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兄と彼れとは又同じ事を繰返して云ひ合つてゐるのに氣がついて、二人とも申合せたやうに押默つてしまつた。
兄は額際の汗を不愉快さうに拭つて、せはしく扇をつかつた。彼れは顯微鏡のカバーの上に薄らたまつた埃を隻眼で見やりながら、實驗室に出入しなかつたこの十日間程の出來事を、涙ぐましく思ひかへしてゐた。
簡單に云ふと前の日の朝に彼れの妻は多量の咯血をして死んでしまつたのだ。妻は彼れの出勤してゐる病院で療治を受けてゐた。その死因について院長をはじめ醫員の大部分は急激な乾酪性肺炎の結果だらうと云ふに一致したが、彼れだけはさう信ずる事が出來なかつた。左肺が肺癆に罹つて大部分腐蝕してゐるのは誰れも認めてゐたが、一週間程前から右肺の中葉以上に突然起つた聽診的變調と、發熱と、腹膜肋膜の炎症とを綜合して考へて見ると粟粒結核の勃發に相違ないと堅く信じたのだ。咯血が直接の死因をなしてゐると云ふ事も、病竈が血管中に破裂する粟粒結核の特性を證據立てゝゐるやうに思はれた。病室で死骸を前に置いて院長が死亡屆を書いてくれた時でも、院長は悔みや手傳ひに來た醫員達と熱心に彼れの妻の病氣の經過を論じ合つて、如何しても乾酪性肺炎の急激な場合と見るのが至當で、斃れたのは極度の衰弱に起因すると主張したが、彼れはどうしても腑に落ちなかつた。妻の死因に對してさへ自分の所信が輕く見られてゐる事は侮辱にさへ考へられた。然し彼れは場合が場合なのでそこに口を出すやうな事はしなかつた。而して倒さに着せられた白衣の下に、小さく平べつたく、仰臥さしてある妻の死骸を眺めて默然としてゐた。
默つて坐つてる中に彼れの學術的嗜欲はこの死因に對して激しく働き出した。自分は醫師であり又病理學の學徒である。自分は凡ての機會に於て自己の學術に忠實でなければならない。こゝに一個の死屍がある。その死因の斷定に對して一人だけ異説をもつものがある。解剖によつてその眞相を確める外に途はない。その死屍が解剖を不可能とするのなら是非もないが、夫れは彼れ自身の妻であるのだ。眞理の闡明の爲めには他人の死體にすら無殘な刃を平氣で加へるのだ。自分の事業の成就を希ふべき妻の死體を解剖臺の上に運んで一つの現象の實質を確定するのに何の躊躇がいらう。よし、自分は妻を學術のために提供しよう。さう彼れは思つた。暫らく考へてから彼れは上の考へにもう一つの考へを附加へた。妻は自分が解剖してやる。同じ解剖するなら夫に解剖されるのを妻は滿足に思ふだらう。自分としては自分の主張を實證するには自分親ら刀を執るのが至當だ。その場合解剖臺の上にあるものは、親であらうが妻であらうが、一個の實驗物でしかないのだ。自分は凡ての機會に於て學術に忠實であらねばならぬ。
彼れは綿密にこの事をも一度考へなほした。彼れの考へにはそこに一點の非理もなかつた。しつかとさう得心が出來ると、彼れは夫れを院長に告げて許可を受けた。その晩彼れは親族兄弟の寄合つてゐる所で所存を云ひ出した。云ひ出したと云ふより宣告した。親族は色々反對したが甲斐のないのを知ると、せめては肺部丈けの解剖にしたらどうだと云つた。若し死因が粟粒結核なら他の諸機關も犯されるのだから肺部だけですますわけには行かないと彼れは云つた。夫れなら他人に頼んでして貰へと云つた。彼れは自分のするのが一番いゝんだと云つた。そんな不人情がよくも出來るものだと涙を流して口惜しがる女もゐた。彼れは妻の介錯は夫がするのが一番いゝのだと云つて動かなかつた。妻の里の親達は勿論、親族の大多數は、その場の見えばかりからでも、彼れの決心に明らさまに反對な色を見せた。學術に對する俗衆の僻見をこれほど見せつけられると、彼れは意地にも初一念を通さずには置けなかつた。而して妻は自分に歸いだ以上は自分のものだから、その處置については他人を煩はすまでもないと云ひ切つてしまつた。列坐の人々は呆れたやうに口をつぐんだ。
愛憎を盡かした人々の中に、彼れの兄だけは何處までも彼れの決心を飜へさうとした。今朝も兄はわざ/\彼れの實驗室までやつて來て、色々と話し合つてゐたのだ。
