一
真夏――雨の日
ある海岸の旅館――海を見晴らせる部屋
夫 (腹這ひになり、泳ぎの真似をしてゐる)妻 (絵葉書を出す先を考へてゐる)女中 (はひつて来る)夫 (泳ぎの真似をやめて、新聞を読んでゐる風をする)女中 ほんたうに毎日お天気がわるくつて、御退屈でございませう。妻 ええ、でも、海へは何時でもはひれるんだから、かうして、静かな処で、雨の音を聴いてゐるのもいいわ。どうせ避暑に来たんだから、涼しいのが何よりよ。女中 それやもう、お涼しいことは、なんて申しましても、お天気の日よりはね。これで、海岸と申しましても、日が照りますと、なかなか、ぢつとしてはゐられないんでございますよ。妻 さうでせうね、でも、かういふ風だと、お客さまも少いでせう。女中 はあ、もう、これで、ぼつぼつお引上げになる方もありますんですよ。東京の方も、お涼しいさうでございますね、昨今は……。妻 そんなことはないでせう。あたしたちの来た日なんかは、少し曇つてたけれど、随分蒸し暑かつたわ。早くどつかへ行きたいつて、忙しいところを逃げ出して来たんですもの。女中 さうでございますかね。昨晩、こちらの番頭さんが東京へ参りましたんですよ。一寸、用がございましたもんですからね。その番頭さんから、今朝、電話で、東京も昨晩から大雨で、浴衣一枚では寒いくらゐだつて申して参りましたんですよ。夫 おい、君、東京の話はよしてくれ。折角、仕事の事を忘れて、二三日ゆつくり頭を休めに来たんだから……。女中 おや、とんだ失礼を……。何か御用はございませんか。夫 あつたら呼ぶから、まあ、君は引下つてくれ。妻 なんですよ、あなたは……そんな無愛想なことをおつしやつて……。女中 どうも、失礼いたしました。(出で去る)妻 およしなさいよ、そんなに八ツ当りをなさるのは……。いいぢやないの、雨が降つてたつて……泳いでらつしやいよ、そんなに泳ぎたければ……。夫 雨が降つてても泳げ……? 人が見たら気違ひだつて云ふぜ。妻 畳の上で泳いでる方がよつぽど気違ひだわ。夫 いつそ、東京へ帰らうか。萎 もう一日ゐてみませうよ。なんだか、向うの空が明るくなつて来たやうだわ。若しかしたら、明日はお天気よ。夫 ――東京は随分涼しいさうね。こちらは毎日暑くつて、海へ一度もはひりませんつて、さう、書け、端書に。妻 あたし、百合子さんに、かう書いたの。――東京はさぞお暑いことでせう。こちらは、朝夕の散歩に羽織がいるくらゐにて……。夫 朝夕の散歩……?妻 まあ、聴いていらつしやい。――羽織がいるくらゐにて、日中は、海にはひり通しですから暑さ知らず……。夫 やれやれ……。妻 二三日の間に、恥かしいほど黒くなりました。夫 おい。妻 黙つてらつしやい。――今日あたり、船で沖へ出てみようかと相談をしてゐるところです。夫 凄いな。そこにある端書、みんな、おなじ文句か。妻 大同小異よ。夫 だれだれへ出すの。妻 これは百合子さんでせう。それから、これが、母さん。これが、お孝ちやん。これが、お隣の奥さん。これが、裏のお神さん……。夫 おれは幸にしてお前と一緒にゐるから、さういふ端書を受け取らずに済むわけだね。全く、避暑に行く女を友に持つ勿れだね。おや、ほんとに明るくなつて来たぜ。妻 小止みになつて来たわ。うれしい。夫 これ、なんていふ泳ぎか知つてるか。妻 蛙泳ぎでせう。夫 よし、さうだ。これは……。妻 それで、やつぱり、泳ぎなの。夫 泳ぎさ。水府流だ。これが、抜手……。妻 あたしには、どれを教へて下さるの。夫 まあ、蛙だね。これが一番楽で、やさしい。