一 急病
雲の峰は崩れて遠山の麓に靄薄く、見ゆる限りの野も山も海も夕陽の茜に染みて、遠近の森の梢に並ぶ夥多寺院の甍は眩く輝きぬ。処は相州東鎌倉雪の下村……番地の家は、昔何某とかやいえりし大名邸の旧跡なるを、今は赤城得三が住家とせり。
門札を見て、「フム此家だな。と門前に佇みたるは、倉瀬泰助という当時屈指の探偵なり。色白く眼清しく、左の頬に三日月形の古創あり。こは去年の春有名なる大捕物をせし折、鋭き小刀にて傷けられし名残なり。探偵の身にしては、賞牌ともいいつべき名誉の創痕なれど、衆に知らるる目標となりて、職務上不便を感ずること尠からざる由を喞てども、巧なる化粧にて塗抹すを常とせり。
倉瀬は鋭き眼にて、ずらりとこの家を見廻し、「ははあ、これは大分古い建物だ。まるで画に描いた相馬の古御所というやつだ。なるほど不思議がありそうだ。今に見ろ、一番正体を現してやるから。と何やら意味ありげに眩きけり。
さて泰助が東京よりこの鎌倉に来りたるは、左のごとき仔細のありてなり。
今朝東京なる本郷病院へ、呼吸も絶々に駈込みて、玄関に着くとそのまま、打倒れて絶息したる男あり。年は二十二三にして、扮装は好からず、容貌いたく憔れたり。検死の医師の診察せるに、こは全く病気のために死したるにあらで、何にかあるらん劇しき毒に中りたるなりとありけるにぞ、棄置き難しと警官がとりあえず招寄せたる探偵はこの泰助なり。
泰助はまず卒倒者の身体を検して、袂の中より一葉の写真を探り出だしぬ。手に取り見れば、年の頃二十歳ばかりなる美麗き婦人の半身像にて、その愛々しき口許は、写真ながら言葉を出ださんばかりなり。泰助は莞爾として打頷き、「犯罪の原因と探偵の秘密は婦人だという格言がある、何、訳はありません。近い内にきっと罪人を出しましょう。と事も無げに謂う顔を警部は見遣りて、「君、鰒でも食って死よったのかも知れんが。何も毒殺されたという証拠は無いではないか。泰助は死骸の顔を指さして、「御覧なさい。人品が好くって、痩っこけて、心配のありそうな、身分のある人が落魄たらしい、こういう顔色の男には、得て奇妙な履歴があるものです。と謂いつつ、手にせる写真を打返して、頻りに視めていたりけり。先刻より死骸の胸に手を載せて、一心に容体を伺いいたる医師は、この時人々を見返かえりて、「どうやら幽に脈が通う様です。こっちの者になるかも知れません。静にしておかなければ不可せんから、貴下方は他室へお引取下さい。警部は巡査を引連れて、静にこの室を立去りぬ。
泰助は一人残りて、死人の呼吸を吹返さんとする間際には、秘密を唸り出す事もやあらんと待構うれば、医師の見込みは過たず、ややありて死骸は少しずつの呼吸を始め、やがて幽に眼を開き、糸よりもなお声細く、「ああ、これが現世の見納かなあ。得たりと医師は膝立直して、水薬を猪口に移し、「さあこれをお飲みなさい。と病人の口の端に持行けば、面を背けて飲まんとせず。手をもて力無げに振払い、「汝、毒薬だな。と眼をりぬ。これを聞きたる泰助は、(来たな)と腹に思うなるべし。
医師は声を和げて、「毒じゃない、私は医師です。早くお飲みなさい。という顔をまず屹と視て、やがて四辺を見廻しつ、泰助に眼を注ぎて、「あれは誰方。泰助は近く寄りて、「探偵吏です。「ええ、と病人は力を得たる風情にて、「そうして御姓名は。「僕は倉瀬泰助。と名乗るを聞きて病人は嬉しげに倉瀬の手を握り、「貴下が、貴下があの名高い……倉瀬様。ああ嬉しや、私は本望が協った。貴下に逢えば死でも可い。と握りたる手に力を籠めぬ。何やらん仔細あるべしと、泰助は深切に、「それはどういう次第だね。「はい、お聞き下さいまし、と言わんとするを医師は制して、「物を言ったり、配慮をしては、身体のために好くない。と諭せども病人は頭を掉りて、「悪僕、――八蔵奴に毒を飲まされましたから、私はどうしても助りません。「何、八蔵が毒を。……と詰寄る泰助の袂を曳きて、医師は不興気に、「これさ、物を言わしちゃ悪いというのに。「僕は探偵の職掌だ。問わなければならない。「私は医師の義務だから、止めなければなりませぬ。と争えば病人は、「御深切は難有う存じますが、とても私は助りませんのですから、どうぞ思ってることを言わして下さいまし。明日まで生延びて言わずに死ぬよりは、今お話し申してここで死ぬ方が勝手でございます。と思い詰めてはなかなかに、動くべくも見えざりければ、探偵は医師に向いて、「是非が無い。ああいうのですから、病人の意にお任せなさい。病人はまた、「そうして他の人に聞かしとうございませんから、恐入りますが先生はどうぞあちらへ。……とありければ、医師は本意無げに室の外に立出でけり。