『あゝゝ、夜があけた。』

お葉は、初めて意識がはっきりして来た時、絶望の後の力なさであった。もはや、時が進むといふのは、どうする事も出来ない力である。時の行くまゝに人は行かねばならない。彼女は、もはや何の為めに今日自分自身の片足を切断しなければならないのか?といふ事は思ふ事が出来ない。これも通過しなければならない時の道であるのだ。

お葉は、水の一滴牛乳の一つも林檎の一切も口に入れなかった。そして改めて、空を見、窓を見、壁を見、天井を見て、自分の明らかに開いた二つの目を悲しく思った。そして思はずも動いた母の瞳と合った時は、

『お母さん、今日、今日、』と思はず叫んだ。

『お母さん今日になった。』

しかし、母親はどうする事も出来ない。そして、皺のよった手を重ねて、うつむきながら子供を持った苦労を思ひ、若いお葉の身の上をかなしんだ。

お葉は静かに晴れた幸福な窓の外を見た。そしてるうちに前から考へてた事をまたふと考へて、恐ろしさにをのゝいた。

あゝ、眼が覚めて、魔薬がさめて、片足がなかったら――、それは、あたり前のことなのだ。しかしその当然来るべき事がどんなに恐ろしいことだか、その約束されてる事がどんなに悲しいことだか、片足がなかったら、片足がなかったら、そんな事は想像出来ぬ。

実際、そんな事が一時間と思ひつゞけて居られるだらうか!彼女は来るべき運命の残忍さに戦きつゝも、またその瞬間に於いて、美しい空と、赤く咲き誇った窓際の花とを無心に眺めることが出来た。

そして、すべての時にお葉の心のなかには空想が働いて居た。お伽ばなしで読んだ事、小説で見たこと、そんなことが入れかはり立ちかはり、速かに画面を、彼女の小さな心のうちにひろげてゐる。――手術室に自分は魔薬にかけられた時、魔女がひそかにしのび込んで来て、自分の姿を鹿の形に変じた。鹿になった自分は窓から中庭にのがれて、アカシヤの木陰をかけぬけ、古い井戸の側に行って、釣瓶から滴る水が身体の上に落ちると、自分はいつか美しい女になって歩いてゐる。自由に、自分に身体といふものがないかのやうに、自由に楽しく歩いてゐる――いつか、どこかに恋人があった。お葉は片輪になったので、もう遊んでやるわけには行かないと言った。お葉は足がないので立ち上るわけにも行かず、床の上にねたまんま、毎日々々どうかして死なうと思ってないてゐた。親も兄弟もみんなお葉をすてた。お葉の寝てゐる所は、どこか真暗な牢屋のやうな所で、高い所に、小さな小さな窓が、一つしかなかった。そしてその窓からは、白い光線が少し入るばかりであった。

それ等の畫面は、次から次へと、彼女の運命の前に戦慄いてゐる、小さな心のどこかへひそやかに入って居た。遠い昔のやうな思ひが、ずん/\目の前におしよせて来たり、また、今現在の事実が遠い古への空想のやうに遠ざかって行ったりした。事実どれが自分の悲しむべき運命にあるのだか、さしせまった恐るべき運命にぶつかっても、心は決して事実と一致しない。常に事実と心とは、淡絹を隔てゝ遂に人間が人間と一致しないごとくに、永久に一つになることはなからう。

心は事実を否定する。事実は心を否定するのだ。

太陽は輝かしく空に高い。青空は限りなくすべての上にひろげられた。お葉の肉体は遂に事実にぶつからねばならない、時は流れた。そして午後の物々しいひそかな空気は、ひるがへる白衣の人の裳から廊下にみち、扉のかげから、病室のベッドの下にもはひよった。そして壁をへだてた看護婦室に物悲しい時計の音が一つ鳴った。

