返回
彼のオートバイ、彼女の島
Table of Contents
彼のオートバイ、彼女の島
片岡義男
Reading Settings
字体大小
18px
主题
浅色
深色
棕褐色
护眼模式
行距
阅读模式
译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 7 of 20

6

歯が痛い。下顎の、左のほうの二、三本が、浮いている。沢田に殴られたせいだ。あの明くる日から、痛い。

夜の十一時すぎ、東京の晴海通り、歌舞伎座の前。車の数が、すくなくなっている。朝から降っていた雨は、いま、霧雨になって、残っている。路面が濡れて黒く、車の屋根があちこちでライトに光る。

カワサキで、ぼくは、勝鬨橋にむかっている。皮のつなぎに、ハーネス・ブーツ。グラブ、そして、シールドをおろしたヘルメット。ぼくは、フルフェースのヘルメットは、使わない。風が顔にこないから。

十一時半に、有明へいかなくてはならない。沢田秀政に申し込まれた、決闘のためだ。

どんな決闘なのだろう。

真剣にあれこれ想像すると、気分は急速にダウンし、不安になってくる。

静かに、ぼくは、勝鬨橋をこえた。

まっすぐに月島を突っ切って朝潮運河をこえ、晴海。公団アパートや倉庫、それにさまざまな四角いビルが、霧雨の夜の空間を、おりかさなるようにふさいでいる。

晴海のまんなかで左折。ふいに、潮のにおいがした。

晴海線を渡ると、行手に、そして両側に、石川島の工場だ。とんでもないところへ迷いこんだような錯覚が、一瞬、ある。

貨物船を三度渡ると、東雲橋だ。この時間、このあたりの道路は、がらんとしている。工場の建物の間に、いきなり、小さな貨物船が見えたりする。なにを見ても、気分はひき立たない。

東雲を有明へ右折した。左側がゴルフ場になっている、長いまっすぐな道路の行きどまり近くが、指定された集合場所だ。

荒れた暗い原っぱのむこうに運河があり、水のなかへ崩れ落ちそうな感じで、工場がせまっている。数多いライトによって、工場のぜんたいが、闇のなかにうかがえる。煙突を先端まで闇のなかにたどると、夜空よりも黒い煙を分厚く吐き出していた。

道路の突き当たりに近い左側に、ライトバンが一台、とまっていた。そのうしろに、オートバイが二台。そのうちの一台は、沢田のCB750だ。二、三人の男が、そのまわりに立っていた。街灯のなかに、ぼうっと浮かんで見えた。

スピードを落とし、歩道に寄り、すこしはなれて、とまった。

男たちのひとりが、もっと近よれ、と合図をしていた。ぼくは、合図にしたがった。

歩道に片足ついてカワサキをとめたぼくに、男は、きいてよこす。

「橋本か?」

見たことのない顔だ。

「はい」

「降りて、こっちへこい」

ライトバンのわきへ、ぼくは歩いた。

カー・ステレオで、子気味のよいハードなロックが、抑えた音量で鳴っていた。埋立地の夜と、そこに降る霧雨のなかに、その音楽はよく溶けこんでいた。

ライトバンの運転席から、沢田が出てきた。車の前をまわり、歩道にあがってきた。夜でも、あの濃い色のサングラスだ。

沢田のほかは、みんな、知らない顔だ。

「すこし早いけど、すぐにはじめる」

と、見知らぬ男のひとりが言った。

「この道路に、センター・ラインがあるだろう。橋本は、むこうがわ、沢田は、こっち。三〇〇メートルはなれて向きあい、ホーンを鳴らすから、それを合図に、スタート。おたがい、センター・ラインすれすれに走ってきて、すれちがいざま、木刀で、相手を叩き落とす。いいな。要領はわかるだろ」

