第一景
(六畳程の部屋。机一つと米櫃一つ置いてある。側は土間になって居る。土間には轆轤台と陶土、出来上った急須や茶碗も五つ六つ並んでいる。
部屋の方にて蓮月尼と無名の青年と対座。)
無名の青年 ――僕はとうとうこの短冊を見付けて来ました。蓮月 ――(短冊を青年から受け取って読む)――木の間よりほの見し露のうす紅葉おもひこがるゝ始めなるらん――これはいつかわたくしが京のお人に頼まれて書いて差上げた歌です。これがどうかいたしましたか。無名の青年 ――こんな歌を詠むあなたが人情を解さぬと云う筈はありません。僕はそれを発見してうれしいのです。蓮月 ――わたくしは人情を解さぬとあなたに一度も云った覚えはありません。人一倍涙もろい性質に自分でも困っております。無名の青年 ――人情を解しながら涙もろくて、而も僕の熱情を容れて下さらないのは矢張り僕がお嫌いだからなのですね。蓮月 ――めっそうな。あなたを好きの嫌いのという贅沢ではありません。わたくしはもう、そういう世界から見離された人間です。正直に申せばそれ以上の世界にひかれ出された人間です。無名の青年 ――愛のまごころより以上の世界があるでしょうか?蓮月 ――あるか無いかより、どうしてもあってもらわなくてはならなくなったわたくしの心持ちを少しお話いたしましょう。わたくしとて夫婦生活を体験し、子供も二三人持った女です。わたくし等夫婦は媒酌で結婚したものの、その間には愛が完全に生れ、子供も随分可愛く御座いました。愛の生活としては可成り幸福なものでございました。それを一時にわたくしは持って行かれてしまいました。夫も子供もあっけなく死んで行って仕舞いました。これを宿命と解さないでどう諦めましょう。時には諦めかねて、世間の人情どおり、死んで夫や子供の跡を追おうと決心したことも何度あったか知れません。然しそれが決行できなかったのは一人の親の為でした。わたくしには一人の老いた父があり、それを養う為にしばらく死を思い止まらねばなりませんでした。無名の青年 ――くわしくは今が始めてですが、そういうあなたの御事情は前から大分知って居ました――で、あなたは世の中は無常だから、愛までも信じられなくなったといわれるのですか?蓮月 ――一番幸福な絶頂から一番不幸な谷底へ蹴落された人間に、それを敢て繰り返す勇気も精もまだ残って居るとあなたはお思いですか?無名の青年 ――僕の愛は死や無常では覆えされない積りです。僕の愛は永遠にあなたを活かし切ります。蓮月 ――それはまだお若いあなた方の仰る事です。わたくしとてあなた方の年頃にはそうも云い、そうと思い込んで居りました。然しいよいよ事実に遇って――身辺に触れ合うあたたかい掌が無くなり、くしけずって遣る小さい頭の髪の毛が目前になくなった時、どうして、愛の、永遠のと呑気な事がいって居られましょう。実際にあれ等はみな無くなって仕舞うのです。そして残された切ない心だけが、わたくしを削り虐みます。それでこんなにも愛するものを見捨てて行った死者はあんまりに身勝手だと、あまりの絶望に死者に対して変態な恨み方をしたことさえございます。無名の青年 ――…………。蓮月 ――これまでお聞きになって、まだあなたはわたくしを愛に繋ごうと云うお気持になれますか?無名の青年 ――それではあなたは絶望の儘、ただ一人の親のため空骸のままで生きて行こうとして居られるのですか。何と云う酷たらしい生き方だろう。それを伺ってはなおさら力になって上げたいと思います。蓮月 ――ほほほ、御同情にはお礼を申します。けれど人間というものは絶望の儘、けっして生きて行けるものでは御座いません。たとえ絶望の人でもこの絶望の上に反抗的な意力を発見しその力で堪えて生きて行くものです。無名の青年 ――それではあなたはただ一人のおとうさまの為に生きて居られるのですか。おとうさまもそれほどあなたを愛して居られますか。蓮月 ――父もわたくしを愛して呉れて居りますとも。しかし、これとても浮世の無情、有為天変は免れません。何れはうたかたのはかないものと思って居ります。無名の青年 ――では何が力です。何を希望にあなたは生て行かれるのです。蓮月 ――わたくしは不幸のおかげで、より以上の世界を覗かせて頂きました。闇の奥を突き破って明るい世界があるのを認めさして頂きました。もしわたくしがその世界にすっかり入り切るならば、特に愛人とか親とかの差別はなく、わたくしは万人万物と不壊の生命で手をつなぎ合えるのです。死ぬと云ったとて永遠に生き切る事が出来るのです。こういう世界を前方に置くものが、どうして悦びに躍って道を急がずに居られましょう。無名の青年 ――それが嘘であろうが、真当であろうが、あなたの行く処へは僕も必ず行って見せます。教えて下さい。その世界へ行く道を。蓮月 ――その道とはすべてのものに妨げのない道です。現世の執着の一つであるあなたの愛によって、わたくしを妨げず、そして因より備わって居るその世界の月の光を曇らせまいと心がける処に、はっきりとその道は開かれるのです。無名の青年 ――それはあまり非人情に消極的に歩まなければならない道ではありませんか。蓮月 ――(手を挙げて青年の言葉を押しとどめ)理屈でもって実行を妨げないこと。
(蓮月、ふと気がついて机の傍に落ちて居る短冊を拾い)
蓮月 ――これはむかし詠み捨てた歌を望む人があって書いたものですが、これをあなたに差上げますから、あなたの京から持って来られた短冊と代える事にして下さい。
(蓮月手に持った短冊を青年に与え、青年の持ちたる短冊をうけとり破り捨てる。)
無名の青年 ――ああ!蓮月 ――わたくしは今日の生活の務めをしなくてはなりませんから、これで失礼さして下さい。あなたも早く帰って勉強をなさって下さい。
(蓮月、土間に降り轆轤台に向う。青年せん方なく立上り庭へ降り、柴折戸より去らんとして、今蓮月より与えられたる短冊を読む。)
無名の青年 ――いつの間に袖のしづくとなりにけむわけ来し法の道しばの露。
(青年、蓮月を顧る。蓮月、眼より涙の溢れんとするを、そのままに専心抹茶の茶椀を造っている。)