犯罪編
よい酒を送ってくれといって、それに相当する金を送ってきた人に、わるい酒を送る商人は、面とむかって非難されてもしかたがないどころか、ことによると、法律上の罪人になるかもしれない。それは、道徳的にいって、不愉快な同室者をさけるため、一等切符をかって一人おさまっている乗客のそばに、そのいやがる同室者をおしつける鉄道会社と同罪なのである。が、もともと、ハーバート・スペンサーも指摘したように、集団的良心というものは、個人的良心より、鉄面皮なものなのである――
ルーファス・ペンベリーはそう考えた。彼がそう考えたのは、汽車がメイドストン駅を発車しかけたとき、一人の粗野な逞しそうな男が、車掌に案内されて、彼の部屋にはいってきたからであった。彼がわざわざ高い料金をはらったのは、クッションの柔らかい座席に坐りたいからでなくて、なるべく自分一人きり、それが不可能なら、すくなくも感じの好い人と同室になりたかったからだった。ところが、その男がはいってきたため、それが二つともだめになったのである。彼は憤慨した。
その男は、彼の孤独の邪魔をしたばかりでなく、じつに傲慢無礼な態度をとった。汽車が動きはじめるやいなや、じっと無遠慮な視線をペンベリーにそそいで、ポリネシヤの人形のように、まばたきもせず見つめるのである。
彼は不愉快なばかりでなく、頭が混乱してしまった。しだいに腹が立ってきたので、坐ったままもじもじ体を動かした。紙入れをだして、一つ二つの手紙を読んだり、名刺を分けたりした。傘をひろげて目隠しにしようかとさえ思った。しまいには辛抱しきれなくなった。頭がにえくりかえるほどだった。ついにたまりかねて、彼はとげとげしくいった。
「そんなにおれの顔ばかりにらんでいたら、今度であったとしても、見そこなう心配はないだろうね。またであうのはまっぴらだが。」
「一万人の群集のなかだって、君の顔を見そこなう心配はないよ。顔を覚えることにかけちゃ、おれは名人なんだから、一度見た顔は忘れやせん。」
あまりの言葉にペンベリーはどきっとして、
「それは結構。」といった。
「顔を覚えるのが上手なのは都合のいいものだよ。すくなくも、ポートランド刑務所の看守をしていた頃は、そいつが役にたった。君だっておれを覚えているだろう。プラットだよ。君があすこにいる頃、看守の手伝いをしていた男だ。ポートランドは地獄みたいなところだった。だから前科者の顔をみるため町へ行く時には、おれはとても嬉しかったものだ。あの頃拘置所は、君も覚えているだろうが、ホロウェイにあった。のちにはブリクストンに移ったけれど。」
昔のことを考えながら、プラットは言葉をきった。ペンベリーは、驚いてまっさおになり、
「誰かと人違えをしているんだよ。」と、あえぐようにいった。
「人違いじゃないよ。君はフランシス・ドブズだろう。十二年ほど前の晩に、ポートランドから逃げだした男だよ。着ていた刑務所の服は、そのあくる日に海岸に流れついた。どこへ逃げたかさっぱり分らない。あんなに上手に逃げたのにお目にかかったのは、おれも初めてだった。前科者係りのところには、君の写真や指紋が保存してあるはずだ。だから、君がぐずぐずいうんなら、あすこへ行ったらわかるよ。」
「行く必要はないよ。」ペンベリーの声は弱々しかった。
「それはそうだろうね。金がどっさりできて、その金を有利な事業に投資したりしていちゃ、そんなところへ行くのを、嫌がるのもむりはないだろう。」
ペンベリーはしばらく石のようにおし黙って、窓の外を見つめていたが、ふとプラットをふりかえって、「いくら出せばいいんだ?」ときいた。
「一年に二百ポンドぐらい出したって、君はびくともしないんだろう?」プラットは落着いていた。
ペンベリーはちょっと考えたあとで、
「おれが金を持っているように見えるかね?」
「ペンベリー、」と、プラットはにが笑いしながら、「君のことは洗いざらい分ってござるんだ。この半年ばかり、君の家のすぐそばに住んで観察しているんだから。」
「鬼のようなやつだ!」
「そう、その通りだ。刑務所をやめると、オーゴーマン大将のうちの下男になって、ベイスフォードの別荘にいるんだが、大将はめったにあすこへはやってこない。そしておれがそこへ来るとすぐ、君を見つけたわけなんだが、おれのほうじゃ今までわざと名のらないでいたんだ。どうして名のらないかというと、そのあいだに君の財政状態をしらべて、年二百ポンドぐらい、だせるかどうか確かめたかったのだ。」
しばらく二人とも黙っていた。
もと看守をしていた男は言葉をつづける――
「こんなことになったのも、人の顔を覚えるのが上手なお蔭なんだ。同じ刑務所にいたジャック・エリスは、二年も君を鼻の先にみていながら、まだ気づかないでいやがる――」そういったあとで、口をすべらせたのを後悔するもののように、「あいつはいつまでたったって、君に気がつく心配はないよ。」とつけくわえた。
「ジャック・エリスって、どんな男?」ペンベリーは鋭くたずねた。
「いまベイスフォード警察の臨時雇いで、なんだかあすこの刑事の下働きみたいなことをやっているらしいんだ。ちょうど君がいるころ、ポートランド刑務所に勤めていたんだが、左手の人差指を切断したので、恩給がついて、郷里のベイスフォードへ帰ったのだ。向うじゃ君を知らずにいるんだから、ちっとも心配することはないよ。」
「君が喋ったら知るだろう。」
「むやみに喋らんよ。」プラットは笑った。「君がいいようにしてくれさえすれば、そんなこたあ心配する必要はない。それに、おれはあいつとは仲が好くないんだ。あいつがあまりしつこく別荘の女中を追っかけまわすのでね――かかあがあるのにさ、それでもう来てくれるなといってやった。それであいつが恨んでいるんだ。」
「そうか、」といって、ペンベリーは考えていたが、「オーゴーマン大将ってどんな人、名まえだけは知っているが?」
