Chapter 1 of 1

久生十蘭

川風

「阿古十郎さん、まア、もうひとつ召しあがれ」

「ごうせいに、とりもつの」

「へへへ」

「陽気のせいじゃあるまいな」

「あいかわらず、悪い口だ。……いくらあっしが下戸でも、船遊びぐらいはいたします。……これがあたしの持病でね。……まア、いっぱい召しあがれ」

川面から映りかえす陽のひかりが屋根舟の障子にチラチラとうごく。

むこうは水神の森。波止めの杭に柳がなびき、ちょうど上汐で、川風にうっすら潮の香がまじる。

顎十郎のとりもちをしているのは、神田の御用聞のひょろ松。その名のとおり、麹室のもやし豆のようにどこもかしこもひょろりと間のびがしていて、浅黒い蔭干面が、鷺のようにいやにひょろ長い首のうえにのっかっている。長いことにかけては、顎十郎の顎と好一対。

酒と名のつくものなら、金鯛にも酔う男。それが、屋根舟で、むやみと斡旋をしようというのだから、これには、なにかいわくがありそう。

矢つぎばやの追っかけ突っかけで、顎十郎、さすがにだいぶ御酩酊のようす。

ぐにゃりと首を泳がせて、

「ときに、ひょろ松、お前、今年、いくつになる」

「へえ、三十……に、近いんで」

「お前の三十にちかいも久しいもんだ。……本当の年は、いくつだ」

「三十四でございます」

「それなら、四十に近い」

「いえ、三十のほうに近い」

「ふふふ、小咄だの。……それはいいが、その年をさげて、こんな芸しかできないとは、お前もよっぽどばちあたりだ」

へたにとぼけた顔で、

「それは、なんのことでございます」

「ひょろ松、相手を見てものを言え」

顎十郎、長い顎のさきを撫でながらニヤニヤ笑って、

「おい、お見とおしだよ」

「………」

「お前、叔父貴に授けられて来たろう」

「なにをでございます」

「強情だの。……それそれ、へたにとぼけたお前の顔に、頼まれて来た、と書いてある。……おれの口から頼みます願いますでは、天下の与力筆頭の沽券にかかわる。……あの通り、口いやしいやつだから、酒でもたらふく飲ませ、喰いものをあてがって、うまく騙してなんとか智慧をかりてくれ。酔わせせえすりゃ、いい気になって、なんでもペラペラ喋るやつだ。……どうだ、ひょろ松」

「まったく、その通り……」

つい、うっかり口走って、へへへと髷節へ手をやり、

「てめえで言ってしまっちゃアしょうがねえ。いままで、なんのために苦労をしたんだかわかりゃアしない……こいつア、大しくじり」

「はなっから、間のぬけた話だ。……下戸のお前が、柳橋へ行こうの、屋根舟にしようのと、水をむけるからしてあんまり智慧がなさすぎる。……ふふふ、まア、そうしょげるな。これでも、おれは気がいいからの、むげに、お前の顔をつぶすようなまねはしない。とりもちにめんじて、ある智慧なら貸してやる」

ひょろ松、ピョコリと頭をさげ、

「さすがは、阿古十郎さん」

顎十郎は、船舷へだらしなく頬杖をついて、

「おだてるな。……それで、今度はどんなことだ」

へえ、といって、急に顔をひきしめ、

「それがどうも、すこし、桁外れな話なんで。……あなたは、ひちくどいことはお嫌いだから、手っとりばやくもうしますが……じつは、このごろ御府内で、妙なことがはじまっているんでございます」

顎十郎、のんびりとした声で、

「ふむ、妙とは、どう妙」

「それが、どうも、捕えどころのねえ話なんで……。どうしたものか、この月はなっから江戸の市中が水を打ったようにひっそりと静まりかえっているんでございます。……どんなことがあったって、日に十や二十はかかしたことのねえ小犯行が、これでもう十日ほどのあいだ、ただのひとつもございません。……掏摸もなければ、ゆすり、空巣狙、万引、詐欺……なにひとつない。御番所も詰所も、まるっきし御用がなくなって、鮒が餌づきをするように、あくびばかりしているんでございます」

