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歯が痛い。下顎の、左のほうの二、三本が、浮いている。沢田に殴られたせいだ。あの明くる日から、痛い。
夜の十一時すぎ、東京の晴海通り、歌舞伎座の前。車の数が、すくなくなっている。朝から降っていた雨は、いま、霧雨になって、残っている。路面が濡れて黒く、車の屋根があちこちでライトに光る。
カワサキで、ぼくは、勝鬨橋にむかっている。皮のつなぎに、ハーネス・ブーツ。グラブ、そして、シールドをおろしたヘルメット。ぼくは、フルフェースのヘルメットは、使わない。風が顔にこないから。
十一時半に、有明へいかなくてはならない。沢田秀政に申し込まれた、決闘のためだ。
どんな決闘なのだろう。
真剣にあれこれ想像すると、気分は急速にダウンし、不安になってくる。
静かに、ぼくは、勝鬨橋をこえた。
まっすぐに月島を突っ切って朝潮運河をこえ、晴海。公団アパートや倉庫、それにさまざまな四角いビルが、霧雨の夜の空間を、おりかさなるようにふさいでいる。
晴海のまんなかで左折。ふいに、潮のにおいがした。
晴海線を渡ると、行手に、そして両側に、石川島の工場だ。とんでもないところへ迷いこんだような錯覚が、一瞬、ある。
貨物船を三度渡ると、東雲橋だ。この時間、このあたりの道路は、がらんとしている。工場の建物の間に、いきなり、小さな貨物船が見えたりする。なにを見ても、気分はひき立たない。
東雲を有明へ右折した。左側がゴルフ場になっている、長いまっすぐな道路の行きどまり近くが、指定された集合場所だ。
荒れた暗い原っぱのむこうに運河があり、水のなかへ崩れ落ちそうな感じで、工場がせまっている。数多いライトによって、工場のぜんたいが、闇のなかにうかがえる。煙突を先端まで闇のなかにたどると、夜空よりも黒い煙を分厚く吐き出していた。
道路の突き当たりに近い左側に、ライトバンが一台、とまっていた。そのうしろに、オートバイが二台。そのうちの一台は、沢田のCB750だ。二、三人の男が、そのまわりに立っていた。街灯のなかに、ぼうっと浮かんで見えた。
スピードを落とし、歩道に寄り、すこしはなれて、とまった。
男たちのひとりが、もっと近よれ、と合図をしていた。ぼくは、合図にしたがった。
歩道に片足ついてカワサキをとめたぼくに、男は、きいてよこす。
「橋本か?」
見たことのない顔だ。
「はい」
「降りて、こっちへこい」
ライトバンのわきへ、ぼくは歩いた。
カー・ステレオで、子気味のよいハードなロックが、抑えた音量で鳴っていた。埋立地の夜と、そこに降る霧雨のなかに、その音楽はよく溶けこんでいた。
ライトバンの運転席から、沢田が出てきた。車の前をまわり、歩道にあがってきた。夜でも、あの濃い色のサングラスだ。
沢田のほかは、みんな、知らない顔だ。
「すこし早いけど、すぐにはじめる」
と、見知らぬ男のひとりが言った。
「この道路に、センター・ラインがあるだろう。橋本は、むこうがわ、沢田は、こっち。三〇〇メートルはなれて向きあい、ホーンを鳴らすから、それを合図に、スタート。おたがい、センター・ラインすれすれに走ってきて、すれちがいざま、木刀で、相手を叩き落とす。いいな。要領はわかるだろ」
説明に、沢田とぼくは、同時にうなずいた。
「叩き落とされたほうが、負け。どんなことになっても、いっさい、文句を言わない。いいな?」
また、うなずく。
「よし。宣言してくれ。立会人は、この俺だ」
「落ちたら負け。どんなことになっても、文句は言わない」
と、沢田が言った。
おなじ文句を、ぼくも、くりかえした。
「上出来」
ほかの男が、ライトバンから、ふた振りの木刀を持ち出してきた。袋におさめてある。
「位置についてくれ。木刀は、あとから、持っていってやる」
「それから、言っとくけど、オートバイごと突っかかっちゃ、いけないぞ。あくまでも、すれちがいざまに、木刀で相手を突くなり叩くなりするんだ。ヘッド・ランプは消しとけ」
沢田が、CB750にまたがった。すぐに始動させ、道路の突き当たりにむかって、ゆっくり走った。
「おまえは、あっち」