「それは君だって、名まえぐらいは知っているはずだ。おれ、やめるまえダートムーア刑務所にちょっといたんだが、その頃あの人が刑務所長をしていたんだ。あの人がポートランド刑務所長だったら、君だって逃げだせやせんよ。」
「どうして?」
「あの人はブラッドハウンド種の警察犬(訳註―耳のたれた大型犬で、嗅覚が鋭いので、犯人追跡につかう。高さ二五インチ、体重九〇ポンド)をつかうのがうまいんだよ。ダートムーアにいる時、警察犬を飼っていたので、あのころは一人の脱走者もなかった。警察犬がいると、逃げようにも逃げられないんだよ。」
「いまでもそんなものを飼っているの?」ペンベリーはきいた。
「たくさん飼っている。そして、近くに窃盗か人殺しがあったら、そいつを使おうと思って、毎日のように訓練しているんだが、向うがそれを知っているためか、ちっともそんな事件が起らないんだ。さて、話がまえにもどるが、一年二百ポンドはどうだろうね、君の都合で年四回にわけてもいいんだが?」
「そんなことを言ったって、すぐ返事ができるもんか、しばらく考えさせてもらわなくちゃ。」
「よし。そんなら、明日の晩ベイスフォードへ帰るからね、君だってまる一日考えたらいいだろうから、明日の晩君とこへ行くよ。」
「いや、おれが君のうちへ行ったり、君がおれを訪ねてきたりするのは危ないよ。それより誰も知らんような場所で、こっそり会って相談するほうがいいと思う。ちょっと話したらすむことだ。用心に用心を重ねるにこしたことはない。」
「ほんとだ。」プラットは同意した。「そんならこうしよう。君も知ってるだろうが、別荘のまえに並木道がある。そして門衛はいなくて、夜以外はいつも門が明けっぱなしなんだ。おれがベイスフォードへ帰るのが六時半で、駅から別荘まで十五分かかるから、君が七時に十五分前、あの並木道で待つことにしたらどうだろう、それでいいだろう?」
「よし。しかし、警察犬があのへんをうろうろしていたら困るよ。」
「心配ないよ。」プラットは笑った。「大将はむやみに犬を放さないんだ。毒のはいったソーセイジでも食べさせられると困るから。いつもは家の裏の犬小屋のなかにいれてある。あっ! スオンリーへ着いた! おれはここで喫煙車に乗りかえるからね、いまの話をよく考えておいてくれ。さようなら。あすの七時に十五分前、並木道だよ。それから、いっとくが、第一回のぶんをその時もってきてもらいたいんだ――五十ポンド、小さい金でもいいし、金貨でもいい。」
「わかった。」
ペンベリーはおだやかに答えたが、頬は赤くほてり、目は怒りにもえていた。もと看守をしていた男は、それに気づいたのか、車室をでてドアをしめると、窓からのっそり威嚇的な顔をのぞけて、
「おいおい、ドブズのペンベリー野郎。おれだって相当な人間で、ぬかりはないぞ。だから、ずるい手を考えて、つまらんいたずらをするのはよしたがいいぜ。くれぐれもそれだけいっておく。」
そういって、頭をひっこめた。
一人になるとペンベリーは考えた。この時の彼はどんなことを考えただろう。もしここに心霊術の大家がいるとして、その人がなくなったカードや指輪をさがしたりするような、つまらんことをやめて、現在ペンベリーが考えていることを、プラットにつたえたとしたら、プラットはどんなに驚き、どんなに心配するだろう。ながいあいだ囚人をとりあつかっても、プラットが見た囚人は、刑務所内の囚人にかぎられていた。その囚人がひとたび社会にでると、どんなになるかということまでは知らないのだ。もと看守だった男は、もと囚人だった男を見くびっていた。
もともとルーファス・ペンベリーという男は――ドブズというのはかりの名にすぎなかった――意志の強い、利口な男だった。利口だったからこそ、最初は犯罪者の生活をしていたが、いったんそれに価値をみとめなくなると、あっさり足を洗ってしまった。ポートランド沖を泳いでいる彼をひろいあげた牛を積んだ船は、彼をアメリカの港へつれていった。アメリカで合法的な商売をやって成功した彼は、十年たってイギリスへ帰る時には、かなりの資産をたくわえていた。それから彼はベイスフォードという小さい町の近くに住んで、うるさい土地の人とはあまりつきあわず、過去二年間静かに貯金で暮してきたのだった。だから、もしプラットという厄介な人物が近くに現れなかったら、平穏無事な余生が送れたはずで、この男の出現のため、形勢が一変して、すべてがぶっこわされてしまったのである。
プラットの言葉や態度には、どこかうなずけないものがあった。彼の示唆したことには、永久的な価値があるわけでもないし、その約束にペンベリーを拘束するものがあるわけでもなかった。彼が高価に売りつけようとするものは、いぜんとして彼の手に残って、いつでも金にかえようと思えば、かえられるのである。金の代償にペンベリーに自由をあたえると約束しながら、その鍵はいつまでも自分がもっているつもりなのだ。要するに、恐喝者として手際がさえていないのである。
ルーファス・ペンベリーは、この男の話をきいている最中でさえ、そのへんの不手際をおかしく思った。いちどだって彼の言う通りにしようと考えたことはなかった。プラットは「いまの話をよく考えておいてくれ」といったが、考える必要は最初からなかった。というのは、彼の心はすでにきまっていたからである。プラットが名乗りをあげた瞬間から、彼の心はきまっていたようなものだ。結論は簡単だった。プラットの現れるまえの彼は平和で安全だった。プラットが現れてから彼の自由はおびやかされ、これからもたえずおびやかされるであろう。だがプラットがいなくなれば、平和と安全がもと通りかえってくる。だから、プラットをなきものにせねばならぬ。
それは論理的な結論にちがいなかった。