「お前は自分の生活と學術とどつちが尊いと思つてゐるんだ」
兄は扇をたゝむと、粘氣のある落着いた物言ひをして又かう論じ始めた。彼れは顯微鏡のカバーの上の埃から物惰氣に眼を兄の方に轉じた。
「僕は學術を生活してゐるんです。僕の生活は謂はゞ學術の尊さだけ尊いんですよ。……もういくら論じたつて同じぢやありませんか」
さう云つて彼れは立上つた。而して壁際のガラス張りの棚の中から、ミクロトームのメスを取り出して剃刀砥にかけ始めた。滑らかな石砥に油を滴して、その上に靜かにメスを走らせながら、彼れは刃物と石との間に起るさゝやかな音にぢつと耳をすましてゐた。手許から切先まで澄み切つた硬い鋼の光は見るものを寒く脅かした。兄は眼をそばたてゝ、例へば死體にしろ、妻の肉に加ふべき刃を磨ぎすます彼れの心を惡むやうに見えた。
「そんなものを使ふのか」
彼れは磨ぐ手をやめて、眼近くメスを見入りながら、
「解剖に使ふんぢやない、是れはプレパラートの切片を切る刃物です。慣れつてものは不思議で磨いでると音で齒の附具合が分りますよ。生物學者は物質的な仕事が多いので困る」
「俺れはこの際になつてもお前の心持ちにはどこか狂つた所があるやうに思ふがな、お前は今學術を生活するんだと云つたが、自然科學は實驗の上にのみ基礎を置くのが立場だのに、生活は實驗ぢやないものな。話があんまり抽象的になつてしまつたが、お前の妻の肉體に刃物を加へてどこか忍びない所がありはしないかい。少しでもそんな心地があつ……」
そこに小使が這入つて來て、死亡室に移してある彼れの妻の處置を如何したらいゝかと彼れに尋ねた。九時から解剖をするからすぐ用意をして置けと彼れは命じた。兄は慌てゝそれはもう少し待つてくれと云つたが、彼れは敵意に近い程な激しい態度で兄の言葉を遮りながら小使を死亡室に走らした。
兄は歎息して默つてしまつた。彼れも默つた。部屋の隅の瀬戸物の洗槽に水道の龍頭から滴る水音だけがさやかに聞えた。病院の患者や看護婦の騷がしさも、研究部にある彼れの實驗室の戸の内には押よせて來なかつた。彼れは解剖後の研究に必要な用意をするために忙しかつた。整温器にパラフィンを入れてアルコール、ランプの灯をともしたり、ヘマトキシリン、イオシン、ホルマリン、アルコホール、クロロホーム、石油ベンジンなどの小瓶を順序正しく盆の上に列べたり、〇、八ミクロの切片を切り出すやうにミクロトームを調節したり、プレパラート、グラスをアルコールに浸したりしてゐる中に、暫らく打捨てゝあつた習慣が全く元にもどつて、彼れは研究者の純粹な心持ちに這入つて行つた。彼れの前にもう妻はなかつた。興味ある患部の縱斷面や横斷面が想像によつて彼れの眼の前にまざ/\と見えるやうだつた。半ば膿化した粟粒が肺の切斷面や腹膜やに顯著に見られたら愉快だらうと彼れは思つた。先刻から考へる力を失つたやうに默つたまゝ、うつむいて、扇をつかつてゐる兄が弱々しい殉情の犧牲の如くに憐れまれた。
眞黒に古びてはゐるが極めて正確な懸時計の針が八時五十分を指した時、小使がまた現はれて解剖室の用意が出來てゐる事を報告した。彼れは一種の勇みを感じた。上衣を脱いで眞白な手術衣に手を通しながら、
「兎に角仕度が出來てしまつたから僕は行きます。人間はいつか死ぬんですからね。死んでしまへば肉體は解剖にでも利用される外には何の役にも立ちはしないんですからね。Y子なんぞは死んで夫に解剖されるんだから餘榮ありですよ。……兄さんはすぐお歸りですか。お歸りならどうか葬式の用意を……」
「俺れは立合はせて貰はう」
この兄の言葉は彼れにも意外だつた。「どうして」とその理由を聞かずにはゐられなかつた。
「お前と俺れとは感情そのものが土臺違つてしまつたんだ。假りにも縁があつて妹となつてくれたものを、お前はじめ冷やかな心で品物でも取扱ふやうに取扱ふ人達ばかりに任せて置く氣にはどうしてもなれないんだ。お前はお前で、お前の立場を守るのなら、それは俺れはもうどうとも云はないが、俺れの立場もお前は認めてくれていゝだらう」
「無論認めますがね、解剖と云ふものは慣れないと一寸我慢の出來ない程殘酷に見えますよ。それでよければいらつしやい」
さう云つて彼れは兄にも手術衣を渡した。