説明に、沢田とぼくは、同時にうなずいた。

「叩き落とされたほうが、負け。どんなことになっても、いっさい、文句を言わない。いいな?」

また、うなずく。

「よし。宣言してくれ。立会人は、この俺だ」

「落ちたら負け。どんなことになっても、文句は言わない」

と、沢田が言った。

おなじ文句を、ぼくも、くりかえした。

「上出来」

ほかの男が、ライトバンから、ふた振りの木刀を持ち出してきた。袋におさめてある。

「位置についてくれ。木刀は、あとから、持っていってやる」

「それから、言っとくけど、オートバイごと突っかかっちゃ、いけないぞ。あくまでも、すれちがいざまに、木刀で相手を突くなり叩くなりするんだ。ヘッド・ランプは消しとけ」

沢田が、CB750にまたがった。すぐに始動させ、道路の突き当たりにむかって、ゆっくり走った。

「おまえは、あっち」

言われるままにカワサキにまたがり、道幅いっぱいにUターンし、三〇〇メートルほど走った。とまって、振りかえった。もっとむこう、と男たちが合図をしている。

さらに五〇メートル、ぼくは走った。再びUターンし、センター・ラインのすぐわきにカワサキをつけた。

男がひとり、木刀を持って、沢田のほうへ走っていく。

ぼくのほうにも、走ってきた。木刀を無言でぼくに渡し、なにも言わずに、走ってひきかえした。

ライトバンの前から道路に出てきた男が、両腕を大きくあげた。沢田とぼくのほうを、交互に見た。

木刀とアクセル・グリップを右手でいっしょに持ち、ぼくは合図を待った。有明に着くなり、あっと言うまにこうなってしまったので、どうしていいのかわからない。

わからないまま、男の両腕が、振りおろされた。ライトバンのホーンが鳴った。

道路のむこうで、CB750の排気音が轟いた。

無我夢中、木刀といっしょに握ったアクセルをぼくは開いた。ふらつくのを立てなおし、加速し、三速まであげた。

むこうから、センター・ラインすれすれに、左手に木刀をふりかざし、沢田がふっ飛んでくる。

アクセルから右手をはなし、木刀をつかみなおし、右腕を大きく左にのばした。

それ以外になにもできず、

「あっ!」

という悲鳴のようなかけ声と共に、沢田とすれちがった。

胸に、衝撃があった。だが、オートバイから落ちるほどではない。前輪が、かすかに左右に振れただけだ。

ぼくが握って差し出していた木刀には、カーンというショックがあった。沢田のヘルメットに当たったのだ。ぼくの右腕が、木刀ごとうしろになびいた。CB750の排気音が、遠のいていく。

木刀を顎の下にはさみ、ぼくはアクセルをもどした。そうしておいて気持を落着かせてから、道幅をいっぱいに使い、Uターンした。

沢田は、すでにターンをおえ、両足をつき、空吹かしをくりかえしている。

ライトバンの前の男が、また両腕を上に上げた。

木刀を、ぼくは太腿のうえに横たえた。シートのうえで位置をきめなおし、空吹かしをした。

男の両腕が、さっと降りおろされた。ライトバンのホーンが、長く鳴った。

沢田が、す早くギアをつないで、飛び出す。すこしおくれて、顎の下に木刀を水平にはさみ、ぼくも出た。

急激な加速で二速までかきあげ、木刀を左手で持ち、右の手首のうえに押しつけ、センター・ラインから斜めに前方へ切先が突き出るよう、構えた。とても不安定だ。

ギアは二速のまま、ぼくは、アクセルを開けた。爆音と共に、カワサキが霧雨のなかに飛び出していく。シールドに小さな雨の粒が、無数に当たった。

CB750が、黒いかたまりになって、ぼくに飛びかかってくる。センター・ラインにすれすれだ。正面衝突する! という恐怖を必死におさえ、ぼくはラインをそのままにさらにアクセルを開いた。車体が前へ重く飛び出していく。片手だけでハンドルにつかまっているから、シートのうえで体が斜めにうしろへずれ、置いていかれそうになる。

