一
「八、花は散り際って言うが、人出の少なくなった向島を、花吹雪を浴びて歩くのも悪くねえな」
銭形平次はいかにも好い心持そうでした。
「悪いとは言いませんがね、親分」
「何だ、文句があるのかえ」
「こう、金龍山の鐘が陰に籠ってボーンと鳴ると、五臓六腑へ沁み渡りますぜ」
「怪談噺てえ道具立じゃないよ。見や、もう月が出るじゃないか」
「へッ、へッ、真っ直ぐに申上げると、腹が減ったんで」
ガラッ八の八五郎は、長い顎を撫でました。涎を揉み上げるといった恰好です。
「もう食う話か、先刻あんなに詰め込んだ団子はどこへ入ったんだ」
「それが解らないから不思議で、――何しろ竹屋の渡しから水神まで三遍半歩いちゃ、大概の団子腹がたまりませんよ」
「泣くなよ八、風流気のない野郎だ」
銭形の平次と子分の八五郎は、こんな無駄を言いながら、向島の土手を歩いておりました。
昼のうちは、落花を惜しむ人の群で、相当以上に賑わいますが、日が暮れると、グッと疎らになって、平次と八五郎の太平楽を妨げる酔っ払いもありません。
ちょうど牛の御前のあたりへ来た時。
バタバタと後ろから足音がして、除け損ねた八五郎の身体へドンと突き当りました。
「危ねえ、後ろから突き当る奴もねえものだ。何をあわてるんだ」
「御免下さいまし」
振り返ったガラッ八の袖の下を掻潜り様、ト、ト、トと前へ、物に驚いた美しい鳥のように駆け抜けたのは、紛れもなく若い女です。
「どっこい、待ちねえ。胡乱な奴だ」
後ろから伸びた八五郎の手は、その帯際をむずと掴みました。
「急ぐ者でございます。お許しを願います」
女は花見衣の袖に顔を埋めて、堤の夕闇に消えも入りそうでした。
「懐中物の無事な顔を見ないうちは、うっかり勘弁するものか」
八五郎は遊んでいる片手を働かせて、内懐から腹掛の丼から、犢鼻褌の三つまで捜っております。女巾着切と思込んだのです。
「八、何てえ事をするんだ。見れば御武家方に御奉公している御女中のようだ。無礼があってはなるまい」
平次は見兼ねて八五郎の肩を叩きました。
「ヘエ、巾着切じゃありませんかねえ。花時の向島土手で、不意に後ろから突当るのは、巾着切と決ったようなものだが」
ガラッ八はようやく手を放します。
「とんでもねえ野郎だ。――御女中、勘弁してやって下さい。こんな解らねえ野郎でも、役目があるんだから」
「ハイ、イエ」
女はひどく恐縮して、二人へ弁解をするともなく、顔の袖を取りました。堤の掛行灯は少し遠過ぎますが、ちょうど田圃の上へ出た月が、その素晴らしい容貌を、惜しみなく照し出します。
「お急ぎのようだ、構わず行きなさるがいい。まだ花見の往来があるから、物騒なことはあるまい」
「有難う存じます。船がツイ竹屋の渡しの手前に待っておりますから」
「それじゃ、ほんの一と丁場だ、――送って上げるのも気障だ。酔っ払いか何かに絡み付かれたら、大きな声を出しなさるがいい」
平次は月明りのまだよく届かない橋の下蔭を透しながら、行届いた注意を与えております。
「銭形平次親分という荒神様が付いているんだ、――とな」
「余計な事を言うな、馬鹿野郎」
「ヘエ」
ガラッ八の凹む顔を見て、女は始めて微笑みましたが、そのまま物優しく小腰を屈めると、踵を返して竹屋の渡しの方へ急ぎます。
土手の人足は至って疎らですが、川面は夜桜見物の船が隙もなく往来し、絃歌と歓声が春の波を湧き立たせるばかりです。
「何か間違いがあったらしいな」
平次は三囲の前に来た時、堤の下を覗きました。そこに繋いだ一艘の屋根船の中には、上を下への大騒動が始まっているのです。堤の上からは若い武家が一人、それを覗いているのを見逃す平次ではありません。
「行ってみましょうか、親分」
ガラッ八の職業意識は燃え上がりました。
「放っておくがいい、武家の遊山船だ。――町方の岡っ引が口を出す場所じゃねえ。第一後がうるさいよ。それよりは堤の上から一生懸命、船の様子を見ている、若い武家の人相を覚えておくがいい」
平次はそのままそっぽを向いて通り過ぎます。