と彼れ自身が無造作に書いた半紙の掲示が、廊下をふきぬける朝風にそよいでゐるのを見て、二人は廊下の出口で解剖室用のスリッパに草履をはきかへた。薄暗く冷たい準備室に兄を待たして、彼れは防水布の胸あてをし、左の手にゴムの手袋をはめた。兄弟は互に顏を見合せて、互にひどく血色が惡いと思ひ合つた。
不思議な身ぶるひが彼れを襲つた、彼れはいつの間にか非常に緊張してゐた。手を擴げて眼の前にもつて來て見ると、いつになく細かく震へてゐた。意志の強い彼れはそれを不愉快に思つた。而してたしなめるやうに右手を二三度嚴しく振りまはしてから、兄と共に解剖室に這入つて行つた。
解剖臺の二つ置いてある廣やかな解剖室の白壁は眞夏の朝日の光と、青葉の射翠とで青み亙るほどに清々しく準備されてゐた。助手と見學の同僚とが六人ほど彼れの來るのを待ちかまへてゐた。あるものはのどかに煙草を燻らし、あるものは所在なげに室の中を歩きまはつてゐたが、這入つて來た彼れの姿を見ると一寸改つて挨拶した。
一體彼れは醫者に似ず滅多に笑はない口少なゝ男だつた。内科の副醫長の囘診だと云ふと、看護婦などはびり/\した。人をおこりつけるやうな事は絶えてしなかつたが、彼れは何處にも他人を潛りこませるやうな隙を持つてゐなかつた。高い額と、高く長い鼻と、せばまつた眉の下でぢつと物を見入る大きな隻眼とを持つた彼れの顏は、その日は殊更らに緊張してゐた。何處にか深い淋しさを湛へた眞劒な表情は、この晴れやかな解剖室を暗くするやうにさへ見えた。
彼れは兄に椅子を與へて置いて死屍の乘つてゐる解剖臺のそばに來た。若い二人の醫學士は煙草を窓からなげ捨てゝ、机について記録の用意をした。見學の人達もそろ/\臺のまはりに集つた。彼れは二人の助手と二人の記録者とに「今日は御苦勞を願ひました」ときつぱり挨拶して解剖臺の上に鋭い眼をやつた。死んだ妻の前に立つ彼れを思ひやつて、急にヒステリックにむせび出した二人の看護婦の泣き聲が後ろで聞えた。
無造作に死體を被つた白衣の上には小さな黒い汚點のやうに蠅が三四匹とまつてゐた。枕許には型の如く小さなカードが置いてあつた。彼れは夫れを取上げて讀んだ。
三谷Y子。二十歳。八月一日午前七時死亡。病症、乾酪性肺炎。
三谷Y子――その名は胸をぎゆつとゑぐるやうに彼れの網膜に寫つた。彼れは然し自分の感情を人に氣取れるのを厭つた。彼れはせき込む感情を、強い事實で拂ひのけるために死體から白衣を剥いで取つた。
昨日まで彼れの名を呼び續けに呼んで、死にたくないから生かしてくれ/\と悶え苦んだ彼れの妻は、悶えた甲斐も何もなく痩せさらぼへた死屍となつて、彼れの眼の下に仰臥してゐた。顏と陰部とを小さなガーゼで被うてある外は、死體にのみ特有な支那の桐油紙のやうに鈍い冷たい青黄色い皮膚が溢れるやうな朝の光線の下に曝されてゐた。永く湯をつかはなかつた爲めに足の裏から踵にかけて、痂のやうに垢がたまつてゐた。肉が落ちたので、手足の關節部は、骨瘤のやうに氣味惡く眼立つてゐた。肺癆に罹つてゐた左胸は右胸に比べると格段に小さくなつてひしやげてゐた。
見學の人達は好奇な眼をあげて彼れの顏に表はれる感情を竊かに讀まうとした。彼れの隻眼は、いつものやうに鋭く輝く外には、容易に自餘の意味を語らなかつた。彼れは冷靜な明瞭な獨逸語で死體の外貌上の報告をしはじめた。彼れの手は冷たい死體の皮膚を蠅を追ひながらあちらこちら撫でまはした。記録者はフールスキャップに忙しくペンを走らせた。其音だけが妙に際立つて聞こえた。
「メス」
やがて彼れの發したこの一言に、室内は一時小さくどよめいた。助手の一人は解剖臺に取りつけてある龍頭をひねると、水は氷柱でもつるしたやうに音もなく磁器製の解剖臺に落ちて、小さな幾條かの溝を傳つて、中央の孔から床の下に流れて行つた。一人の助手は黒塗りの滑らかな檢物臺を死體の兩脚の間に置いた。看護婦は大きな磁盆にしこたま大小のメス、鋏、鋸、楔、止血ピンセット、鉗子、持針器の類を列べたのを持つて來た。牛刀のやうな腦刀も備へられた。膿盆は死體のそここゝに幾個も配置された。人々の右往左往する間に、記録者は机を解剖臺に近く寄せて、紙を改めて次ぎの瞬間を待ちかまへた。