ひとりになったペンベリーは、汽車のなかでしきりに深い瞑想にふけったが、その瞑想が、年四回の支払に関係したものでないことはいうまでもなかった。彼はもと看守だったプラットをなきものにする方法のみを考えつづけた。
ところで、このルーファス・ペンベリーという男は、どうもうな男では決してなかった。残酷でさえなかった。ただ主要目的のみを見つめて、そのたの感傷的な小さいことは、無視するだけのゆとりをもっていた。もし紅茶のうえを蜂が唸ってとびまわったら、彼はこれを叩き殺すだろうが、けっして素手では叩き殺さない。蜂は攻撃の武器をもっているから、むやみに触れるのは危険である。まず針で刺されることを警戒せねばならぬ。
プラットの場合もそれと同じである。彼は私腹をこやすために、ペンベリーの自由をおびやかそうとしている。それは彼の勝手だが、そのため彼は危険をおかさねばならぬ。その危険にペンベリーは責任をおう必要はない。ペンベリーの考えることは、ただ自分の安全の問題だけなのである。
ロンドンのチャーリング・クロス駅へついた彼は、駅を出て行くプラットの後姿を見きわめたあとで、バキンガム街へ足をむけ、そこの物静かなホテルへはいった。約束があったのであろう、姿をみると女支配人が彼の名をよび、挨拶して部屋の鍵をわたした。
「長くご滞在ですか、ペンベリーさん?」女支配人はきいた。
「いえ、あすの朝帰りますが、またすぐやってきます。話は別だが、このホテルに百科辞典があったはずだが、あれはどこにあるんです?」
「客間にございますよ。ご案内しましょうか? でも、あなた、ご存知なのね?」
ペンベリーは客間のありばしょを知っていた。二階の気持よい、古風な部屋で、その窓から、古風な街がよく見えた。そこの小説なぞのぎっしりつまった本棚に、なんさつかの黒ずんだチェンバーズ百科辞典が並べてあった。
ひょっこり田舎から出てきた紳士が、その辞典の「犬」の項目を調べているのを、もし誰かが見たとしたら、不思議に思ったことであろう。そして、その紳士が、警察犬のことを調べ、さらに嗅覚のことを研究するのを見たなら、その人はいっそう驚きを深くして、奇異にかんずることであろう。そして、その驚きは、その紳士のその後の行動を見、その行動の目的が、邪魔になる人類の一単位をとりのぞくことにあるのを知ったなら、ますます深くなるであろう。
ペンベリーは、鞄と傘を部屋においてホテルを出ると、目的をいだく人のすばやい足どりで、ストランドの傘屋にはいり、そこで一本の籐のステッキをかった。籐のステッキを買うのに不思議はないかも知れないが、彼のえらんだのは、特別に太いステッキだった。
「おれは太いのが好きなんだ。」そう彼はいった。
「でも、旦那ぐらいのせの高さでしたら、こんな太いのより――」
店の男は反対した。ペンベリーはせの低い痩せた男だったのである。
「おれは太いのが好きなんだ。適当な長さに切ってくれ。先の石突きは自分でつけるから、そのままにしといてくれ。」
そのつぎの彼の買物は、その目的はよく分るが、あまり生のままなので、いささか意外の感をいだかせる。それはノルウェイ製の大型ナイフだった。彼はその一つで満足せず、第二の刃物店をおとずれて、第一のナイフと同じナイフを買った。どうして彼は同じナイフを二つ買うのだろう? どうして同じ店で買わないのだろう? 誰が考えてもその理由は分らないのである。
買物気違いのように、彼は次から次と買物をした。三十分ほどのあいだに、安物のハンドバッグ、画家の使う黒塗りの刷毛箱、三つ角のあるやすり、にかわの棒、るつぼ用の一本の金属をまげて物がつかめるようになった火箸なぞを買いあさった。それでも満足できないのか、彼は小路の古い薬屋へはいって、脱脂綿と過マンガン酸カリを一オンス注文した。妖術師みたいな神秘な手つきで、薬屋の亭主がそんなものをつつむのを、ペンベリーは無関心な表情でみていたが、
「お宅にはじゃこうはないでしょうね?」と、なにげない口ぶりできいた。
封蝋をあたためていた薬屋の亭主は、顔をおこした。いまにも呪文でもとなえそうな顔だった。
「本物のじゃこうはないですよ。大変高いものですから。しかし、じゃこうのエッセンスならございますよ。」
「本物ほど強くはないでしょう?」
亭主はちょっと笑って、
「それは本物とはちがいます。でも相当強いですよ。ご承知でしょうが、動物性の香料はみな鋭くて長もちがします。エッセンスをテーブルスプーンに一杯ほど、聖ポール寺院のまんなかにぶちまいてごらんなさい、あのへんいったい、半年ほどぷんぷんしますから。」
「そんなに強くなくてもいいんですよ。では、すこしばかりもらいましょう。壜の外にくっつかないように気をつけてください。人からたのまれたんだから。私がじゃこうの匂いがしだしたら大変だ。」
「承知しました。」
薬屋の亭主は一オンス入りの空壜と、小型のガラスのじょうごと、「じゃこうエッセンス」と書いた壜をだして、また魔法使いのような動作をはじめた。液体をうつしおわると、
「壜の外にはすこしもついていませんから、ご安心ください。こうしてゴムの栓をしとけば絶対に安全です。」
ほとんど病的と思われるほど、ペンベリーはじゃこうの匂いをきらった。亭主が魔法の一つのしぐさのように、狭い場所にしりぞくと、(ほんとは釣銭をさがすためにしりぞいたのだったが、)彼は鞄から刷毛箱をだして蓋をあけ、恐るおそる火箸でじゃこうの壜をつまんで、それを刷毛箱にいれ、それからその箱や火箸を鞄にしまい、カウンターから二つの包みをとってポケットにいれた。そして、ハーフクラウンの銀貨で、銅貨四枚の釣銭をもらうと、また思案顔でストランドの大通りへかえった。
ふと彼はあることを思いついたように立ちどまった。それから、彼の買物のうちで、いちばん風変りな買物をするため、北のほうへ方向をかえて歩きだした。