一寸、此処でやつてごらん。妻 いやよ、こんなとこぢや……。夫 稽古をするのにや、此処の方がいいんだぜ。妻 いや。夫 可笑しな奴だな。お前は一度も海へはひつたことはないつて云つたね。妻 ええ。夫 怖がつちや駄目だよ。水に親しむことが一番大事だ。泳ぐ泳がないは別として、波にからだを浮かす時の気持は、これや、一寸、類がないぜ。強ひて類を求めれば……。さうさな、おれたちがはじめて恋を語つた日の、あの夢心地……。妻 キザなことは云はないで下さい。夫 どうしてキザなことだ。お前は、なんでも、それだからいけないんだ。物事を散文的にしか考へない。なるほど、われわれは、平生、無味乾燥な生活をしてゐる。おれは朝から晩まで、紙とインキと算盤の中に頭を突つ込み、お前は、朝から晩まで、綻びと七輪の間を往復してゐるのだ。おれたちの間に、もう、夢といふものはなくなつてゐた。いや、夢どころぢやない。おれたちは、もう、自分自身の姿さへ見失つてゐたのだ。妻 ……。夫 たまたま得た僅かの金と、僅かの暇とが、おれたちを、今、あれを見ろ、あの海のやうに、限りなく広い希望の前に立たせてゐるのだ。おい、聴いてるか。妻 ……。夫 おれたちは、今まで、これほど太陽に憧れた事があるか、近頃、おれが、これほど物に執着をもつたことがあるか。お前も女だ。おれの心の中に、恐らく永遠に消えようとしてゐた情熱が、今、再び、燃え上りつつあるのを感じないのか。え、感じないのか。妻 ……。(ちらと夫の方を見る)夫 どうして、そんなに不思議さうな顔をしておれを見るのだ。おれは、三日この方降り続く雨の為めに、気が狂つたのではない。
卓上電話の呼鈴が鳴る。
夫 (平気で)おれは、電話などに用はない。お前の、あの若々しい……。
呼鈴が、更に、けたたましく鳴り続ける。
夫 ええい、やかましい。(受話機を取り上げ)もし、もし、なんの用ですか。ええ、さうです。え、東京から……。東京の誰から……? 早くつないでくれ給へ。あ、もし、もし、さうです。ああ、君か、……。なんだ、どうした。え、うん、なあに……そんなでもないさ。妻 どなた?夫 小林さ。妻 小林さん。夫 いや、いや、そんなこたないがね。馬鹿云ふな。はははは。うん、なかなかいいとこだ。ああ、海は綺麗だよ。え、ああ、ゐるよ、ゐるとも……。嚊を連れてちや、だいなしさ。妻 なんですつて……。夫 ここにゐるよ。こつちを睨んでやがるよ。妻 なんのお話……。夫 なんの話だつて聞いてるよ。はははは。東京は暑いかい。さうか、昨夕からね……。こつちは、もつと涼しいよ。なに、海は平気だがね。ああ、今も出掛けようとしてゐるとこだ。妻 あたしから奥さんによろしくつて、さう云つて頂戴ね。夫 へえ、わからないもんだね。そいつあ、大変だらう。今ね、家内から、君の細君によろしくだとさ。うん、適当にやつてるよ。大将は出てるかい。ちえツ、うるせえな。帰る時にや帰るつて、さう云つてくれ。ゐない時だけ追ひ廻すつていふ寸法だね。や、さよなら、え、あ、あ、わかつた。さやうなら……。妻 なんの御用……。夫 用事なんかあるもんか。なんだ、雨が止んでるぢやないか。さ、今のうち、早く行かう。(あわてて浴衣を脱ぎすてる。下にはちやんともう、海水着を着込んでゐる)妻 (これもいそいそと座を起ち)そんな風をしていらつしやるの。夫 あたり前さ。海は、お前、すぐそこだよ。庭続きだよ。自動車へ乗つてでも行くつもりか。妻 ぢや、あたしは……。夫 お前だつて、それでいいさ。妻 だつて、あたし、まだ海水着を着てなくつてよ。夫 ぢや、早く着ちまへよ。妻 あなた、外へ出てらつしやい。夫 それより、海岸に着物を着替へる小屋がある筈だ。そのまま持つて行けばいい。妻 人が見てやしない。夫 愚図愚図してると、また降り出すかも知れない。さ、早く……。
