Chapter 1 of 1

Chapter 1

道であった、顔見知りの人は、みすぼらしい正吉の母にむかって、

「よく、女手ひとつで、むすこさんを、これまでになさった。」と、いって、うしろについてくる正吉を見ながら、正吉の母をほめるのでした。

しかし、心から感心するように見せても、じつは母子のしがない暮らしを、あわれむというふうが見えるので、正吉は子供ながら、それを感じていましたが、母は、そういって、なぐさめられると、気が弱くなっているせいか、すぐなみだぐんで、

「なにしろ、三つのときから、一人で育て、やっと来年は小学校を、卒業するまでにしました。」と、うったえるように答えたのでした。

あいては、もっと立ちいって、二人の生活を知ろうとするのを、正吉は母のたもとをひっぱって、

「さあ、早くいこうよ。」と、その場から、はなれたのでした。

正吉は、そのときだまっていたけれど、自分の母を、きのどくに思いました。そして、母のためなら、どんな困難もいとわないと、心にちかったのです。

「来年は、ぼく、おじさんの家へいくのだ。そうしたら、おかあさんは、一人になって、さびしいだろうね。」と、正吉はいうのでした。

「いいえ、さびしいものかね。おかあさんは、はたらいて、はたらいて、そんなことわすれてしまいます。ただおまえが、早く大きくなって、ひとり立ちするのを、たのしみとしますよ。」と、母は、ねっしんに針をもつ手をはこびながら、答えるのでした。

正吉が学校からかえると、近所の武夫くんとさそいあって、原っぱへあそびにいき、草の上にねころんでいました。

「だれでも、ほかが、まねのできない技術をもてば、えらくなれると、先生がいったね。」と、正吉は学校で聞いてきた話を、思いだしました。

「ああ、そうだよ。マラソン選手となって、オリンピックで名をあげるのも、図画がじょうずになって、名高い画家となるのも、自分一人だけの名誉でなく、やはり国の名誉だと、先生がいわれたよ。それも、自信と努力することが、たいせつなんだって。」と、武夫は答えました。

「ぼく、徒競走に自信があるんだがな。」と、正吉は目をかがやかしました。

「そうだ、正ちゃんは、いつも徒競走では、一番だから、練習して、マラソン選手になるといいよ。」と、武夫は手をたたいて、正吉の思いつきに賛成しました。

正吉はきゅうに、からだをおこして、空をあおぎながら、しんけんに考えこんだのです。そして、自分が、はなやかな世界的の選手となった日のゆめを、目にえがいたのです。

「なんで、そんなことを、きゅうにいいだしたの。」と、武夫はふしぎに思って、聞きました。

「もし、そうなったら、ぼくのおかあさんが、どんなによろこぶだろうと思ったのさ。だれでも得手というものがあるから、それをのばせば、成功すると先生がいったので、ぼく、元気が出て、うれしくなったよ。」と正吉は、すなおに心のうちを、友だちにうちあけたのでした。

武夫もいつになく、くつろいだ気もちになって、正吉をよろこばせようと、

「正ちゃんはいい子だと、うちのおとうさんも、おかあさんも、いっていたよ。正ちゃんのおかあさんは、いまはくるしくても、正ちゃんが大きくなれば、きっと楽をされるだろう。」

こうして、武夫が両親のうわさしたことをつげようとするのを、正吉はうちけすようにして、

「ぼくのうちは、貧乏だし、なかなか上の学校へいかれない。来年は町のおじさんの店へ奉公して、夜学で勉強をするつもりだ。武ちゃんは、いいおとうさんがあって、安心して勉強ができるから、きっと、えらくなれるだろう。ぼくは、自分の力だけで、やらなければならないからね。」と、正吉は、日ぐれがたの空に、わきあがる雲を、じっと見ていました。