その買物はセヴンダイアルのある店で行われたが、そこには、かたつむりからアンゴーラ猫にいたるまでの、あらゆる動物がならべてあった。檻のなかのモルモットを見ると、ペンベリーは店にはいって、
「死んだモルモットはないの?」ときいた。
「おあいにくさま。生きたのばかりです。」そういったあと、店の男はにやりと笑って、「でも、生きたものですから、いつでも死にますよ。」
ペンベリーはいやな顔をした。モルモットと恐喝者を、いっしょにされちゃこまる。
「モルモットでなくてもいいから、小さい死んだ動物はない?」
「鼠はいけませんか、死んだのがありますが? 今朝死んだばかりですから、まだわるくはなっていないのですが。」
「じゃ、鼠をもらおうか。」
小さい死体の包みをうけると、それを鞄にいれ、お愛想のような金をはらって、ペンベリーはホテルへかえった。
簡単な昼食をすますと、またホテルをでて、この旅行のほんらいの目的である、商売上の相談に午後の大部分の時間をついやした。夕食は料理店ですまして、夜の十時になるまでホテルへかえらなかった。ホテルへ帰った彼は、自分の部屋のドアに鍵をかけると、服をぬいでベッドにはいるまえに、なんとも解釈のしようのない奇妙なことをした。まず、買ってきたステッキの先の、ゆるい石突きをぬきとって、その石突きの底に尖ったやすりで穴をあけ、だんだんその穴を大きくしていって、しまいには石突きのふちがのこるだけぐらいにしたのである。それから彼はその穴に丸めた脱脂綿をつめ、ガスの火でにかわをとかして、その綿のはいったままの石突きを、ステッキの先にくっつけた。
ステッキの細工をすました彼は、ノルウェイ製のナイフの一つをとりだし、その木の柄に塗ってある黄色いニスを、きれいにやすりでかなぐり落し、それからナイフの刃をおこして、包みの紐をきって、そのなかから鼠の死体をとりだし、それを紙のうえにおいて頭をちょんぎり、尻っぽをつまんで持ちあげて、頸からしたたる血の滴を、ナイフの上に落して、指先で刃の両がわや柄にていねいにぬりつけた。
彼はナイフを紙の上においたまま、しずかに窓をあけた。窓の下の暗いところから、ゆるやかな円をえがくような猫の鳴声がきこえた。ペンベリーはその声のするほうに鼠の死体と頭をほうりなげ、また窓をしめた。それから包紙の屑を煖炉でもやし、手を洗ってベッドにはいった。
あくる朝になってからの彼の行動も、同様に奇怪だった。早めに朝食をすまして、寝室へかえった彼は、ドアに鍵をかけ、ステッキの柄のほうを下にむけて、化粧台の脚にくくりつけた。つぎに刷毛のはいっている箱の蓋をあけ、火箸でつまんでじゃこうの壜をだし、壜の外に匂いがついているかどうか、よく嗅いだあとでゴムの栓をぬいた。それから細心の注意をはらいながら、壜をかたむけて、数滴――茶さじ半分――のエッセンスをステッキの綿にたらしこんだ。綿が充分にエッセンスを吸いとると、こんどはナイフの柄にエッセンスを一滴おとした。ナイフの柄もすぐ液体を吸いとった。それがすむと彼は窓をあけて外をみた。すぐ下に小庭があって、そこに二株ばかりの月桂樹が、枯れもしないで枝をのばしていた。鼠のむくろはどこにも見えなかった。夜のまに消えてなくなったものと思われた。彼は手にしていた壜を、月桂樹のしげみにむかって投げつけ、そのあとからゴムの栓をほうりなげた。
そのつぎに彼がしたことは、化粧道具入れから、ワセリンのチューブをだし、それを少しばかり指先にしぼりだしたことであった。彼はそのワセリンを刷毛箱の要処要処に塗りつけて、蓋をした時、空気がもれないようにした。指のワセリンをふきとると、火箸でナイフを持ちあげ、刷毛箱にいれてすぐ蓋をしめた。それから匂いを消すため、ガスの火で火箸を焼いて、その火箸と刷毛箱を鞄にいれた。そして石突きに手がふれぬように用心しながら、ステッキの紐をとくと、彼はそのステッキのなかほどのところを片手でにぎり、片方の手に鞄と化粧道具入れをさげてホテルをでた。
早朝の汽車に一等客はすくないので、誰もいぬ客車をさがすのに骨はおれなかった。車掌が笛をふくまで、プラットフォームで立ってまった。車室にはいるとドアをしめ、ステッキの先が外がわの窓に覗くようにおいて、汽車がベイスフォード駅につくまで、そのステッキの位置を動かさなかった。
汽車をおりたペンベリーは、化粧道具入れは駅にあずけ、ステッキのまんなかを握って駅をでた。ベイスフォードの町は、駅の東半マイルほどのところにあった。彼の家は駅の西一マイルほどはなれたところにあった。そしてオーゴーマン大将の別荘は、駅から彼の家へ行く道の、なかほどのところにあった。だからその別荘のことは、彼はよく知っていた。その別荘は農家を改造したもので、広々とした草原の一端にあって、大道からちょっと三百ヤードばかりひっこんでいるが、大道からそこまで、古い大木の並木道が通じている。そして、大道からその並木道に折れるところには、大きな鉄門が立っているが、それはほんの装飾のようなもので、門の両側に囲いがないので、付近の原っぱや畑から自由に並木道に出はいりでき、げんにその並木道の中ほどのところを、人が踏みつけてできたらしい小道が横切っているほどなのである。
ペンベリーはその小道から並木道へはいることにした。踏台があって乗りこえることができるようになった低い囲いをこす時には、そこに立ちどまってあたりを見まわした。まもなく、前に小道を横切る並木道が見えだした。二本の立木のあいだを抜けてその並木道にはいると、また立ちどまって、長いあいだあたりを見たり、耳をすましたりした。かすかに葉ずれの音がするだけで、ほかにはなんの物音もしなかった。人影も見えなかった。プラットが旅行するぐらいだから、大将も留守なのだろう。