『あゝ一時!』お葉は毛布の上に手を投げ出して、あわてたやうに言った。

母親は、白い浴衣を出さうと戸棚の戸をあけた。

そして料理される魚が清水で洗はれるやうに、お葉は清らかな浴衣に着かへて、手術台上の人とならねばならなかった。しかし心には永遠に事実はない。心は夢である。お葉は輸送車の廊下を走る音に、青白い手と胸をふるはせながら、なほ夢を見てゐた。夢のなかの事実を思ってゐた。やがてあわたゞしく、扉はあけられた、そして病室のなかに輸送車は入れられた。

お葉は抱かれて輸送車にのせられた。

『あ、お母さん。いま、いま!』

輸送車は病室を出た。そして二人の看護婦は、あわたゞしく長い廊下を輸送車をひきながらかけて行った。何故運命の前に、こんなにあわたゞしいのだらう。彼女は実際運命の前に運ばれて行った。あわたゞしく、小さい彼女の肉体は運ばれて行ったのだ。

『あゝ、いま、いま!』

母親は扉にすがって立った。そして、輸送車が廊下の角を曲らうとした時、遠くにお葉の黒い瞳を見た。その眼は、母親の悲しく追ひすがった眼と合はなかった。只、茫然と宙に迷っている黒いかなしい瞳なので、バタ/\と二三間廊下を無意識に歩いて見たが、もはや輸送車はかくれて、お葉の姿は見えなかった。

母親は、淋しい病室のなかにふら/\と入って行って、白い敷布の上に充血した赤い目を閉ぢて、暗い涙をおとした、お葉は居ない。

母親はまた、あわたゞしく廊下を行きつもどりつして、運命の前に泣き叫ぶ我子の声を聞かうとした。しかし、あたりは静まりかへって物音一つしない。

かたく閉ぢられた硝子の戸が開かれて、黒い石で畳まれた暗い廊下に入った。お葉は心の中に起るさま/″\な幻影を一つにして、静まり返らうと目を閉ぢた。が、しかし目を閉ぢれば閉ぢる程、心のなかに深い波だちが起って、彼女の肉体はたえまなく小さく慄へてゐた。やがて、あまりに明るい秋の日が、あたりのギャマンの窓にてりつけてゐる部屋に、彼女の輸送車は引き込まれた。そこには、いくらかの看護婦と、二人の顔と胸に繃帯をまきつけた少年が椅子にかけて居た。そして水あさぎの日光が、部屋一ぱいに流れてゐた。お葉はあをむけに窓から高い大きな松の木を見上げた。そしてその松の梢の空はヱメラルドのやうに美しかった。枕元に手をやって茫然と側にたゝずんで居た看護婦が、どこを見てゐたのか、

『あの松はね』と話しかけた。

お葉は静かにうなづいたが、忽ち不安になった。

『あの、手術は!』

『まだ、先の人がすまないから。』

彼女は、ふとおどろいた。いま恐ろしいことが行はれつゝある。その人の恐ろしさは、他の人の空を見てる一瞬にもあったのだ。

『それ、その窓際に松があるでせう。』

看護婦はいつか立ち上がった。そしてお葉の髪の毛を静かに撫で乍らまた言った。

『あれはね、宗五郎松って、佐倉宗五郎が、磔刑になった松なんですよ。』

彼女は、ふと松を見た。そしてそんな恐ろしい事実のある松も、この美しい日に美しい空の光にそびえてる事を思って、美しい日であるといふ不安に、心が淋しくおちつかなかった。

『まだ。』お葉の心は少し落ちついた。

『えゝもうぢき、あの杉浦さんは入歯を入れて居りませんか、入歯があったらみんな取って置かないとこまりますから。』

『いゝえ。』と彼女は、悲しさうに看護婦の顔を見ながら、『なぜ、』と問ひかへした。

『それはね、魔薬をかけたあとで入歯が咽喉に入ると危いから――。』

看護婦は深くは言はず、なだめるやうに答へた。

『それから指環は。』彼女が一寸手を動かした時、指環が目についたので、お葉は少しもゆるがせにしては不可ないといふやうに、また看護婦の顔を見た。

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