Chapter 1
暑中休暇が、もう終りに近かつた。私は休暇中の自分の予定が、まだ三分の一も出来てゐないことでヂリヂリしてゐた。それに一ヶ月余りといふものを寝て起きて食ふと言ふ全くその文字通りの日暮しのために、いつときも我慢し切れなくなつてゐた。
或日父は近頃にない早く、外来患者も病室の方も済まして、表の間の卓に頬肘を突いた儘、縁先の河鹿の鉢をヂツと瞶めてゐた。私はその父を見ると何か言つて見たくなつた。私は下らない刺戟でも欲しい程退屈を感じてゐたのだ。そして余り切望するでもないことでも引つ張り出すより他仕方なかつた。
「お父さん、今から近所に遊びに行つて来ますよ。」
「またそんなことをいふ。一度不可ないつたら不可ない。」
父は私の小さい時から、内から外へは出来得る限り出さなかつた。外から来る子供だつて大抵は追ひ帰してしまふのであつた。
「此の近所に一軒だつて上品な家はない。みんな下層民の寄り集りぢやあないか。」
父はさう附け加へた。その語気には父がもはや昂奮してることが明かに見えてゐた。私は父が自分のさうした昂奮のために放つ言葉を、親が子を諭す言葉だと、習慣的に信じて言つてることが俄かに堪らないことに思へ出した。「人間の昂奮とかいふものはさう永続的でないのだから……」――私はそんな理窟を勝手に捏ね揚げて自分の心を制しようと強めた。けれども父は昂奮と一緒に条件的なことを言ふのだから私の自由は狭められるばかりだつた。
「さう酷く言はなくつたつて……お父さん。」
「決して酷くない。」
父はいやに落付いて言つた。
「それぢやあ図書館に行つて来ますよ。」
「まだそんなことを言ふ。それ程必要な本があれば図書館に行かなくつたつて、私が買つてやると言つてるぢやあないか。」
さう言つた父は急に立ち上がつて河鹿に手水をやつた。再び元の所に帰つた。そしてまた今更の様に口を切つた。
「それぢやあない、私は学校以外には一切出すまいかとさへ思つてゐる。昨晩もお母さんと話したんだが。」
私はそれを聞いて本当だとは思へなかつた。何れほんの今発作的に浮んだに過ぎない父の考へだと決め込んだ。
父は私と反対の方の、床の間の方に顔をグツと向けた。それで私も庭の方を向いて眺めるともなしに躑躅の根本の所を眺めた。私がまだ六つの頃、広島にゐた時、下女に連れられて買ひ物に出ようとすると庭の出口の躑躅の下から蛇が出て来た事を思ひ出した。昨日迄大変暑かつたのにも今日はボンヤリした日が射してゐて、時々夕立でも降らせさうな雲の塊が乾き切つた庭の土を薄暗くしたり、そして稀々しくも地面を匍ふやうな微風が所々に生えた雑草などを揺るので、私の心は思ひ出を巡るに似合はしい気分になつて、その蛇の思ひ出はだんだん拡がつていつた。
私は自分の胸に今動いてゐるものを掻き消してまた言ひ出した。
「僕はこの休暇中旅行だつてしたことはないのですもの図書館位行きますよ。」
「そりやあお前が成績を悪くするからだ。何も私は絶対に旅行させないといふのぢやあない。」
「成績が悪ければこそ旅行でもしてみる方が好いのですよ。」
「そんなこと、私は知らない。」
父も、私も漫然とそんなことを言ひ合つてる時、ヒツとした瞬間、私は一生に一度しかない此の夏休みを、旅行しないといふことがとても尊い物でも取り逃がす様な気持が矢鱈に湧き上つて来た。――それは私に変な癖があるのだが、一度私が矢張広島の頃、父が東京に出張するといつて出る時、私はそれまでは何でもなかつたが、父の俥がいよいよ玄関を出る時急に人生の大切な岐路にでも立たせられたやうな気がして来て、泣く泣く父の俥の後を二三町ばかり泣きながら夢中に追つ駆けたことがあつた。父は汽車から私が脳病でも起しはすまいかと言つて端書を寄こした位だつた。――恰度その時の感じが今も起こつて来た。
「お父さん、僕は旅行する。如何しても旅行しますよ。」
「またお前が急にそんなことを言ひ出す。言はして置けば切りがない。切角此の頃にない午前中に今日は時間の余裕があつたのぢやあないか。お前も少しは私のことを考へろ。」
父は前よりも酷く言つた。私は酷くなつた父は若い様な気持がして、何だか心強くなつて来た。
「毎日々々、何か一言不服かなにか言はないことがない。――書斎に半日でも落ちついてはゐないのだから。」
「だから不服な僕を追つ放して下さいつてのですよ。それでちやんと人間になつて帰るのですから。」
「それ、そのことだけは言はないで呉れ。お前が一人でやつて行けるものでもないし。」
父は涙ぐんでゐた。私は小学の頃よく父から出て行けと言はれた。一度も小学から私の不可ないことを知らせた手紙が来た時なぞ、父はそれを仏壇にのせて泣いた後、取りあへず手近にあつた六百円を出して、私にアメリカに蜜柑揉ぎにでも行けと言つたことがあつた。それが私から出して呉れといふ此の頃では、出せと言へば父は何時も涙ぐんで断るのであつた。
「二日でも三日でも好いから旅行しますよ。ね、好いでせう。」
私はまたダダを捏ねた。だが父はもうそれに答へなかつた。
「御飯ですよ。」
母が呼んだ。父は直ぐその方に行つた。私は父に隠れて喫つてゐた煙草が懐にあつたので、それが御飯の時若しか転んで出でもすると不可ないと思つてそれを書斎に持つて行つて本棚の後に投げて置いた。
私が御飯の間に這入ると父と母はしてゐた話を急に止めた。私のことを話してゐたなと私は思つた。
私がたつた一膳で止めて立たうとすると、祖母が腹でも悪いのかと言ひ出した。父も母も心配して何だとか彼だとか言つた。私は好い加減に胡魔化して、書斎に帰つた。
肉親は五月蠅い、と思はず、何時もながら痛感した。
そして如何かかうか余り父との言合ひが大きいことにならなかつたことをひそかに悦んだ。