さぐるような目つきで、ペンベリーは近くの並木を一本ずつ見た。いま彼がその間を通って並木道へでたその二本の木というのは、一本が楡、一本が柏の大木だったが、その柏の大木は、でこぼこの大きな幹が、地上七フィートのところから三つの枝に分れて、そのいずれもが普通の木ぐらいの太さで、そのいちばん太いのは、彎曲して道の上におおいかぶさっていた。この柏の大木に、ペンベリーは特別の注意をはらって、ぐるりとその根もとを一回りしたあとで、そばに鞄とステッキをおいた。ステッキは先が上になるように鞄に立てかけた。それから彼は幹のでこぼこをたよりに、幹が三つの枝に別れているところまでのぼったが、この時鉄門のあく音がして、誰かが並木道にはいってきた。あわてて彼は木からとびおり、鞄とステッキを手にして、幹のかげに身をひそめた。
「見つけられたら大変だ。」そう心につぶやきながら、彼はぴったり大木の幹によりそって、顔をのぞけて鉄門のほうを見た。人影が近くなると、彼は体の位置をかえて見られないように用心した。やがて足音がま近になって、柏の木の前を通り抜けると、彼はそっと顔をだして、その後姿を見た。郵便配達夫だった。なんだ! と思ったが、顔見知りの配達夫だったので、見つけられなかったのは、やはり幸運にちがいなかった。
この柏の木は彼の要求を満足させなかったのか、また並木道のまんなかに立って、右や左をながめだした。楡のむこうに刈込んだホーンビーム(訳註―しらかば科の落葉樹)がみえた。風変りな奇妙な木で、幹が喇叭のように上になるほど太くなり、その太くなった頂から、無数の小枝が、怪物の手のように八方に拡がっていた。
一目で彼はその木を適当とみとめたが、かえりの配達夫が、楽しげに口笛を吹きながら、足ばやに通ったので、そのあいだまた柏の木に体をくっつけて待った。ひっそりとなると、彼は決心の色をうかべてその木に近づいた。
その木の幹の頂は、高さが六フィートあるかないぐらいだったので、手を伸ばしてみたらすぐ手がとどいた。彼はステッキを幹に立てかけ――この時は石突きを下にして――鞄から刷毛箱をだして蓋をあけ、火箸でその中からナイフをつまみだして、火箸もナイフも両方とも下から見えぬ幹の頂においた。それから彼は刷毛箱を鞄にいれかけたが、ふと思いついたようにそれを嗅いでみたら、いやな匂いがしたので、幹の頂にほうりなげた。箱は音をたてて、枝と枝とのあいだの、幹の頂に落ちた。彼は鞄をしめると、ステッキの柄のほうをもち、静かに来た時の道をあるいて、楡と柏とのあいだから並木道をぬけだした。
彼は異様な歩きかたをした。歩きかたがのろいばかりではなかった。歩きながらステッキをひこずり、五六歩あるくと立ちどまって、強くステッキを土地に押しつけるのである。はたから見ていたら、なにか瞑想にふけりながら歩いている人としか見えなかった。
そんな歩きかたをしながら、彼は野原を横切った。大道へかえろうとはしなかった。やがて小さい細道へでた。その細道をしばらく行くと大道がある。その細道が大道に落ちあうすぐ向うに警察署があった。小さい警察署なので、近くの農家と見分けがつかないほどだったが、ドアをあけはなしてあって、ランプがあって、外に掲示板があるので、よく見れば警察ということが分る。ペンベリーはステッキをひきずって大道を横切り、警察署の入口にステッキの先を当てたまま、その掲示を読んだ。ドアがあいているので、なかがよくみえた。一人の男がデスクにむかってなにか書いていた。その男はこちらに背をむけていたが、動く拍子にその左手が見えた。左手の人差指がなかった。もとポートランド刑務所に勤めていたジャック・エリスにちがいなかった。
そのうち、その男が横へむいたので、顔がよく見えた。ペンベリーは、ベイスフォードからソープ村へ通じる道路で、よくこの男に出会った。しかも、それがいつも同じ時刻だった。つまりこの男は毎日ソープ村へ行っているのだ――報告をうけるため交番をめぐるのかもしれない――行くのは三時から四時までのあいだ、帰るのは七時から七時十五分のあいだだった。
ペンベリーは時計をみた。三時十五分だった。そっと警察署の建物からはなれ(ステッキのまんなかを握って、)ゆっくりした足どりで、西のソープ村の方向へ歩きだした。
しばらく額に当惑したような深いしわをよせて、しきりに考えこんでいるような様子だったが、まもなく晴ればれとした目つきになって、いままでより歩度をはやめて歩きだした。そして生垣のこわれたところを見つけると、そこから道をはなれて野原にはいり、今までと同じ方向に歩きながら、豚皮の小さい財布をとりだし、大部分の金を抜きとって、数シリングの金だけ残し、金貨や紙幣を入れるためにできている財布のポケットのようなところへ、ステッキの先をつきさした。そして財布をくっつけたステッキの中央を握ったまま、ゆるやかに歩きつづけた。
やがて大道が「く」の字なりに曲ったところまでくると、彼はそこに腰をおろしたが、その位置からは今まで歩いてきたところがよく見とおせたし、また、ちょうど生垣がこわれて隙間ができていたので、大道を通行する人からはこちらを見られずに、安心して通行人を見ることができた。もっとも、通行人といったところが、まれにしかその道路を通る人はなかったのである。
十五分たった。ぼつぼつ彼は不安を感じはじめた。自分の見込みに狂いがあるのではあるまいか? エリスは毎日通るのでなくて、時々しか通らないのではあるまいか? もしそうだとすると、さしせまった危険はないにせよ、ちょっと厄介なことになる。そんなことを考えていたら、大股に一人の男が大道を歩いてきた。彼の目にあやまりはなかった。それはエリスにちがいなかった。
