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永井荷風といふ男
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永井荷風といふ男
生田葵山
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译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 3 of 3

三

プランタンの事があつた數ヶ月後、私は外遊の途に上るやうになつたので、又も荷風君との交遊は斷たれた。私は外遊中に荷風君の父君の卒然の逝去を聞いた。それから八重次に藝者を止さして、靜枝の本名を名乘らして四谷區に圍つて居ると唖々君が伯林に居る私へ報知して來た。軈て又荷風君は遂に靜枝と結婚するやうになり、媒酌者は左團次君夫妻であつて、今は宏壯なあの家に靜枝は新夫人となつて納つて居るとやはり唖々君から便りがあつた。私は何故かしら畏友荷風君に温良貞淑な良家の處女を娶らしたいと願つて居たので、此結婚を左程目出度いものに思はれなかつた。すると半年程した後に、永井君は靜枝と別れたと、之は黒田湖山君からの手紙であつた。私が歸朝後、荷風君からも聽いたし、唖々君初め荷風君の知人達の話を綜合して靜枝さんとの結婚が荷風君に取つては非常に高價なものであるのを知つた。

高價な第一は未亡人の母堂が家を去つたことである。第二は弟の農學博士伊三郎君初め名門揃ひの親戚と仲違ひしたことである。母堂は荷風君と靜枝さんとの結婚を無論初めは反對であつたが、或人が仲に這入つて説いた爲め、結婚式に列席せぬのを條件にして諾意を見せた。荷風君は在來通り母堂と新夫婦は一所に住むものとのみ思つて居たのに、結婚式から歸つて來ると母堂は伊三郎君の家に去つて了つて居た。弟の伊三郎君なりその夫人は共に堅い基督教信者であつて、靜枝さんの經歴を賤しみ姉と呼ぶに堪難いと云つて籍さへ脱いて別戸主となつたのである。親戚達は母堂の意嚮や伊三郎君に追從して往來を絶つやうになつたので、永井君は總ての血縁者に背かれて了つたのである。

かうしようと思ふと必ず遂行する強い永井君ではあるが、果して平心であつたらうか。他人の意を損ずるのが嫌ひであつた性質だし殊に母堂思ひなので相當苦痛であつたに違無からう。結婚半年にして靜枝さんと別れたのは、靜枝さんも強い性格で我意を張つたのであらうが永井君のかうした苦痛の反射が働き懸けないとは思はれない。然うして後日永井君が偏倚館なぞと自宅に名稱を附して門戸を閉ぢたのも、母堂とは直ぐに和解したが、他の血縁者とは今以て和解が出來ず、孤立し續けた心の影響がさしたことと、私は思つて居る。

私が外遊三年の旅を終へて歸つて來て、永井君を大久保余丁町に訪問すると、在來の家と棟續きに瀟洒な數奇屋好みの小家が建築されてある中に、唯一人座して居た。全く唯一人座して居たので、女中さへ居ないのである。何うした理由かと問ふと、女中は今朝歸つて往き、今一人居た女も昨日から歸つて來ないとの答へであつた。廣い母家の方の雨戸は總て閉されたまゝで、樹木の多い庭は荒れ果て、永井君は其の日は仕出し屋から食事を取寄せて自分を賄つて居る容子が其邊に顯はれて居た。昨日から歸つて來ない今一人居た女と云ふのは神樂坂から請出した藝者であるのを、私は唖々君から聞いて知つて居た。

『今一人の女つて請出した藝者なんだらう。』

『然うだよ。』

『君は藝者を請出して之で三人目と云ふぢやないか。みんな直ぐ嫌になつて別れて了ふんだつてね。』

『然うぢやない。女の方から去つて往つて了ふんだよ。』

悉しい話を聞くと、寂しさについ遊びに出懸けて一人の藝者を知る。身上を打明けられて身受けを強請されるので、憐を覺えて借金を拂つてやつて、親元へ預けるなり何處かへ圍つて置いたりする。と次に必ず無法な要求を持出して來たり、惡が附いて居るので、遠退いて了ふんだと、そんな女に對して未練も執着もなく、當座々々の悠々たる遊びであるのが解つた。それにまして費用が勿體ないではないかと云ふと、勿體ないからもう止めようと思ふとの返辭であつた。別れた靜枝さんの話に觸れたが、言葉の裏に自身は夫婦と云ふものを持續して行く資格がないかの樣にすつかり結婚を思諦めて居る心地が讀まれた。その時此の邸宅が餘りに廣く、掃除にも困るし、女中は夜など寂しがつたり怖がつたりして、その爲め居附かないと云ふ話だつた。

