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十字架観音
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十字架観音
野村胡堂
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 7 of 9

七

その晩、白鬚橋の襲撃は、余吾之介の方から言えば手違いだらけでした。

何を感じたか、あんなに血を見ることの好きなお秋は行かず、余吾之介一人出かけたのですが、――それは、なまじ足手纏がなくて反ってよかったとしても、相手の警備の行届いているのに驚いている頃は、巧妙に作られた罠に陥込んで、免れようもなく羽搏いていたのでした。

警固はない――という報告は、余吾之介をおびき寄せる為の詭計で、締りもない門に飛込むと、いきなり十人あまりの腕達者が、闇の大地から湧いたように余吾之介を取巻いてしまったのです。

「それ鴨がかかったぞ、逃すな」

八方から押っ取囲んで、膾になれと斬ってかかるのを、

「己れッ」

余吾之介も血に餓えておりました。刃を舞わすと、近間の一人を斬って落し、二人ばかりに手を負わせて、サッと縁側に飛び上りました。其処には、主人の山野辺右衛門大夫が、蔭ながら采配を揮っていると睨んだのです。

が、罠は到る処に用意されておりました。襖の蔭、縁の闇、凡そ物の隈のあるところには、悉く人を配置したといってもいいほどで――

「逃すな」

十人が二十人になり、三十人になり、最後には、飛道具や、さす又や、本職の捕物道具まで持出して、一人の余吾之介を、手負猪でも扱うように取詰めたのです。

余吾之介は、続けざまに斬り立てました。嘗て、山形藩随一の使い手と言われた腕は、異常な興奮に冴え返って、触るる者悉く斬って、自分も満身の返り血に蘇芳を浴びたようになってしまいました。

幸い手傷はおいませんが、相手に用意があるだけ、闘争が長引けば、たった一人の方が負けに決まっております

目ざす山野辺右衛門大夫は顔も見せません。

「卑怯な奴原、束になって来い」

二度、三度、猛烈な襲撃をくれ、さっと身を引くと、辛くも血路を開いて、余吾之介の身体は元の庭へ――

「それ逃すなッ」

追いすがる潮のような人数。

「あッ」

余吾之介は張り渡した縄に足を取られて、思わず闇の中にもんどり打ちました。

「しめたッ」

追い冠さる二三人、拝み討に振り冠ったのが、そのまま屏風のように前へのめりました。大地に這った余吾之介は、倒れながらも横に払って、二三人の向う脛を一ぺんに刈って了ったのです。

「わッ」

恐ろしい悲鳴、それを背後に聞いて、余吾之介は塀の上へ攀じ上りました。

外も一パイの人数、何時の間に手が廻ったか、真に水も漏らさぬ警備です。

それから何処をどう逃げ廻ったか、余吾之介は土手の闇を拾って、関屋から、綾瀬川の方へ出てしまいました。

山野辺一家の家来や奉公人なら多寡が知れておりますが、追手の半分以上は町奉行から差廻された、本職の捕方と判ると、余吾之介もさすがに安き心はなかったのです。

木母寺の方も、堀切道も塞がれて、余吾之介は川へ飛びこむより外に逃げ道がなくなってしまいました。

が、十二月二十日過ぎの夜の寒さ、水に退路を求められる時候でもなく、その上困ったことに、山形城に育った余吾之介は、武芸百般暗きはない中にも、泳ぎの方だけは、まことに不得手だったのです。

とある小屋を見つけて入り込もうとしましたが、意地悪く厳重に海老錠が下りておる上、こんな中で、なまじ一方口の小屋に入るのも危険です。余吾之介はそのまま、小屋の後へ廻って、水面に臨んだ老樹の桜へ、猿の如く攀登りました。

捕方は松火や提灯を振りかざして、十文字に飛びかいますが、相手が桜の梢へ掻き登ったとは思いも寄らず、それに、小屋の屋根が妨げて、余吾之介の姿は、道から全く見えないようになっていたのでした。

幾刻かたちました。

夜がほのぼのと明け初める頃、捕方や追手も、あきらめて白鬚の方へ引揚げてしまいます。堀切へかけて、眼を遮る物もない綾瀬の河岸っ縁に、人間一人隠れていようとは思いも寄らなかったのです。

「――――」

枝の上の余吾之介は、ホッとした心持で、硬張った四肢を伸ばしました。

何心なく下を見ると、最初の朝陽に照らしだされた枝の上の自分の姿が、下の水へ、蔽うところもなく映っているのです。

「――――」

何んというそれは凄まじい姿でしょう。満身紅に染んで、小袖も袴も破れに破れ、大童に振り乱した髪は、斑に碧血に染められた顔を半分程も隠して居るのです。

藍のような真っ蒼な顔、貝殻のようにギラギラ光る眼、桜の枝に犇と縋って下を臨んだ姿は、自分――余吾之介――が映っている姿とは何うしても思えないほどの恐ろしいものでした。

余吾之介はぞっとして身を翻しました。小さい時、山形で見た覗きからくりの血だらけな殺し場を思い出したのです。一人の武士が、血達磨になって幾人も幾人も生きた人間を斬る絵は、小さい余吾之介をどんなに脅かしたでしょう。武士の子という誇はあったにしても、幾日も幾月もの間、小さい余吾之介は、その物凄じい幻に悩まされて、内証で顫えていたことを思い出したのです。

余吾之介は滑るように桜の梢から降りると、幸い岸に繋ぎ捨てた船の中へ潜りこみ、朝の往来の始まる前に、血汐を洗い落して身仕舞いをしました。

日の暮れるまで船の中に身を潜めて、番場町へ帰ったのは夜、余吾之介は血潮を浄めて、もう一度、鹿の子の浄らかな祈りの前に立とうとしたのでした。

が、鹿の子の姿は浪宅には見えません。

近所の衆がそっと、

「鹿の子さんは切支丹宗門に帰依した疑いがあるとやらで、縛られて行きましたよ」こう教えてくれたのです。

「えっ」

空しく冷たい自分の家の中を覗いて、余吾之介はどんなに驚いたことでしょう。

「明日は札の辻でエロニモ師やガルベスフランセスコ師や、ヨハネ原主水様や、シモン遠藤様と一緒に磔柱にかけられて、火焙りにされるそうですよ」

隣りの人はそう言って、そっと宵闇の中に十字を切りました。これもまた、切支丹宗門に心を寄せる一人でしょう。

余吾之介は真暗な家の中に入ると、まだ僅かに残る鹿の子の移り香を求めるように、彼方此方をよろめきましたが、最後に畳の上にドッカと坐って、

「鹿の子、許してくれ、鹿の子」

ボロボロと涙をこぼしながら、当もなく首を垂れました。

許婚が殉教者として引かれたのも知らずに、町芸者の家に便々と暮した上、無用の血汐を流したことが、つくづく浅ましかったのでしょう。考えて見ると、最上家にはもう、争わなければならぬ程の事件が一つも残っていなかったのです。

Chapter 7 of 9
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