だが、この時、反対の方向からまた一人の男が歩いてきだした。労働者ふうの男だった。彼は位置をかえようかと考えた。だがよくみたら、労働者のほうが先に通ることがわかった。彼は待った。まもなく労働者は生垣のこわれた隙間のまえを通りすぎた。その時ちょっと、エリスは曲り角にさしかかって見えなくなった。そのエリスの見えない瞬間を利用し、ペンベリーは生垣のすきまから財布を先にくっつけたステッキをのぞけ、財布をふり落して、ステッキの先で突いて、その財布が道路のまんなかになるようにした。それからまた生垣のそばにしゃがみ、息を殺してエリスの来るのを待った。やがてなにも知らぬエリスが、悠々とした足どりで通りかかった。ペンベリーは邪魔になる小枝をはらって、ひとみをこらして見入った。エリスは財布に気がつくだろうか? 小さい物なので、見おとさなければいいが――
はたと足音がやんだ。立ちどまってエリスは財布をひろった。それからなかをあらためて、ズボンのポケットにおしこんだ。ペンベリーはほっとした。そしてエリスの後姿が道を曲ってみえなくなると、生垣をはなれて急いで歩きだした。
生垣のこわれた場所のそばの方々に、麦藁を積み重ねてあった。そのそばを通った彼はあることを思いついた。麦藁の山にステッキを突きさし、そばにあった棒をひろってきて、その棒でステッキの柄を押して、見えなくしてしまったのである。ステッキを始末すると、あとにのこるのは、空の鞄一つだけである。まだ化粧道具入れがのこっているが、それは駅に預けてある。彼は空の鞄をあけてなかを嗅いでみた。なんの匂いもしなかったが、それでも始末するにこしたことはないと思った。
生垣の隙間から道へ出ると、一台の荷車が、なにか袋に入れた物をたくさん積んで通りかかった。荷車の後の囲い板は立ててなかった。彼はあたりを見まわし、いそいで荷車に追いついて、その鞄を車の後にのせ、それから急いで駅へ行って化粧道具入れを受けとった。
家にかえるとすぐ寝室にはいり、ベルをおして家政婦をよび、いつもより多めの食事の用意をいいつけ、それから服はもとより、シャツ、ネクタイ、靴下まで、すっかり脱いでしまってトランクにいれた。そのトランクは大量のナフタリンとともに夏物がいれてあった。彼は化粧道具入れから、過マンガン酸カリの包みをだし、となりの浴室へいってその薬剤を浴槽にいれ、水道の栓をひねって水をいれた。桃色の水が浴槽にいっぱいになると、彼は全身をその水にひたして、頭の髪までていねいに洗った。それから浴槽の水をすて、新たに水をいれて体をすすぎ、タオルでふいてかわかした。つぎに満腹するまで食事をし、食事がすむとソファに寝そべって、約束の時刻がくるのをまった。
六時半になるころの彼は、停車場前の、たった一つの街灯が遠くから見えるような場所をうろついていた。まもなく汽車の停る音がして、どやどや乗客たちが駅からでてきたが、そのうちの一人は、ほかの者とはなれ、ソープ村へいく道にはいった。その男がプラットであることは、ほのぐらい街灯の光ですぐ分ったが、靴音たかくふみならして、張りきって約束のばしょへむかうらしかった。
ペンベリーは目にたよるよりも、おもに耳にたよるようにして、向うに覚られないように尾行した。プラットは鉄門のほうへ行くらしかった。ペンベリーは囲いを乗りこえ、急ぎ足で暗い草原を横切った。
まっ暗い並木道へでると、彼はいちばんにホーンビームの木の上に手をのばしてさぐってみた。火箸が手にふれた。安心した彼は手をひっこめて、静かに並木道を歩いた。木の上にあるのと同じナイフの刃を起し、上着の内がわのポケットのなかで、その柄を握りしめていた。
陰気な音をたてて鉄門があき、だんだん靴の鳴る音が近づいた。闇のなかに黒い人影が現れると、静かにそのほうへ近よって、
「プラットか?」ときいた。
「そうだよ。」快活なプラットの声だった。まぢかになると、「金をもってきた?」ときいた。
無礼で馴れなれしい彼の態度が、ペンベリーの決心をいっそう強いものにした。「持ってきたよ。しかしその前に話をきめたいんだが。」
「無駄口をきいているひまはない。すぐ大将が帰ってくる。ビングフィールドへ友人といっしょに馬に乗りにいったのだ。早く金をくれ。話はこんどにしよう。」
「よし、分った。しかしね、君――」
急にペンベリーは立ちどまった。その時二人はホーンビームの木のそばまできていた。ペンベリーは闇のなかでその木を仰いだ。
「どうしたの?」プラットはきいた。「なにを見ているんだ?」彼も立ちどまって木を見あげた。
とっさにペンベリーはナイフをふりあげ、全身の力をこめて、もと看守をしていた男の、左の肩甲骨のしたを後から刺した。
刺されたプラットは、恐ろしい悲鳴をあげてふりむき、ペンベリーにしがみついた。
彼はペンベリーより大きくもあるし、力も強かったので、格闘のだんになると、ペンベリーは彼の敵でなく、すぐ喉をしめつけられてしまった。だがペンベリーもいっしょうけんめいだった。二人がしがみついたまま、押したり押されたりしているうち、ペンベリーがまた一、二度つづけさまにナイフで刺したので、プラットの声はしだいにかすれてかすかになった。それから二人は組合ったままどさんと勢よく倒れたが、下になったのはペンベリーだった。だが、倒れた時にはすでに勝負はついていた。プラットは泡立つような最後の唸声をあげ、それからペンベリーをつかんでいた指をゆるめて、ぐったりとなった。彼を押しのけて立ちあがったペンベリーは、ぶるぶる震えながら、喉をひいひい鳴らしていた。
だが、それだからといって、彼は時間をむだにしはしなかった。案外格闘が大きな音や声を立てたので急がねばならなかった。木のそばによって火箸をさぐった。その火箸でナイフをつかんで木からおろして、そのナイフを死体から二、三フィートはなれた位置においた。それからまた木に近づいて火箸をもとのところへかくした。
この時、並木道のはずれの、別荘のほうから、鋭い女の声がきこえた。
「プラットさんなの?」