二人はあたふたと外に出る。
それが、やがて、梯子段を降りてしまつたと思はれる頃、また、急に雨が降り出す。
何処かの部屋で蓄音機をかけてゐる。
その曲に足並を合せる如く、悄然として、夫婦が帰つて来る。二人は、黙つて、部屋の中にはひり、思ひ思ひに自分の座につく。何をするでもなく、ぼんやり、空を眺めてゐる。かすかな溜息。
長い沈黙。
やがて、夫は、鞄から旅行案内を出して、頁を繰りはじめる。
妻は、枕を持ち出して、昼寝の用意をする。
夫 おい、寝るのはよせ、この上、お前に寝ちまはれちや、おれはどうしていいかわからん。妻 あなたもおやすみになつたら……。夫 昨夕七時から、今朝九時まで、十四時間ぶつ通しに寝たものが、また寝ようたつて、それや少し無理ぢやないか。いくら、寝るより外にすることがないと云つたつて、おれたちは、遥々汽車に乗つて、大枚五円の宿料を払つて、名にし負ふ湘南の海水浴場に来てゐるのだ。少しは、気の晴れることもしてみようぢやないか。妻 だつて、海水浴が駄目なら、仕方がないぢやないの。夫 海水浴が駄目なら仕方がないと云つてしまはずに、そこを、なんとか誤魔化せないもんかなあ。妻 あなたは傘をさして散歩でもしてらつしやい。あたしは、かうして、横になつてますわ。(寝転がる)夫 傘をさしてか。傘は持つて来ないぜ。妻 借りてらつしやいよ。夫 お前は横になつてるのか。妻 ええ。夫 夫は傘を借りて散歩をなし、妻は横になつて退屈を味はふか。洒落にもならないや。妻 だから、あたしが、こんな処へ来るよりは、着物の一枚もこしらへた方がいいつて、あれほど云つたのに……。夫 もうわかつた。おれはこれから、旅行して来る。妻 何処へいらつしやるの。夫 気の向いた処、日本国中だ。妻 ……。夫 一つ、別府あたりへ行つてみるかな。妻 旅行案内だけもつてね。夫 勿論……。これほど金のかからない旅はない。旅行案内といふものは妙なものだね。汽車の時間を順々に見て行くと、からだも一緒に動いて行くやうな気がする。一種の錯覚かも知れんが、こいつを応用して、何か一つ、どえらい発見でもしでかすかな。妻 ……。夫 弁当と書いてあると、あの上等弁当の折の香までして来るから面白いぢやないか。妻 何が面白いもんですか。夫 面白くないか。お前にはそれが面白くない。だから、足の裏なんか、蚊に咬まれるんだ。まだ痒いかい。妻 知りませんよ。夫 大沼公園といふのは、なかなか景色がよささうだね。北海道へも、一度ぐらゐ行つたつて悪くないな。ええと、時間はどうなつてるかな。妻 旅行をなさるなら、黙つてなすつて頂戴ね。夫 黙つて旅行をしろ……? 所謂、唖の旅行といふ奴だね。
蓄音機の音止む。
夫 いろんなことを云ふやうだが、お前は近頃、何が食ひたい?妻 ……。夫 もう眠つたのか。妻 ……。夫 そんな筈はない。たつた今、欠伸を噛み殺してゐたぢやないか。妻 ……。夫 あくまで狸を粧ふつもりか。妻 ……。夫 お前がびつくりするやうなことを云つてやるが、それでもいいか。妻 ……。夫 ようし……。云ふぞ。大きな声を出すな。妻 ……。夫 おれは、さつき、十年前の恋人に遇つたよ。おれにそんな恋人のあつたことはお前も知るまい。今までその話はせずにゐた。お前の心を不必要に乱したくなかつたからだ。