いま、西の空には、炎の流れるように、赤い雲が、うずをまいていました。そして、ほかにも花びらを散らすように、おなじ色の雲が、ちぎれちぎれにとんでいました。それが、いつしか、一かたまりとなって、たてがみをなびかせた金色のししの姿となったり、高くかけあがる神馬の形をつくったりして、はるかの青々とした地平線を目ざして、うごいていたのでした。

正吉はしばらく、その雲のゆくえを見まもるうちに、空想は、町の文房具を売る店へと、とんでいました。ちょうど、金色の雲が、たれさがったあたりに、その町はあるのでした。空気とガラスの見さかいが、つかないほど、よくふき清められたまどの上のたなに、青くぬられた飛行機が、いまにもとび立ちそうなかっこうで、おいてあり、その下の台には、まっかな洋服姿のおどり子の人形が、片方の足を上げて立っていました。それは、野原にさく赤いゆりよりも、はなやかであったし、また川ふちでかおる、のばらの花よりも、目にしみるまぶしさでありました。

「武ちゃん、きみは、町の文房具屋にあるおもちゃを見た?」と、正吉は、そのときぼんやりとして、ならんでいた武夫に聞きました。

「どんなおもちゃだったかな。バットとグローブは、知っているけど。」と、武夫は、頭をかしげていました。

「青い飛行機と、赤いお人形さんだよ。」と、正吉は友だちを見て、たずねました。

「知らなかったな。」と、武夫はてんで、そんなものに気がつかなかったようです。正吉は、やっと安心しました。もし、武夫がそれをほしいと思えば、いつでも自分のものに、することができたからでした。

しばらくして、こんどは武夫のほうから、

「正ちゃん、そんなに、いいおもちゃだったの。」と、聞きかえしました。正吉はそれに答えず、

「ねえ武ちゃん、あの金色の雲をごらん。きれいだろう。そして、あちらの空をごらん。あの青い色もきれいだね。ぼく、いままで見た、美しいものが、みんな目にうかんでくるんだよ。」と、正吉は、とび立つような、自分の心を、おさえきれなかったのです。

つぎの日の昼間、また二人は、この原っぱへきました。武夫がわざと三輪車で走るのを、正吉はそれと競走しようとして、素足で走りました。いまにマラソン選手になる自信をもとうとして、あやまって、足の指をいためました。

晩になると、その指がだんだんいたみだして、こらえられなくなったのでした。

「どんなに、なっているの。ちょっと見せな。」と、母にいわれると、正吉の顔は、たちまち、くらくなりました。

「おや、えらく、はれているでないか。」と、母はびっくりしました。こうした母のおどろき声は、正吉の心を、するどく、むちうって、しばらく足のいたみも、わすれたのでした。

ふだんから、母は正吉にむかって、おとうさんがいないのだから、わたしは、おまえ一人をたよりに生きていると、いわれたのが思いだされて、後悔で、胸が、はりさけそうになりました。

「あっ、おかあさん、いたいから、さわらんでおくれ。」と、足をひっこめようとすると、母は正吉のひざがしらに、ふれてみて、

「たいへんな熱だね。今夜、こうしておいて、さしつかえないものだろうか。」と、うろたえるのでした。

正吉は母があわれになって、すまぬことをしたと思いました。

「あすになれば、なおるよ。」と、いって、がまんしながら、ねどこにはいったのでした。

医者のもとへいったのは、それから二、三日あとのことでした。

「いままで、おじさんのところへ、お金のことで、たのみにいったおぼえはないのだが、こんどばかりは、そんなことを、いっていられないのでね。」と、道すがら母に聞かされたことばは、正吉をせめるのでした。

正吉は、医者が自分の足を見て、なんというだろうか、このうえとも、自分たちをくるしめることに、なりはしないだろうかと、診察室へはいると、なんとなく不安に、足がふるえたのでした。

「なぜ、もっと早く、見せにこなかったのです。」と、医者は、まゆをひそめながらいいました。

「注射をしていただいたら、なおりませんでしょうか。」と、母はわが子の、身の上を気づかいながら聞くのでした。

「手おくれなので、注射がきかなければ、手術をするのですな。そうすると、二、三日入院しなければなりません。」と、医者はすこしの思いやりすらなく、ひややかに答えました。