「なるほど、そりゃあ珍だの」

ひょろ松はうなずいて、

「江戸中の悪いやつらが、ひとり残らず時疫にでもかかって死に絶えてしまったのか。……あっしは十手をあずかってから、もう十年の上になりますが、まだ、おぼえもねえような滅法な話なので、いろいろ頭をひねってみましたが、かいもく見当がつきません。……心配というのはそれだけではない。じつは、南番所じゃアなにかはっきりと当りがついたらしく、同心の藤波友衛が、せんぶりの千太を追いまわして、しきりにあたふたしております。……むこうが追いこみにかかっているというのに、こっちは、あっけらかんと口をあいて眺めているというんじゃア、月番の北の番所としちゃ、じつにどうも遣瀬のねえ話なんで。……それで、森川の旦那さまも躍起となっていらっしゃるんですが、いまいったようなわけでどうにもしょうがない。はっきりした見こみはつかずとも、せめて、方角ぐらいはついてねえことにゃア、また、南のやつらの笑いものにされなくちゃアなりません」

「そうだとありゃア、いかにも物笑いだ」

ひょろ松は、情なそうな顔をして、

「そう、澄ましていられちゃ困ります。……なにしろ、あなたは、日がな毎日、犯例帳の赦帳のと、番所の古帳面ばかり、ひっくりかえしていられる酔狂な方だから、前例のあることなら多分ご存じだろう。……もし、そうだったら、それは、どういう次第で、どういうおさまりになったものか、ひとつうまく聴き出してこい、という旦那さまのお言いつけなんで。……それで、こうして、馴れねえとりもちなんぞをいたした次第なんでございます」

といって、膝をすすめ、

「ねえ、阿古十郎さん、……古いころ、……たとえば、鎌倉時代にでも、こんな前例がありましたろうか」

顎十郎、空嘯ぶいて、

「はて、いっこうに聴かねえの」

「こりゃア情ない。……前例はねえとしても、では、なにかあなたのお見こみがございましょうか」

「お見こみなら、少々ある」

ひょろ松は思わず乗りだして、

「へえ、それは」

「間もなく、御府内で、どえらいことが起る」

大黒

大久保彦左衛門以来という、江戸ではもう名物のひとつになっている名代の強情おやじ、しょんべん組の森川庄兵衛が、居間の文机のうえにうつむきこんで、なにかしらん、わき目もふらずこつこつやっているところへ、れいの通り案内も乞わずにヒョロリと入ってきたのが顎十郎。

懐手をしたまま閾ぎわに突っ立って、

「いよう」

と、ひともなげな挨拶をすると、遠慮もなくズカズカと入りこんで来て、叔父のよこへ大あぐらをかく。

庄兵衛は、顎十郎の声を聞きつけると、どうしたのか、ひどくあわてふためいて、あたふたとありあう本で文机のうえのものをおおい隠すと、三白眼をつりあげ、大きな眼鏡ごしに顎十郎の顔をにらみあげながら、

「いくらいっても聞きわけがない、叔父にむかって、いよう、などという挨拶があるか。……たしなまッせえ、この下司ものめが」

顎十郎は、空吹く風と聞きながし、

「ときに叔父上、あなたもめっきりお年をとりましたな、そうしてションボリと文机のまえに坐っているところなんざ、まさに大津絵の鬼の念仏。……いつまでもじゃじゃばっていられずと、はやくお役御免を願って、初孫の顔を見る算段でもなさい」