言われるままにカワサキにまたがり、道幅いっぱいにUターンし、三〇〇メートルほど走った。とまって、振りかえった。もっとむこう、と男たちが合図をしている。
さらに五〇メートル、ぼくは走った。再びUターンし、センター・ラインのすぐわきにカワサキをつけた。
男がひとり、木刀を持って、沢田のほうへ走っていく。
ぼくのほうにも、走ってきた。木刀を無言でぼくに渡し、なにも言わずに、走ってひきかえした。
ライトバンの前から道路に出てきた男が、両腕を大きくあげた。沢田とぼくのほうを、交互に見た。
木刀とアクセル・グリップを右手でいっしょに持ち、ぼくは合図を待った。有明に着くなり、あっと言うまにこうなってしまったので、どうしていいのかわからない。
わからないまま、男の両腕が、振りおろされた。ライトバンのホーンが鳴った。
道路のむこうで、CB750の排気音が轟いた。
無我夢中、木刀といっしょに握ったアクセルをぼくは開いた。ふらつくのを立てなおし、加速し、三速まであげた。
むこうから、センター・ラインすれすれに、左手に木刀をふりかざし、沢田がふっ飛んでくる。
アクセルから右手をはなし、木刀をつかみなおし、右腕を大きく左にのばした。
それ以外になにもできず、
「あっ!」
という悲鳴のようなかけ声と共に、沢田とすれちがった。
胸に、衝撃があった。だが、オートバイから落ちるほどではない。前輪が、かすかに左右に振れただけだ。
ぼくが握って差し出していた木刀には、カーンというショックがあった。沢田のヘルメットに当たったのだ。ぼくの右腕が、木刀ごとうしろになびいた。CB750の排気音が、遠のいていく。
木刀を顎の下にはさみ、ぼくはアクセルをもどした。そうしておいて気持を落着かせてから、道幅をいっぱいに使い、Uターンした。
沢田は、すでにターンをおえ、両足をつき、空吹かしをくりかえしている。
ライトバンの前の男が、また両腕を上に上げた。
木刀を、ぼくは太腿のうえに横たえた。シートのうえで位置をきめなおし、空吹かしをした。
男の両腕が、さっと降りおろされた。ライトバンのホーンが、長く鳴った。
沢田が、す早くギアをつないで、飛び出す。すこしおくれて、顎の下に木刀を水平にはさみ、ぼくも出た。
急激な加速で二速までかきあげ、木刀を左手で持ち、右の手首のうえに押しつけ、センター・ラインから斜めに前方へ切先が突き出るよう、構えた。とても不安定だ。
ギアは二速のまま、ぼくは、アクセルを開けた。爆音と共に、カワサキが霧雨のなかに飛び出していく。シールドに小さな雨の粒が、無数に当たった。
CB750が、黒いかたまりになって、ぼくに飛びかかってくる。センター・ラインにすれすれだ。正面衝突する! という恐怖を必死におさえ、ぼくはラインをそのままにさらにアクセルを開いた。車体が前へ重く飛び出していく。片手だけでハンドルにつかまっているから、シートのうえで体が斜めにうしろへずれ、置いていかれそうになる。
右の手首に、木刀を押しつけた。木刀の先端を沢田の車線に突き出させたまま、一直線にぼくは突っ走った。
CB750がすさまじい排気音をひきずって、眼前にせまった。
すれちがう寸前、ぼくは、恐怖から、上体を大きく前に倒した。ガソリン・タンクにかがみこむような姿勢だ。
CB750が、ぼくの左わきを、すれすれにすり抜けていった。一瞬、風圧を感じた。ヘルメットに、カーンと、沢田の木刀が当たった。
ぼくの木刀には、もっと重い手ごたえがあった。沢田の体のどこかを、確実に、まっすぐに、突いたのだ。重量感のある手ごたえが木刀を走り、ぼくの左肩に抜けた。
ぐらり、と大きくぼくは左へ傾いた。視界全体が、大きく左へかしぐ。
「うわっ!」
思わず悲鳴をあげ、木刀をほうり出し、手をハンドルにもどした。
シートから左へ腰が落ちそうだ。倒れる! 大きく右へきりかえしたカワサキの前方に、ライトバンがある。ライトバンに、ぶつかる。
両手に力をこめてシートのまんなかに尻を乗せなおし、アクセルを開いてトルクをかけ、左肩から落としこんだ。
アクセルの開きが、大きすぎた。後輪が、濡れた路面をグリップできずに、空転した。車体のうしろが、すうっと右に流される。左側の路面が、いきなり高く持ちあがったように、ぼくにせまる。
倒れる!