医者のところを出ると、

「家へかえって、この水薬で、足のいたむところを、ひやしておいで。」と、母は正吉とわかれました。正吉は、母のいくさきを、聞かなかったけれど、たぶん、おじさんの家へいったのだろうと思いました。

やがて、日がくれてしまい、しばらくたって、母はかえってきました。

「世間で、金もちといわれても、たのんでいけば、金がないというものです。はじめてだし、こんどだけは用だてするけれど、つぎからは、おことわりだと、きっぱりいいました。おじさんだから、とくべつせわしてくれると思っては、いけません。たよりとなるものは、ただ、自分の力だけです。わたしは、これからも、せいいっぱいはたらくことにします。」と、母はいいました。

正吉は、なんとも答えられず、あついなみだが、こみあげるばかりでした。

二、三日、顔をあわさなかった武夫は、学校からかえると、あそびにきました。

「きょう、先生が正吉くんは、どうして休んでいるのだと聞いたから、ぼくの三輪車と競走して、足をいためたといったら、なんでそんなばかのまねをするのかといったよ。だから、ぼくは正ちゃんは、マラソン選手になるので、三輪車なんかに負けられないのだと話したら、先生は、人間の足と機械と、いっしょになるかと笑った。」と、学校の話を告げました。

「ぼく、つまらんことをした。」と、正吉は、後悔しました。

「もっと、自分をたいせつにしなければ、いい選手なんかになれないと、先生もいっていたよ。」と、武夫はありのままをつげました。

「お医者さんに注射してもらったけれど、いたみがとれなければ、入院して手術するんだって、こまってしまったよ。」と、正吉が力なくいうと、

「とんだめにあったね。そうそう、文房具屋へグローブを買いにいくと、店のガラスが、めちゃめちゃにこわれているので、おどろいた。聞くと、トラックがとびこんで、だいじな品物をこわしたと、店のおばさんがいっていたよ。」と、武夫は、意外なことを知らせました。

正吉は、ゆめにさえ見た、あの青い飛行機や、赤いおどり子の人形は、どうなったろうと聞くと、武ちゃんは、見えなかったから、こわれたのかもしれないというのでした。

「それで、きみのほしいと思ったグローブはあったの。」と、正吉は聞きました。

「とりこんでいるときだから、まけておくといって、安くしてくれたよ。」と、武夫はよろこびました。

「どうして、トラックが、店へとびこんだのだろうね。」

「運転手が、お酒に酔っていたって、おばさんがいった。」と、武夫はいいながら、このとき、先生が正吉にいった言葉を思い出したのか、

「やはり、酔ったりしては、運転手になれないんだね。」と、つけくわえました。

正吉は下を向いて、だまっていました。足のいたみは、そのあくる日になっても、とれませんでした。母親は、子供のようすから、すぐにでも手術を決心したらしく、家の中をかたづけはじめたのです。

そのとき、ちょうど門口へ乳飲み子をおぶった女こじきが立って、無心をねがったのでした。正吉の母は女こじきを見て、子もちだと知ると、気ぜわしい中を、ふところからさいふをだして、金を手渡してやりました。女こじきは、心からありがたく思ったらしく、いくたびも頭をさげていましたが、そばで、痛い痛いと泣き声でうったえている正吉の姿を見ると、おじおじしながら、

「どうなされたので、ございますか。」と、聞いたのでした。

母親は、こういってやさしく聞かれたので、さすがに当惑しているときであり、気も弱くなっていたので、こちらも、ありのままのことを――子供が走って、あそんでいるうち、足の指をいためて、注射をしてもらったけれど、ききめがなく、これから、いやがるのをつれて、手術をうけに医者のところへ出かけるのだ――と、ほんとうのことを話したのでした。女こじきは、そのことを人事と思わず、耳をかたむけて、聞いていましたが、

