Chapter 1 of 7

「親分。お早うございます」

「火事場の歸りかえ。八」

「へエ――」

「竈の中から飛出したやうだぜ」

錢形平次――江戸開府以來と言はれた捕物の名人――と、子分の逸足、ガラツ八で通る八五郎が、鎌倉河岸でハタと顏を合せました。まだ卯刻半過ぎ、火事場歸りの人足が漸く疎らになつて、石垣の上は、白々と朝霜が殘つて居る頃です。

「ところで何處へ行きなさるんで? 親分」

「三村屋も放け火だつてえぢやないか」

「へエ。それで實は、親分をお迎へに行くところでしたよ」

「酒屋ばかり選つて、立て續けに三軒も燒くのは穩やかぢやないネ」

「何處の餡コロ餅屋だか知らないが、野暮な火惡戯をしたもので――」

「馬鹿だな。そんな事を言ふと、餅屋に毆られるぜ」

「へエ――」

ガラツ八は埃りと煙で汚れた、長い顎をしやくつて見せました。

今年になつてから、ほんの半月ばかりの間に、神田中だけでも三ヶ所の放け火があつた――最初の一つは、正月八日の夜半過ぎ、濱町の大黒屋で、これは夜廻りが見つけてボヤですましたが、二度目のは、中四日置いて正月の十三日、外神田松永町の小熊屋で、これは、着のみ着のままで飛出した程の丸燒け、三度目は正月十八日、――正確に言へば十九日の曉方、鎌倉町の三村屋が丸燒け、その上小僧が一人燒け死んで、女房のお久は、二階から飛降りて大怪我をしてしまひました。

「三軒揃つて酒屋は變ぢやありませんか。その上三軒共薪と炭を商ひ、三軒共夜中過ぎの放け火だ」

「フム」

「それから、三の日と八の日を選つたのもをかしいぢやありませんか。御縁日か稽古日ぢやあるまいし」

「面白いな、八。他に氣のついたことはないか」

「そんな事をするのは、酒嫌ひな奴でせう、どうせ」

「ハツハツハツ。お前の智慧はそんなところへ落着くだらうと思つたよ――兎に角行つて見よう。笑ひごとぢやない。――お前も來るか」

「へエ――」

ガラツ八は疲れも忘れた樣子で、忠實な犬のやうに從ひました。

三村屋の燒け跡は、見る眼も慘憺たる有樣でした。まだ板圍ひも出來ず、灰も掻かず、ブスブス燻る中に、町内の手傳ひと、火事見舞と、燒け跡を濕してゐる鳶の者とがごつた返して居ります。

「親分、亭主の安右衞門が來ましたよ」

ガラツ八が袖を引かなかつたら、平次もうつかり見遁したことでせう。汗と埃りと、煤と泥と、その上血と涙とに汚れた安右衞門の顏は、まことに、日頃の寛濶な旦那振りなどは、藥にしたくも殘つては居なかつたのです。

「三村屋さん、災難だつたね」

「お、親分さん――御覽の通り、私も三十年の働きが無駄になりました。明日からは乞食にでもなる外はありません」

「まア、そんなに力を落したものぢやない。町内でも、親類方でも、まさか捨てゝ置く筈もないから」

「有難う御座います。が親分さん、これが仲間や他人なら、痩我慢も申しますが、親分の前で、體裁の良いことを言つても、何にもなりません――どんなに齒軋りしても、三村屋は今日限りで御座います。――親分さん、お願ひでございます。この敵を取つて下さい。可哀想に、小僧の竹松は、逃げ場を失つて死んでしまひました」

三村屋安右衞門は、五十男の體面も忘れて、聲もなく泣いて居りました。歪んだ顏に嗚咽が走つて手を擧げて指さす、少しばかりの空地の隅には、筵を掛けたまゝの、竹松の死體が轉がつて居るではありませんか。

火災保険――といふものゝない時代。地所や家作や、現金を持たぬ者は、燒け出された日から、全生活を覆へされて、ドン底に顛落したのは、間々あつた例です。

「まア、此方へ來なさるが宜い――話を聽いたら、敵の討ちやうもあるだらう」

平次は慰め乍ら、打ちひしがれた安右衞門を、物蔭に呼び入れました。

「何なりと訊いて下さい、親分さん」

「第一に――」

平次は目顏でガラツ八を火事場の跡へ追やり乍ら續けます。

「――一番先に氣のついたのは誰だえ」

「私で御座いました。飛出さうと思ひましたが、縁側の雨戸はなか/\開きません。後で氣がつくと外から釘付けにしてあつたやうで御座います。お勝手の方へ廻つて見ると、其處はもう一面の火で、店もどん/\燃えて居る樣子ですから、これはいけないと思つて、二階へ駈上がり、女房や番頭の伊助と一緒に、庇へ飛出し、其處から飛降りました」

「外の者は?」

「手代の文治は火の中をくゞつて出たさうで、ほんの少し火傷を負ひました。――娘のお町は、危ふく燒け死ぬところを、お隣の家主の太七さんのところの惣領――周助さんに、煙の中から助け出して頂きました」

「小僧さんは?」

「可哀想なことをしました。銘々身一つで逃げるのが精一杯で、竹松が逃げ後れたことに氣がつかなかつたのです」

「フーム」

「それから、親分さん。これは何かお役に立つかもわかりませんが――、火の出たのは、確かに二ヶ所で御座います。裏の薪や炭を入れて置く物置と、炭俵を積んだ店と一緒に燃え上がりました。――これはもう間違ひございません。現に、右左の羽目が、あの通り燃え殘つて居るのでも解ります。早く驅け付けて下すつた方が、みんなさう申して居ります。――こんな念入りな放け火は見たことがない――と」

「成程。念入りな放け火だな」

平次は靜かにくり返しました。

「誰が一體、こんな目に私を逢はせたのでせう? 親分さん」

「怨みを受けるやうな覺えはないだらうか」

平次はさう言ひ乍ら、『お座なり』を言つてるやうな、極りの惡さを感じました。

「何んとも申されませんが、私の口からは申上げ兼ねます」

「フーム」

「兎に角、私に怨みがあつての仕業なら、相手はさぞ堪能したことでございませう。大きく構へても問屋筋の借が相當御座います。その上女房の怪我やら、小僧の葬ひやら――」

明日の日が何うなる。三村屋安右衞門の顏には、絶望の色が濃い蔭を翳ります。

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