ペンベリーはひやりとした。すぐ爪先で歩いて死体にちかづいた。死体にナイフが突きささっているので、それだけはどうしても取らなければならなかった。
死体は上向きになっていた。ナイフは死体の下にあって、柄のところまで刺さっていた。死体を動かすのには両手を使わなければならなかったし、ナイフもそう易々とはぬけなかった。同じ言葉をくりかえす女の声は、だんだん近くなった。
ようやくナイフをぬきとると、それを内がわのポケットにいれた。死体を放して、はげしい息づかいをしながら立ちあがった。
「プラットさん! どこなの!」
声があまり近いのでびっくりした。そのほうに顔をむけると、木々のあいだにちらっと灯がみえた。その時、鉄門のあく音がして、馬のひずめの音がきこえた。
すっかり慌ててしまって、しばらくは身動きすることさえできなかった。馬が現れようとは思わなかった。馬で追っかけられたら、ソープへ行く道の途中で追いつかれるにきまっている。追いつかれたらそれまでだ。服に血がついているし、手も血でずるずるしていた。ポケットの中のナイフがよごれていることは言うまでもなかった。
だが、彼の当惑はすぐ消えた。先刻の柏の大木のことを思いだしたのである。すぐその木のそばへ走ってゆき、なるべく血がつかぬように用心しながら、枝のあるところまでのぼった。道の上へ水平に伸びている枝は、直径が三フィートもあった。だからその上に横になって、なるべく姿勢を小さくしていれば、下から見つけられる心配はなかった。
彼が枝の上に身をひそめると、むこうから一人の女が、うまやのカンテラをもって接近してきた。そして、それと同時に、反対の方向から明るい光がさしてきた。馬上の男は自転車の男を同伴しているらしい。
「どうかしたの、ミシズ・パートン?」と、馬の上から男の声がした。
ちょうどその時、自転車のランプが道によこたわる死体を照した。二人の男は同時にそれをみて声をたてた。女も悲鳴をあげた。
馬上の男は馬からとびおり、そばにかけよって、
「なんだ、プラットじゃないか!」といったが、明るい自転車の光で血の海をみると、「これは殺されたんだよ、ハンフォード。」
ハンフォードは自転車のランプをとって、死体のあちこちや、付近の道路を照してみていたが、
「オーゴーマン、君のうしろにあるのは、なに? ナイフじゃないか?」といって、そのほうへ歩きかけた。
「手をつけちゃいかん! おれが犬をつれてくる。犬に嗅がせればすぐわかる。まるで向うから犬の待っているところへとびこんできたようなものだ。」大将はしばらく得意げといいたいような目つきでナイフを見ていたが、友人をかえりみて、「ハンフォード、君は大至急、自転車で警察へ知らせにいってくれ。一マイルもないんだから、十五分もあればいけるよ。そして巡査に来てくれというか、いっしょにつれてくるかするんだ。おれは野原をさがしてみる。さがしても君が帰ってくるまでに分らなかったら、犬にこのナイフを嗅がせることにしよう。」
「よし。」
ただそれだけいって、ハンフォードは自転車にまたがり、闇のなかに姿をけした。
「ミシズ・パートン、ナイフの番をしていてくれ。おれが野原からかえるまで、誰にもそれに手を触れさせちゃいかんよ。」オーゴーマンはいった。
「プラットさんは、もう駄目なんですか、旦那さま?」ミシズ・パートンはおろおろ声だった。
「それには気がつかなかった。お前よくみてくれ。しかし匂いがつくから、誰にもそのナイフに手をつけさしちゃいかんよ。」
そういいすてて、彼は馬に跨がり、ソープ村の方向にむかって、暗い野原に馬を飛ばせた。しだいに遠くなるひずめの音をききながら、ペンベリーは逃げないでよかったと思った。彼が逃げようと思った方向もそちらであった。だから逃げていたら、追いつかれるところだった。
大将が立ちさると、パートン夫人は恐る恐る左右をふりむき、死体のそばへよって、カンテラで死人の顔を照した。だが急に身震いして立ちあがった。並木道のむこうから足音がしたからであった。まもなく聞きなれた声がしたので安心した。
「どうかしたの、ミシズ・パートン?」
それは別荘の女中の一人で、年長のパートン夫人をさがしにきたのだった。女中は若い男といっしょだった。二人ともカンテラの光のとどくところへ歩みよった。
「あっ! これはだれ?」男がきいた。
「プラットさんよ。誰かに殺されたらしいの。」パートン夫人はこたえた。
女中は悲鳴をあげた。女中と下男は、爪先で歩くような恰好で死体にちかよって、恐ろしそうな顔でそれをみた。
下男がナイフにちかよりかけると、
「そばによっちゃだめ。旦那さまがいま犬に嗅がせるんだから。」
「旦那さまがいらっしゃるの?」
そう下男がきくと、それに答えるように、野原から馬を飛ばす音がして、それがだんだんまぢかになった。
オーゴーマンは、三人の召使が死体をとりまいているのを見ると、手綱をしぼって、
「死んでいるか、ミシズ・パートン?」ときいた。
「そうらしゅうございます、旦那さま。」
「そんなら、誰か医者を呼んできてくれ。しかしベイリーは行かないで、犬をつれだして、並木道のはしのところで、おれが呼ぶまで待っていてくれ。」
また彼は野原に馬をのりいれ、ベイスフォード方面へとんでいった。ベイリーが犬をつれだすため家へかえると、あとにのこった二人の女中は、死体をかこんで、ひそひそ話しはじめた。
木の上のペンベリーは窮屈だった。窮屈でもみうごきできなかった。それどころか息をすることすら心配なほどだった。というのは、下の女との距離が、十二ヤードぐらいしかなかったからである。だから、ベイスフォード方面から一群の人々が灯をかざして来るのを見た時には、心配でもあったが、むしろほっとした気持でもあった。その一群の人々は、しばらく並木の蔭になって見えなかったが、まもなく灯影を木の幹に映しながら接近してきた。それは先刻のハンフォードと警部と警部補の三人で、三人とも自転車だった。彼らが到着すると同時に、ひずめを轟かして、大将がかえってきた。