私は澁谷に家を持つたのであつたが、外國生活の疲勞が出たのでもあるまいに、以前の神經衰弱が再發して、二ヶ年程は思ふやうに書きものが出來なかつた。その間永井君とも稀にしか遇はなかつた。唖々君の口から永井君が莫大な金額ではあつたが時價よりは安く大久保の邸宅を賣放して、築地へ借宅したと聞かされた。慶應大學へ教えに往くことも止して、此頃は清元を習ひ出して居るとの風聞をも聽いた。此築地の家へは私は一度も訪問する機會がなかつた。私の病ひが怠つて永井君に遇つたのは、永井君が有樂座で清元のお浚ひ會に、一段語る日であつた。その次に遇つたのは劇場關係の人が外國へ旅立つて行くのを中央停車場へ見送りに行つた時であつたが永井君の姿を見て私は吃驚りさせられた。私等小兒の時分に町内の老人連が着て居るのを見はしたが、今は芝居の舞臺の上でなくては見得られない小紋の羽織を着て居るではないか。着物、帶、持物とそれに準じ煙管筒から煙管を拔いて煙草を吸ふ容子に、私ばかりか他の誰もが眼を瞠つて居た。

趣味で然うした服裝をするにしても、餘りとは時代と逆行したものだと私は非難する思ひに燃えたが、不圖考え直してクツ/\とひとりでに笑はれて來た。清元を習ひ出すと氣分迄も清元にしようとする凝り性の顯はれだと解つたのである。他人が笑はふと非難しやうとそんなことを念頭に置かないのが荷風式だと思ひもした。小山内君が側に居て、

『變つて居るね。』

私に囁いた。併しそんな服裝も清元も永く續かなかつた。築地から現在の麻布市兵衞町に西洋館を新築して移轉すると、家に居る時も洋服を着るやうになつた。私は病も怠つたので二度目の結婚をしたが、永井君は相變らずの獨身で、外國でした學生生活の樣式で生活するやうになつた。

荷風君と私との往來が繁くなつたのは、青年時代からわれ俺で交際して居た永井君の舊い友人が唖々君を初め、春浪、湖山、薫と漸次に死んで往つたので、隔てなく昔を語り合はれるのは、私位ゐなものになつて了つたからである。それに私は二度目の妻が震災の年から今以て脊髓を患つて足腰が立たず、獨身同樣な寂しさがあるまゝ、自然獨身者の永井君と話も合ひ、散歩も共にせらるゝのである。

荷風君が今以て萬年筆を使はず毛筆で原稿を書いて居るのは世間周知の事實であるが、清元を習ふと小紋の羽織を着る迄徹底さす氣分に外ならないので、自分の文章は毛筆でなくては生れないものとして居る。全く一章句たりとも苟くもしない遲筆で、何遍も書直しもする。然うして稿が成つても猶氣に入らないと机の曳出しに納ひ込んで了ふので、そんな未定稿は數あると思ふ。市兵衞町へ引越して間もない時のこと、私が書齋へ這入つて行くと、荷風君は一つの稿を前に置いて沈吟して居た。然うして書上げたものが氣に入らないから發表せない心算だと云ふ。讀んで聞かし給へと勸めて、荷風君の朗讀を聽いたのだが、私は名文に感心して發表を強いたんだがそれは見果てぬ夢の短篇であつた。牡丹の客も然うであつた。女には放膽な荷風君も、事文學に這入るとそれ程細心で、チミツドなのである。彼氏が大名を唱はれるのは故あるかなである。

世間でいろ/\と風評される女との關係にしても、私の見る目は違ふ。若い時代はいざ知らず、近時の荷風君對女問題は、荷風君の方が利得して居るので、世間の風評を腹の底で笑つて居るかもしれない。それと云ふのが女を總て試驗臺にして居るからで、私が荷風君を女に冷酷だと評するのは然うした點も含まれて居る。女が惡であれば惡でよし、それに近接して凝と見据えて取材にして居る。女が彼氏に嫉妬のないのを氣味惡がつたり、怒るのは然うした理由である。花袋氏は女に對して相當情熱をもつて進み、それを客觀視したが永井君は然うではない。それであるのに荷風君に近寄られると、女の方は自惚れ、永井君の内剛なるを知らずに、表面些つと女性的に見えて柔しいので、甘く見てかゝり、無理な強請りなどしての破綻である。近く荷風君と噂を立てられたタイガアのお久にしても富士見町の女にしても、然うである。

私の氣が附くところでは、永井君は女に放膽ではあるが能く自分を守つて居る。決して彼女に尻尾を押へられるやうな言動を示したことがない。無論物惜しみをせず女に物資をくれてやり得らるるからではあるが、女に損を爲せないと云ふのが永井式やり方である。之は友人や知人にも用ゆる手で、他人に迷惑を懸けるのは大嫌ひで、恐く今迄に他人をそんな目に遇はしたことはなからう。いつだつてちやんと心の獨立と矜恃をもつて居たので用意周到なものである。いざと云ふ場合對手に一口だつて突込まれない戰鬪準備をして居ると云つてもいゝので、冷靜そのものである。

私が永井君に飽足らぬものが一つある。それは眞の貧乏の味を知らないことで、若し君にして生活苦を知つて居たなら、作品は違つたであらうし、社會や人を見る眼も違つたらうと思ふ。もう一つ殘念なのは純な處女との戀愛を知らぬことで、それも作品に大きな影響を及ぼして居る。若し荷風君がそんな娘と結婚し、人の子の父であつたならば、もつともつと違つた作品が生れ出たであらう。更に若し父君が初から永井君を文學者になるのを許容して居たなら、違つた荷風氏が生れ出て居ただらうと思ふ。

(完)(昭和十年十月号)

●図書カード

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