しかし、たうとう、お前にそれを打ち明けなければならない日が来た。そんなに息を殺さなくつてもいい。妻 ……。夫 向うはまだ独りでゐるらしい。純潔そのもののやうな目をもつた女だ。その目が、昔と少しも変つてゐないやうに、おれに対する気持も、そのまま昔と変りはないといふのだ。おれの方はどうだと云ふから、おれは云つてやつた。なんと云つてやつたか知つてるか。妻 ……。夫 おい、安心してる場合ぢやないぞ。妻 (脇の下をゴシゴシ掻く)夫 そんなところを掻いてる場合ぢやない。おれはなんと言つたと思ふ。おれはかう云つた。――あなたが、それほどまでに僕のことを想つてゐて下さるのはありがたいが、僕はもう自由ではありません。すると、そんな事は存じてをりますわ、と云つた。昨日もお二人が睦じさうに、廊下を歩いておいでになるところをお見かけしたんですもの。優しい上に、聡明な方らしいわね、奥さまは……と云ふんだ。おれは返事に困つて、あんな女はざらにありますと云つてやつた。妻 (大きな息をする)夫 ざらにあると云つただけでは、まだ云ひ足りないと思つたので、あれくらゐ鈍感な女は、一寸類がありませんよと云ひ直した。お前の前だが、それやほんとだからね。妻 (枕を直す)夫 すると、向うはなかなか如才がない。――でも、あなたのやうなお方と一緒にゐるには、その方が結句幸福ですわと云ふぢやないか。なぜですつて白ばくれた聞き方をすると、笑つてて返事をしないんだ。妻 (かすかに鼾をかく)夫 怪しげな鼾は手応へのあつた証拠だ。さ、なんとか云へ。妻 ……。夫 なんにも云ふことはないね。それぢや、先を続ける。――二人は、それで急に、昔しの親しみを取り返した。その間に、いろいろ細かい話もあつたが、それは略して、兎に角、東京へ帰つたら遊びに来てくれと云ひ出した。寂しく婆やと暮してゐるとまで附け足した。そこで、おれは、東京へ帰つたらなんて云はずに、今、これから、あなたの部屋へ行つて、ゆつくりお話をしたいと切り出してみた。どうせなんにもすることはなく、退屈しきつてゐるところだと云つてみた。毎日見あきてゐる女房の側を、さうして一つ時でも離れてゐたいとまで云つてみた。すると、その女の云ふことが振つてゐるぢやないか。――いいえ、それはいけません。あなたの奥さまといふ方を、あんまり近くに感じてゐるところでは、寛ろいだおもてなしもできません。その気持にもなれません。東京の住居は、それや静かな、奥まつたところにありますのよ。知らない人は、尋ねあてるだけに三時間もかかりますわ、といふことで、話は一寸跡切れた。湯上りの、透き通るやうな手を、縁側の手摺りに置いて、それとなく、何ものかを待つてゐる形だ。結ぶでもなく、開くでもなく、紅つ気なしに赤い唇が、心もちふるへてゐたよ。目は無論、渺茫たる水平線の彼方、思ひ出の花咲く国に注がれてゐるのさ。妻 (寝返りをうつて、夫の方に向き直る。が、これこそ、口は自然に開くに任せ、鼻の孔は、耳鼻咽喉科の診察室に於ける如く、やや、あふ向き加減に奥の方まで見通せる姿勢である)夫 (これを見て、思はず顔をそむけ)図々しく寝返りをうつたな。
廊下で、突然「おきんさん」と呼ぶ女中の声。
妻 (はたと目を覚し、或は目が覚めた風を装ひ、むつくり起き上り、寝ぼけ声で、或は何食はぬ顔で)もう、お風呂沸いてるでせうか。夫 (たじたじとなり、それでも、疑ひ深く)眠つてたのか。妻 (これには答へず、起ち上つて、手拭、石鹸、化粧道具など取り上げ、ふらふらと出て行く)夫 (さも気抜けしたやうに、その後を見送る)
――幕――