彼は馬をとめると、
「エリスも来ましたか?」ときいた。
「いや、あれは今夜はいつもよりおそくて、まだソープから帰ってきません。」
「医者に知らせましたか?」
「ドクター・ヒルスを呼びにやりました。」警部は自転車を柏の木に立てかけながらこたえた。ぷんとペンベリーの鼻にランプの匂いがきた。「プラットは死んでいますか?」
「そうらしいです。」オーゴーマンの声だった。「しかし、そんなことは医者にまかすことにしましょう。あすこにナイフがあるんです。まだ誰も触っていません。これから犬に嗅がしてみようと思うんです。」
「それは面白いでしょう。まだ犯人は遠くへ逃げちゃいませんよ。」そういって、警部は満足そうに両手をもんだ。オーゴーマンは家のほうへ馬をとばせた。
それから一分間とたたないうち、闇のなかからものすごい犬の鳴声や、砂利を踏む靴の音がきこえ、それからまもなく、逞ましげな足をした、毒々しい、ほっそりした、三匹の犬が死体のそばに現れた。革紐をもつ二人の男は、ひきずられるような恰好だった。
「警部さん、」大将は叫んだ。「あなた一匹もってください。私は二匹はもてぬ。」
警部はかけよって、大将の手から革紐の一つをうけとった。大将は犬にナイフを嗅がせた。木の上のペンベリーは、無関心といっていいほどの落着きで、その大きな動物を珍らしげに見た。額にしわをよせた動物は、ナイフのそばによると、いままで高くもちあげていた頭を低くして、憂欝な目つきで匂いを嗅いだ。
長いあいだ犬はナイフを嗅いでいた。しばらくすると、鼻を低くして、ふきんの土地を嗅ぎはじめた。と思うと、急に頭をもたげて一声高く吠え、それからまた鼻を低くして、柏の木と楡の木とのあいだをぬけ、大将をひきずるようにして歩きだした。
そのつぎに、警部が犬にナイフを嗅がせると、その犬も前の犬のあとを追いだした。
ベイリーは第三の犬にナイフを嗅がせながら、感心したように見ている警部補にいった。「犬の鼻は確かなもんですよ。一度だって間違えるようなことはありませんからな。みとってごらんなさい――」そこまでいうと言葉を切った。犬がはげしく革紐を引っぱって、前の犬と同じ方向へ進みだしたからであった。ハンフォードもそのあとについた。
警部補はそっとナイフの紐をつけるかんのところをつまんで持ちあげ、ていねいに紙で包んでポケットにいれ、ほかの者のあとをおって野原にでた。
ペンベリーは闇のなかで笑った。思いもうけぬ出来事がつぎつぎと続きながら、とにかくことは計画通り進行しつつある。ただ女中がどこかへ行ってくれれば、そのあいだに逃げだせるのだが。時々吠える犬の声はしだいに遠くなった。それにしても医者はなにをしているのだ。早く来てくれればいいのに。生きるか死ぬかの場合ではないか。責任観念がないのだろうか。
ふと彼の耳に自転車のベルの音がひびいてきた。まもなく並木道にあらての自転車の灯がみえ、悲劇の現場にとまると、小柄の年ぱいの紳士がおりて、自転車を女中パートン夫人に持たせて、死体のそばにしゃがんだ。彼は死人の手を握ってみ、まぶたをひっくりかえして、マッチの火をつきつけてみると立ちあがって、
「これは大変だ。すっかり死んでいますよ。あなたがた二人は頭のほうを持ってください。私が足を持ちます。とにかく家へはこばなくちゃ。」
ペンベリーの目は、三人が死体をはこんで並木道を遠のくのをみた。彼の耳は、よろめくような彼らの足音が、しだいにかすかになり、最後に別荘のドアのしまる音をきいた。それでもなお彼は耳をすましていた。はるかなところから、時々犬の吠えるのが聞えた。ほかにはなにも聞えなかった。しばらくすると、医者が自転車をとりにくるだろう。それまでは人っこ一人いないわけだ。ペンベリーは固くなった体をおこした。木の幹に当てていた両手は、こわばって濡れていた。急いで木からおりて、またしばらく耳をすました。そこにおいてあるランプの光をさけて、遠回りして並木道を横切り、ソープ村へむかう草原へでた。
あたりはまっ暗で、なにも動いていなかった。急ぎ足に草原を横切りながら、時々立ちどまって、闇をすかして見たり、聞耳をたててみたりした。だが、どこもひっそりとして、犬の遠吠えよりほかには、なにも耳にはいらなかった。彼の家のそばに深い小川があって、そこに木の橋がかかっているのを思いだした。自分の風采が異様であることは分っていたので、彼はその小川へ足をむけた。小川のふちへくると、ひざまずいて手や手頸を洗った。だが、しゃがんだ拍子に、ポケットに入れていたナイフが流れに落ちたので、それをさぐってひろいあげ、泥のなかにできるだけ深くさしこんだ。それからまた水草で手をぬぐい、橋をわたって家のほうへあるいた。
家のそばまでくると裏手にまわってみた。家政婦が台所で働いていたので安心した。彼は静かに玄関のドアを鍵であけて、すぐ二階の寝室にはいった。寝室にはいった彼は、となりの浴室ですっかりよごれを洗いおとした。そこではよごれた水を自由にすてることができた。新しい服に着かえて、今まで着ていた服はトランクにしまった。
すっかり後始末をすると、夕食を知らせる銅鑼がきこえた。食堂に坐った時の彼は、折目ただしい服装で、落着いた、快活な紳士になっていた。
「ロンドンの用事がかたづかないので、またあす行かなくちゃならん。」
「あすの晩はお帰りになりますか?」家政婦はきいた。
「帰るつもりだが、ことによると帰れないかもしらん。仕事がすめば帰れるのだが――」
その仕事がどんなものであるか、彼のほうでいいもしなければ、家政婦のほうでききもしなかった。ペンベリーはそんなことをむやみに喋る男ではなかった。彼は用心ぶかい男だった。そして、用心ぶかい男は、むやみに喋らないものなのである。