中原中也 · 日本語
冒頭段落プレビュー
原文 (日本語)
暑中休暇が、もう終りに近かつた。私は休暇中の自分の予定が、まだ三分の一も出来てゐないことでヂリヂリしてゐた。それに一ヶ月余りといふものを寝て起きて食ふと言ふ全くその文字通りの日暮しのために、いつときも我慢し切れなくなつてゐた。 或日父は近頃にない早く、外来患者も病室の方も済まして、表の間の卓に頬肘を突いた儘、縁先の河鹿の鉢をヂツと瞶めてゐた。私はその父を見ると何か言つて見たくなつた。私は下らない刺戟でも欲しい程退屈を感じてゐたのだ。そして余り切望するでもないことでも引つ張り出すより他仕方なかつた。 「お父さん、今から近所に遊びに行つて来ますよ。」 「またそんなことをいふ。一度不可ないつたら不可ない。」 父は私の小さい時から、内から外へは出来得る限り出さなかつた。外から来る子供だつて大抵は追ひ帰してしまふのであつた。 「此の近所に一軒だつて上品な家はない。みんな下層民の寄り集りぢやあないか。」 父はさう附け加へた。その語気には父がもはや昂奮してることが明かに見えてゐた。私は父が自分のさうした昂奮のために放つ言葉を、親が子を諭す言葉だと、習慣的に信じて言つてることが俄かに堪らないことに思へ
中原中也
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