庄兵衛は、膝を掻きむしって、

「またしても、またしても、言わしておけば野放図もない。毎朝三百棒をふるこのおれを、老いぼれとはけしからぬ。……これこのおれの、どこが老いぼれだ」

まるで、こんがら童子が痙攣たような顔をしていきり立つのを、顎十郎は相手にもせず、

「まあまあ、そうご立腹をなさるな。……それはそうと、いまさっき、なにかしきりにコソコソやっていられたが、贋金でもつくっていたのですか」

庄兵衛はうろたえて、

「ぷッ、冗談にもほどがある。……出まかせをいうのも、ほどほどにしておけ」

「てまえが入って来ると、あわてて本でかくしなさったようだが、いったい、なにをしていらしたんです」

庄兵衛は、いよいよもって狼狽し、からだで文机をかくすようにしながら、

「ええ、なにもしておらぬともうすに」

「そんなら、その本をとってお見せなさい」

といいながら、文机のほうへ手をのばしかける。

庄兵衛は、やっきとなって、顎十郎の手をはらいのけながら、

「これ、なにをする……横着なまねをするな……寄ってはならんともうすに」

「いいからお見せなさい」

「ならん、ならん」

揉みあっているところへ、庄兵衛の秘蔵ッ娘の花世が入ってきた。

ことし十九になる惚々するような縹緻よしで、さすが血すじだけあって、こだわりのない、さっぱりとした、いい気だてを持っている。顎十郎とは、この上なしの言葉がたきで、またごくごくの仲よしでもある。

花世は、父と顎十郎のあいだへ、わざと割りこむようにして坐って、あどけなく首をかしげながら、庄兵衛に、

「もう出来ましたかえ」

といいながら、文机のほうを覗きこむ。

庄兵衛は、またしてもあわてふためいて、いそがしく目顔で知らせながら、

「出来たとは、なにが。……わしは知らぬぞ」

花世は、怨じるような顔で、

「おや、いやな。……そら、御尊像のことでござります」

顎十郎は、そっくりかえってふアふアと笑いだし、

「いやはや、こいつは大笑いだ。……あなたはうまく隠しおおせたつもりだったでしょうが、種はさっきからあがっているんですぜ。……版木だけは本でかくしても、膝の木くずはごまかせない。あなたが御法度の大黒尊像を版木で起していたことは、さっきからちゃんと見ぬいているんです。……頭かくして尻かくさず、叔父上、年のせいで、あなたもだいぶ耄碌なすったね。……ほら、証拠はこの通り」

急に手をのばして文机の本をはねのけると、その下からおおかた彫りあがった大黒尊像の版木があらわれた。

これは、例の幸運の手紙とおなじもので、美濃紙八枚どり大に刷った大黒天像を二枚ひとつつみにし、しかるべき有縁無縁の善男善女の家にひそかに頒布するもので、添書に、『一枚は箪笥の抽斗におさめ、一枚はこれを版に起して百軒に配布すべし』と書いてあるのを常とする。

これをおこのうものは福徳家内に満ち、これをおこなわぬものはかならず災疫をうけるというので、これを受けとったものは、おのがじし百枚ずつを版木に起して配布するので、わずか三月とたたぬうちに、大黒尊像は日本の津々浦々にまで行きわたるような大勢力となった。幕府は大いに狼狽し、文政二年の末ごろ禁令を出して取締ったが、またふた月ほど前から、尊像頒布が急にたいへんな勢いで流行しはじめた。

顎十郎は、文机のうえから版木をとりあげて、ニヤニヤ笑いながら、

「たとい、むかしでも法度は法度。……それを取締るべき与力筆頭のあなたが、こんなことをなさるなどは、ちと受けとれぬ話ですね」

庄兵衛は、てれくさそうに額に手をやり、

「悪いやつに、悪いものを見られてしまったわい。……見あらわされたうえはいさぎよく白状するが、なにもこれは迷信などを信じてやったわけではない。おまえも知ってのとおり、花世は甲子の年の生れ、大黒様の申し子のようなやつだから、それで、こうして、いくぶんの義理をたてておる。これだけは見のがしてくれ」

顎十郎は、聞くでもなく聞かぬでもないような様子で版木をひねくりまわしていたが、なにを認めたものか、ほう、と声をあげ、

「こりゃア妙だ。……叔父上、この尊像はすこし変っていますぜ。……いままでの大黒尊像は、俵を踏んまえて、その下に鼠が二匹いる。……だれでも知っている通り、それだけのものだが、これ、ごらんなさい、この尊像には、こんなわけのわからぬものがついている」

見ると、なるほど、尊像の空白に、お灸のあとのような、妙なものがついている。

それは、こんなふうなものだった。

○○●●●●●○●○●○○○○○○○○○●○○○○●○○●○●●●●○○●○○○

弥太堀

小網町の船宿でわかれたきり、その後、三日になるが杳として顎十郎の消息が知れない。

弓町の住居にもかえらないし、庄兵衛の屋敷にもよりつかない。また、れいのごとく、中間部屋にでもとぐろを巻いているのかと思って、脇坂や上杉の部屋をのぞきこんで見たが、姿が見えぬ。