右の手首に、木刀を押しつけた。木刀の先端を沢田の車線に突き出させたまま、一直線にぼくは突っ走った。

CB750がすさまじい排気音をひきずって、眼前にせまった。

すれちがう寸前、ぼくは、恐怖から、上体を大きく前に倒した。ガソリン・タンクにかがみこむような姿勢だ。

CB750が、ぼくの左わきを、すれすれにすり抜けていった。一瞬、風圧を感じた。ヘルメットに、カーンと、沢田の木刀が当たった。

ぼくの木刀には、もっと重い手ごたえがあった。沢田の体のどこかを、確実に、まっすぐに、突いたのだ。重量感のある手ごたえが木刀を走り、ぼくの左肩に抜けた。

ぐらり、と大きくぼくは左へ傾いた。視界全体が、大きく左へかしぐ。

「うわっ!」

思わず悲鳴をあげ、木刀をほうり出し、手をハンドルにもどした。

シートから左へ腰が落ちそうだ。倒れる! 大きく右へきりかえしたカワサキの前方に、ライトバンがある。ライトバンに、ぶつかる。

両手に力をこめてシートのまんなかに尻を乗せなおし、アクセルを開いてトルクをかけ、左肩から落としこんだ。

アクセルの開きが、大きすぎた。後輪が、濡れた路面をグリップできずに、空転した。車体のうしろが、すうっと右に流される。左側の路面が、いきなり高く持ちあがったように、ぼくにせまる。

倒れる!

あと一、二秒でカワサキの後部がライトバンに衝突するというとき、タイアが路面をとらえなおした。両手と両ひざにかかっていたカワサキの全重量が、嘘のように軽くなった。

ライトバンをすれすれにかすめ、立ちなおりつつ道路の中央へ出ていくとき、ぼくは、重い転倒音をうしろに聞いた。CB750が、路面に叩きつけられたのだ。

道路の中央で立ちなおったぼくは、そのまま、反対側に走った。歩道に寄せてとまり、肩ごしにふりかえった。

CB750が無惨にひっくりかえり、排気管から路面へ白煙を吹き出していた。すこしはなれて、沢田が、手足をのばし、横ざまに倒れていた。

男がひとり、木刀をひろい集め、もうひとりが、沢田にかけ寄っていった。

スタンドをかけ、ぼくも夢中で沢田のところへ走った。

男が道路に両ひざをつき、沢田の顔をのぞきこむ。

「沢田!」

沢田が、何度も、うなずく。

「だいじょうぶか」

また、うなずく。うなずきかたは、しっかりしている。

男ふたりで沢田の体を道路からすくいあげ、ライトバンへ運んだ。

木刀をライトバンにかえした男が、CB750をひとりで器用に起こした。ぼくは、歩み寄った。

「だいじょうぶですか」

ぼくの言葉にこたえず、男は、CBを点検した。

明らかに、ハンドルが曲がっている。左のステップも、おかしな角度だ。男は、CBを押してライトバンのほうへいった。とり残されたぼくの足もとに、ウォーニング・ランプのオレンジ色のカバーがひとつ、転がっていた。

沢田を乗せたライトバンはUターンし、ぼくの目の前をとおり抜け、東雲のほうへスピードをあげつつ、走り去った。オートバイの男が、それにつづいた。

沢田のCB750と、それを点検していた男だけが、残った。またがって、男は、エンジンをかけた。始動した。

吹かしながら、ミッションのあたりをつまさきで何度も蹴っていた男は、歩み寄っていくぼくを残して、走り出した。

立ちどまり、ぼくはそのCBを見送った。オートバイは、ゆっくり、東雲のほうに消えた。

カワサキのそばで、ぼくは、ながいあいだ歩道の端に腰かけていた。

両ひざに二の腕を乗せ、股のあいだに手を垂らし、うなだれていた。なにも考えることはできなかった。

とてもいやな、沈んだ気分のぼくの頭のなかに、沢田の顔、冬美の顔、浅間の鬼押しハイウェイ、モーテル『愛の鳥』のネオン、エプロンをした冬美のうしろ姿、信州でぼくをずぶ濡れにした夕立などが、次々に、無秩序に、あらわれては消えていった。

霧雨が、強くなってきた。

遠くから、貨物船の霧笛が、聞えた。工場の煙突から吐きだされる煙のせいだろう、不快なにおいのする空気が、霧笛と共に、ぼくの顔を撫で、とおりすぎていった。

Chapter 7 of 20
|