「それなら、いい薬があります。このへんにもある草です。私のいうことを信じて、ためしてごらんなさい。私ども金のないものは、神さまの教えてくだされたもので、どんな病もなおします。その草は、秋になると、黄色な花の咲く厚い葉です。その葉を火にあぶり、やわらかにして、傷口にはります。痛みはじきとれて、四、五日もすると、うみが出てなおります。」と、ていねいに教えました。

母親と正吉は、これを聞いて、一すじの光が、急に、やみの中へさしこんできたような感じがしました。

「その草というのは。」と、母親は、すぐにも知りたかったのです。

「ちょっと、さがしてきます。」と、女こじきは、門から出ていきました。

親子は、そのうしろ姿を、とうとく思って、おがまんばかりに見おくったのです。そして、いくたびも、母親は外まで出て、女こじきがもどるのをまっていました。

あまりおそいので、その葉が見つからぬので、そのままどこへか立ちさりはしなかったかと思い、うたがい、なやんだりしたが、そのうち女こじきは、手に青い葉をにぎって、母親の前へあらわれました。

「まあ、ありましたかね。」と、とびつくようにして、母親はむかえたのです。女こじきがつくってくれた薬をつけると、ふしぎに痛みがうすらいで、その晩、親子は、はじめて、気もちよくねむりました。

正吉は夢の中で、あのおじおじしたようすで、いたわりながら、薬をつけてくれた女こじきを思い出して、いつまでも、その姿が、目からきえずにのこっていました。

それから、二、三日もすると、足のはれがひいて、きず口に、白いうみをもちました。母はこれを見て、おどろき、

「正吉や、もうだいじょうぶだよ。草の名を、よく聞いておくのだったね。あの女こじきに、お礼をいわなければなりません。いつもは、見なかった女ですのに、あの日どうしてきましたか。こんどきたら、おまえの小さいときの着物がありますから、赤んぼにやりたいと思います。気をつけていて、見たら家へつれてきておくれ。」と、いつになく母は、きげんがよかったのです。

正吉は足がよくなったのを、わがことより、よろこんでくれる母を見て、真にその恩を、わすれてはならぬと思いました。

いよいよ明日から、ふだんどおり、武夫くんと学校へいけるようになった、その前の日のことでした。

「正吉や、なにかおまえに、ほしいものがあるなら、おいい。」と、母は、つくえの前にすわっている正吉に、たずねました。

これを聞くと、たちまち、小さな胸へ、よろこびが泉のように、こみあげました。

「青い飛行機と、赤い人形と、どちらにしようかな。」と、耳のあたりまで赤くしながら、正吉は答えたのです。

「それは、なければならぬ品ですか。」と、母は聞きました。

「おかあさん、それより、早くおじさんに、お金をかえしたほうがいいよ。」と、正吉はいいました。

「ああ、その金は、きっと、私がそのうち、もっていきますよ。これは、おまえがつかわずにすんだので、あげますから、すきなものを、お買いなさい。」と、母はひきだしから、いくらかの金をとって、正吉にあたえたのでした。

いま、青い、飛行機でも、赤いおどり子の人形でも、正吉のすきなものを、買うことができるのでした。しかし、もう、それを買う気が、なくなってしまいました。

「どんな色でも、そろっている上等のクレヨンを、買おう。」と、正吉はすぐに、心をきめたのでした。

晩になると、原っぱへいって、草の上に、こしをおろしました。そこここに、いつものように、赤い花がさき、青い空は、はてなくひろがって、地平線につづき、夏を思わせる金色の雲が、西の方からわき出て、音なく、頭の上を、うごいていくのでした。

その雲には、おかあさんがすわって、仕事をしていました。また、ほかの一つの雲には、乳飲み子をおぶった女こじきが、のっていました。二つの雲は、たがいに近づき、また、あるときは、かさなり合うようになったが、そのうち、はなればなれとなって、いつしか、青い空へ、すいこまれるように、きえてしまいました。

●図書カード

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