そうこうしているうちに、南番所のほうでは、いよいよ追いこみにかかったらしく、弥太堀の近くにおびただしい人数を張りこませ、目ざましいまでに色めきわたっている様子である。

ひょろ松は気がきでない。手にものもつかぬようにじれ切っているところへ、ちょうど四日目の朝になって、顎十郎が泰平な顔でブラリとやって来た。

顎十郎の声をききつけるより早く、ひょろ松は奥から泳ぎだし、喰ってかかるような調子で、

「阿古十郎さん、ひどく気をもませるじゃありませんか。……いったい、今日までどこに雲がくれしていたんです」

顎十郎は、懐手をしてのっそりと突っ立ったまま、

「じつは、長崎のほうに友達ができてな、ちょっとそこまで行って来た」

ひょろ松は、ムッとして、

「冗談なんぞをいってる場合じゃありません。……こっちは、たいへんなことになってるんです。しっかりしてもらわなくっちゃ困ります。……それで、なにか見当がつきましたか」

顎十郎はケロリとして、

「引きうけたおぼえはないが、見当だけはつけてやった」

ひょろ松が、相好をくずしてあわて出すのを、顎十郎は手でおさえ、

「それで、南じゃ、このごろ、どんなことをやっている」

ひょろ松は、藤波とせんぶりの千太が、弥太堀に人数を張りこまして大わらわになっていることを話すと、顎十郎は、ふんと、鼻を鳴らして、

「こりゃア、ちと物騒なことになってきた。まごまごするとお蔵に火がつく。……南でやろうが、北でやろうが、おれにしちゃ、どうでもいいようなもんだが、なることなら、やはり叔父貴に手柄をさせてやりたい。どんなことになっているのか、ひとつ様子を見にゆこうか」

「へえ、お伴します」

急ぐのかと思えば、そうでもない。泰然たる面もちでひょろ松とならんで歩きながら、

「お前との約束があったが、じつは、すこし、からかってやるつもりで、あの足で金助町へ出かけて行ったんだ」

「えッ、じゃア、底を割ったんですか」

「と、思ったんだが、そうはしなかった。……そのかわりに、ふしぎなものを手に入れて来た」

といって、懐から一枚の刷物を出し、それをひょろ松に渡しながら、

「ひょろ松、お前、これをなんだと思う」

ひょろ松は、受けとって眺めていたが、つまらなそうな顔で、

「こりゃア、このせつ流行の縁起まわしの大黒絵じゃありませんか。……これが、いってえ、どうだというんです」

「そうか、お前にはそうとしか見えないか」

ひょろ松はあらためて眼をすえて眺めていたが、そのうちに頓狂な声をあげ、

「なるほど、こりゃア、ちと変っている。……この碁石のぶっちげえのようなものは、いったい、なんなのでしょう。……まさか、五目ならべの課題でもあるめえが」

顎十郎はニヤリと笑って、

「それだけでもわかりゃア上の部だ。……それはそうと、妙なのはそれだけか。眼のくり玉をすえて、もう一度、よく見ろ」

ひょろ松は、ためつすがめつ大黒絵を眺めていたが、

「あります、あります。……なるほど、妙なところがある。……大黒様の左肩に、矢羽根のようなものが微かに見えるが、矢をせおった大黒様とは珍らしい」

「ひょろ松、縁起まわしの刷物には、鼠がなん匹いたっけな」

「きまってるじゃありませんか、二匹です」

「この大黒様にはなん匹いる」

「なるほど、こりゃアけぶだ。……俵のうしろから鼻のさきを出しているのがある。……ひい、ふう、みい、よ……みんなで、四匹おります」

ひょろ松は、眼をかがやかして、

「こりゃア、どういう洒落なんです。これが、今度のいきさつに、なにかひっかかりがありますんでしょうか」

聞えたのか聞えぬのか、顎十郎、なんの返事もしない。長い顎をふって、あちこちと河岸っぷちの景色を眺めながら、ぶらりぶらりと歩いてゆく。

蠣殻町の浅野の屋敷のまえを通り、川っぷちをつたいながら弥太堀の近くまで行くと、蔵屋敷のならびの大黒堂の横手に、五十ばかりの汚い布子を着た雪駄直しが、薄い秋の日だまりのなかでせっせと雪駄をつくろっている。