あと一、二秒でカワサキの後部がライトバンに衝突するというとき、タイアが路面をとらえなおした。両手と両ひざにかかっていたカワサキの全重量が、嘘のように軽くなった。
ライトバンをすれすれにかすめ、立ちなおりつつ道路の中央へ出ていくとき、ぼくは、重い転倒音をうしろに聞いた。CB750が、路面に叩きつけられたのだ。
道路の中央で立ちなおったぼくは、そのまま、反対側に走った。歩道に寄せてとまり、肩ごしにふりかえった。
CB750が無惨にひっくりかえり、排気管から路面へ白煙を吹き出していた。すこしはなれて、沢田が、手足をのばし、横ざまに倒れていた。
男がひとり、木刀をひろい集め、もうひとりが、沢田にかけ寄っていった。
スタンドをかけ、ぼくも夢中で沢田のところへ走った。
男が道路に両ひざをつき、沢田の顔をのぞきこむ。
「沢田!」
沢田が、何度も、うなずく。
「だいじょうぶか」
また、うなずく。うなずきかたは、しっかりしている。
男ふたりで沢田の体を道路からすくいあげ、ライトバンへ運んだ。
木刀をライトバンにかえした男が、CB750をひとりで器用に起こした。ぼくは、歩み寄った。
「だいじょうぶですか」
ぼくの言葉にこたえず、男は、CBを点検した。
明らかに、ハンドルが曲がっている。左のステップも、おかしな角度だ。男は、CBを押してライトバンのほうへいった。とり残されたぼくの足もとに、ウォーニング・ランプのオレンジ色のカバーがひとつ、転がっていた。
沢田を乗せたライトバンはUターンし、ぼくの目の前をとおり抜け、東雲のほうへスピードをあげつつ、走り去った。オートバイの男が、それにつづいた。
沢田のCB750と、それを点検していた男だけが、残った。またがって、男は、エンジンをかけた。始動した。
吹かしながら、ミッションのあたりをつまさきで何度も蹴っていた男は、歩み寄っていくぼくを残して、走り出した。
立ちどまり、ぼくはそのCBを見送った。オートバイは、ゆっくり、東雲のほうに消えた。
カワサキのそばで、ぼくは、ながいあいだ歩道の端に腰かけていた。
両ひざに二の腕を乗せ、股のあいだに手を垂らし、うなだれていた。なにも考えることはできなかった。
とてもいやな、沈んだ気分のぼくの頭のなかに、沢田の顔、冬美の顔、浅間の鬼押しハイウェイ、モーテル『愛の鳥』のネオン、エプロンをした冬美のうしろ姿、信州でぼくをずぶ濡れにした夕立などが、次々に、無秩序に、あらわれては消えていった。
霧雨が、強くなってきた。
遠くから、貨物船の霧笛が、聞えた。工場の煙突から吐きだされる煙のせいだろう、不快なにおいのする空気が、霧笛と共に、ぼくの顔を撫で、とおりすぎていった。