戻る
カラブウ内親王殿下
Table of Contents
カラブウ内親王殿下
牧逸馬
Reading Settings
文字サイズ
18px
テーマ
ライト
ダーク
セピア
ナイトアイ
行間
読書モード
翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 2 of 9

2

と、ここで、第二の驚愕が、善良なるホルトン一族を待ち構えていた。

いきなり女が、両手を上げて鼻の先に振立てたのだ。手首に懸け連ねた真鍮の腕環が、世にも盛大な音を発して、じゃらん! じゃらん――! というのだから、ホルトンは度胆を抜かれた。同時に、女は、猿轡を除られたように一度に饒舌り出した。が、その言葉たるや、である。莫迦に濁音が多かったというから、

「がぎぐげご、ばびぶべぼ、だぢづでど――」

なんかと響いたのだろう。不幸なホルトン夫妻とその娘たちは、眼をぱちくりさせて顔を見合った。

女は英語が解らないのだ。ABCも識らないらしい。声は音楽的な低音で、落ちついて聞いていると旋律的な調子なのだが、何しろ双方言語不通で、何がなにやらさっぱり判らない。

「どこの人だね、お前さんは」

「ああ、がぎぐげご!」

「え? 何か用かね?」

「おお、ばびぶべぼ! ばびぶべぼ!」

「仕ようがねえな」当惑したホルトンが細君を返り見て、

「弱ったな。何うしたもんだろう――」

相談をはじめると、女は、夫婦の顔をにこにこ見較べて、

「だぢづでど」何ごとかひとり呑み込んでしきりに合点いている。「だぢづでど!」

ちんぷんかんぷんこの上なしという会話だ。ホルトン家の人々も女も、とうとう匙を投げて笑いだしてしまった。

ところが、妙なもので、一緒に笑ってみると、言葉は通じなくても、笑いの中には万国共通の一脈の人情味が漂う。人々は多分にものずきな好意をもって改めて女を見直した。

ぽっちゃりした瓜実顔、いささか浅黒い皮膚、調和を破るほど大きな、水っぽい眼、身長約五呎二吋、小柄ですらりとしている。ちょいとした美人だ。白のモスリンの襞飾を襟に巻いて金で縫取りをした黒い絹の着物――というと聞えはいいが、その金は剥げ、黒の色も褪せて汚点だらけ、それも、白く砂埃りを浴びて縒れよれになっている。おまけに、すこしも身体に合っていないでぶくぶくなのだ。貧弱な木綿の肩掛けを二枚、勿体らしく前後に垂らして、頭はと見ると、印度人の頭巻布というやつだが、細かく観察すれば、それにすこしくアラビヤ風を加味した形で、荒い縞の布地を塔のように高くぐるぐる巻いている片方の端が、裾に届くほど長く下って、頭布の下に金貨飾が覗いているのだ。変ないでたちだが、ひどく上品なところがある。そして非常に人なつっこい。

まぎれもない東洋の女だ。性格的な感じである。眼に智的な閃きを見せて、恰好のいい、だがちょっと猶太人めいて分の厚い鼻、口びるは大きく、強く、しじゅう微笑していて、全体に好人物らしい触点をあたえている。髪も瞳も黒く、肩に、何かメタルをつないだ鎖のようなものを懸けて、手には、葉を払った小枝の杖。革草鞋から着物の膝にかけて真っ白に塵埃に塗れてところどころ惨ましく鈎裂きしているのでも、どこか可成り遠くから道のない道を歩いて来たことが想像される。年令は二十五? 六?

無銭徒歩旅行の異国の女――ホルトンの家の人々は、急にこの、言葉にさえ不便な珍客に人間的な同情を感じはじめた。まあ、お這入りなさいという身振り宜しく、家じゅうで廊下へ伴れ込む。取りまいて色いろ訊いてみる――のだが、訊いてみると言っても、はじめからいうとおり言葉は通じないのだから、総掛りで手真似足真似だ。娘たちまで面白がって、思いつくまま種々手旗信号のような恰好をして見せる。両方とも解らせるのが大変だ。女もホルトンも散ざん頭脳を絞ったあげく、やっと判明したところによると、女は、足を擦って「がぎぐげご」で、これは、長道中をして疲れているというのらしい。それから、お腹を押さえて「ばびぶべぼ」は、空腹で耐らない意。あたまを横に肘枕の態は、眠りと休養を欲するというのだろう。つまり、歩き草臥れて腹が空いて、睡くてやり切れないから、食を恵んで一泊させてくれ――しきりにその動作を繰り返しながら、人好きのする微笑をつづけている。

Chapter 2 of 9
|