ひょろ松は、それに眼をつけると、肘でそっと顎十郎をついて、

「阿古十郎さん、あれが藤波ですぜ」

と、ささやく。

顎十郎は、ほほう、とうなずきながら、さりげない様子でお堂の右ひだりを眺めると、なるほど、いる、いる。

花売りにかったいぼう、手相見もいれば、飴屋もいる。そうかと思うと、子供づれで、参詣の善男子に化けこんでいるのもある。人数にしておよそ三十人ばかり、参詣の人波にまぎれながら、四方からヒシヒシとお堂をとりつめている。

顎十郎は、ああん、と口をあいて、大がかりな捕物を見物していたが、やがて、ひょろ松のほうへ長い顎をふりむけると、

「おい、ひょろ松、このぶんじゃ、どうやら、こっちの勝だぜ」

と、のんびりと言って、

「これだけ見りゃもう充分だ。……じゃ、そろそろひっかえすとするか」

子の日

弥太堀の大黒堂をあとにすると、顎十郎は、油町から右へ折れ、ずんずん薬研堀のほうへ歩いてゆく。

ひょろ松は、気にして、

「阿古十郎さん、これじゃア、道がちがやアしませんか」

といったが、てんで耳もかさず、矢ノ倉から毛利の屋敷のほうへ曲り、横丁をまわりくねりしたすえ、浜町二丁目の河岸っぷちに近いところへ出た。

見ると、大黒堂と堀ひとつへだてた向い岸。橋ひとつ渡ればすむところを、小半刻も大まわりをしてやって来たわけである。

ひょろ松はあっけにとられて、

「こりゃア、おどろいた。……ここは、弥太堀じゃありませんか。……昼日なか、狐につままれたわけでもありますめえね。……いってえ、どうしたというわけなんです」

顎十郎は、依然として無言のまま、先に立って弥太堀から横丁へ折れこみ、大きな料理屋のすじむかいの水茶屋の中へ入ってゆく。

ひょろ松はしょうことなしにそのあとについてゆくと、顎十郎は、ずっと奥まった葭簀のかげの床几にかけていて、ひょろ松がそのそばへひきならんで坐るよりはやく、囁くような声で、

「このへんに番所があるか……駕籠屋があるか」

いつもの顎十郎と様子がちがう。

ひょろ松は、けおされたようになって、思わずこれも小声になり、

「あの火の見の下が辻番で、駕籠屋も、つい近所にございます」

顎十郎は鼻孔をほじりながら、うっそりと小屋のうちそとを見まわしてから、

「……なア、ひょろ松、御府内の悪者は、その後まだ鳴りをひそめているだろう、それにちがいなかろう」

「へえ、その通りでございます」

「お前に、まだ、そのわけがわからねえか」

「………」

「それは、鳴りをひそめているんじゃない、江戸にいないのだ」

「えッ」

「それだけの人数の悪者が、いったい、なんのためにみな江戸を離れていったのだろう。……なにか思いあたることがないか」

「どうも……」

「こないだ、大川の屋根舟で、間もなく途方もないことがもちあがるといったのは嘘じゃない。やはり、おれの見こみどおりだった。……みぜんにふせぐことが出来れば、それに越したことはないが、さもなければ、たいへんな幕府の損害になる……」

いよいよ、ささやくような声になって、

「お前も、多少は聞いているだろうが、こんど幕府が外国から買い入れた、例の咸臨丸、これは、和蘭陀のかんてるくというところで建造された軍艦で、木造蒸気内車、砲十二門、馬力百、二百十噸というすばらしいやつだ。それが、はるばる廻航されてきて、来月の中ごろ、長崎で受けとることになっている。この代価が十万弗。日本の金にして二十五万両。……この金が馬の背につまれて長崎までくだる。……どうだ、ひょろ松」

ひょろ松は、あッ、とのけぞって、

「それだッ……すると、江戸の悪者どもは……」

まっ蒼になって、ブルブル慄えていたが、急に狂気したように、両手で顎十郎の腕を鷲づかみにすると、

「そ、それで……その金は?」

「きのう、江戸を出たはずだ」

「げッ、……それじゃア、もう間にあいませんか」

「なんともいえないが、やるだけやってみるより、しょうがあるまい。……ところで、ひょろ松、ちょっとむかいの料理屋へ行って、きょう三十人ばかりで楊弓結改の会をやりたいのだが、席があるかときいて来い」

ひょろ松は無我夢中のていで水茶屋から出ていったが、間もなくもどってきて、

「きょうは、一月寺の一節切の会があるので、夕方まで売切れになっているということでございます」

顎十郎はうなずいて、

「うむ、そうか、それでいいのだ」

ひょろ松は、席にもいたたまれぬように焦だって、

「それはそうと、阿古十郎さん、こんな水茶屋なんぞでのっそりしていていいのですか。……あっしはもう……」

立ちかかるのを、顎十郎は腕をとってひきとめ、

「まア、あわてるな。……すこし、落着いてむかいの料理屋の看板を見ろ。なんと書いてある」

ひょろ松は、葭簀のあいだから料理屋のほうをすかしながら、口のなかで、

「大黒屋……、だ、い、こ、く、や……」

と呟いていたが、急に横手をうって、

「あッ、わかりましたッ。……すると、あの縁起まわしの大黒絵の刷物は、絵ときで場所を知らせる廻状のようなものだったんで……」

「いかにもその通り……それで、きょうは、いったい、何日で、そして、なんの日だ」

「きょうは、九月四日……」

指を折って、

「朔日が酉でしたから、……酉、戌、亥……、あっ、子の四日……。それで、鼠が四匹か……。どっちみち、あの碁石をならべたようなのが、手がかりのもとになったのでしょうが、いったい、あれは、なんでありました」

顎十郎は、顎を撫でながら、

「おれも、あれには一ぷくふいた。……なんの符牒なのかいっこうにわからない。……すこし嫌気がさして、ころがっていた船宿を出て、小田原町の通りをあてもなくブラブラ歩いていると、すぐそばの露地の奥で、尺八の師匠が、れ、れ、つ、ろー、ろ、とやっている。……なんの気もなく、二三町ゆきすぎたところで、これだ、と思いついた。なるほど、そう言や、尺八の符本にある符牒だ。……ただ、のべったらになっていたのでわからなかったのだ。大黒絵をその師匠に見てもらうと、これは尺八の符じゃありません。一節切の符だという。……それから、日本橋の本屋へ行って、一思庵の『一節切温古大全』というのを買い、指孔のように上から五つずつ区切って読んでみると、ちゃんと文句になる。

○○●●● ヒ、●●○●○ ル、●○○○○ ヤ、○○○○○ ツ、●○○○○ ヤ、●○○●○ タ、●●●●○ ホ、○●○○○ リ

「昼、未、弥太堀……」

といって、てれくさそうに、頭に手をやり、

「ところで、藤波友衛のほうが、おれより五日ばかり早かった。……ただ、藤波のやつは絵すがたの絵ときが出来ずに、いきなり弥太堀の大黒堂だと思いこんでしまった。藤波だって、矢羽根も四匹の鼠もちゃんと見ていたことだろうが、あのまぬけな絵ときが出来なかったのは、あいつの頭があまり鋭すぎたからだ。……たとえば、南部の絵暦を、学者よりも百姓のほうが、じょうずに読む。……しょせん、頭が正直で、まよわずにあるがままにものを見るからだろうて。ともかく、早く大黒屋をひっつつんでしまえ」

ひょろ松は、そっと水茶屋の裏口からぬけだすと、長い脛でぼんのくぼを蹴あげるようにしながら、むさんに八丁堀のほうへ駈けて行った。

弥太堀の大黒屋に集っていたのは、一団の主領かぶで、栗田口新之丞、石丸茂平、佐田長久郎、杉村友太郎、山谷勘兵衛、以下十名、いずれも勤王くずれの無頼漢。

勤王を名にして、木曽路や東海道で強盗をはたらいていた連中。咸臨丸の金、二十五万両が東海道をくだることを聞きこみ、江戸の悪者どもをかりあつめて海道に配置し、自分らはここで勢揃いをし、用金の後を追って、まさに発足しようとしている危どいところだった。

Chapter 1 of 1