Chapter 1 of 3

第一場

保根の家――八畳の座敷――机が二つ部屋の両隅に並んでゐる。

保根は一方の机に向つて、何か調べものをしてゐる。

野見は縁側に座蒲団を持ち出して日向ぼつこをしてゐる。

野見  この家もわるくはないが、折角、これだけの庭があるんだから、もう少しなんとかできないもんかな。せめて、季節季節の花だけでも欠かさないやうにするんだね。椿、躑躅、ぼけ、こんなもんなら、一株二十銭も出せば、臍までぐらゐのやつがあるよ。保根  ……。野見  おれはいろいろ考へて見てるんだが、君たちの生活には、もう少し変化があつていゝよ。それは、今にはじまつたことぢやない。君が毎日勤めに出てゐた頃からさうだ。朝きまつた時間に出て、晩きまつた時間に帰つて来るのはいゝさ。しかし、それが機械のやうに正確だと、少し退屈だよ。お互にね。もえ子さんにしてもさうだ。朝起きて晩寝るまで、立つてゐる時は割烹著をつけ、坐つてゐる時は指抜きをはめてゐる。なるほど、晩飯の時だけは、君も、もえ子さんも、やや人間らしい眼つきをしてゐるが、話と云へば、六分搗の米にはヴイタミンが多いといふことと、電車が混んで帯革を締め直すこともできなかつたといふことと、大家の神さんが道で遇つてもお辞儀をしなかつたといふことと、それくらゐのもんぢやないか。これぢや、お互にやりきれんよ。君が社の方を罷めてから、この傾向は益著しくなつて来た。朝が遅く、晩が早いので、いくらかは助かるが、君がさうして、一日机に噛りついてゐるのを、おれも、もえ子さんも、同じやうに心配してゐるんだ。勿論……。保根  おい、少し黙つててくれ。野見  そんな売りこむ当てもない翻訳なんかしたつてなんになる。商業英語をちつとばかりやつたからつて、オオ・ヘンリは訳せやしないよ。保根  売れなきや売れないでいゝのさ。勉強になるからやつてるんだ。野見  おい、それより、何か一つだけ新聞を取れよ。時事の夕刊も、先週から投げこんで行かなくなつたし、隣の大将は、何時のぞいて見ても新聞を読んでて、そいつを一寸と云つて借りに行くこともできないし、第一、体裁が悪いぢやないか。それはまあいゝよ。君と云ふ人間が世間から益離れて行くぢやないか。保根  世間のことなんか、おれには興味はないよ。野見  それぢや、あれはどうだ、広告欄は……。就職口を探すなら、先づ新聞の広告欄を利用すべきだぜ。麻布の伯父さんも結構さ。先輩の羽入さんもそれや頼みにはなるだらうが、もうあれから三月、どつちからも口らしい口はかかつて来ないぢやないか。この上、何を待つてるんだい。保根  そんなことを君に云はれなくたつて、明日から少し心当りを歩いてみようと思つてるんだ。野見  おれも歩く。おれの知つてる処で、少しでも見込みのあるところは、いちいち当つてみるつもりだ。おれの親友で、かうして厄介になつてる男だつて云へば、何んとか考へてくれないこともあるまい。死んだ兄貴の友達で、今建築かなんかをやつてる男が――君、困つた時は、何時でもやつて来給へ、僕で出来ることならなんでもするからつて、さう云つたことがある。あいつのところへ行つて、君のことを頼んでみよう。事務所はなかなか大きいらしいから、人の一人や二人、どうにでもなるだらう。保根  そんな口があるなら、もつと早くさう云つてくれりやいゝのに……。野見  さうか。だつて、さう面白い仕事ぢやないからね、建築事務所なんて……。苟も最高学府へ卒業間際まで通つたといふ君が、大工の見習ぢや納まるまいと思つてさ。しかし、昨今の生活は、僕も見るに見兼ねてゐる。だから、さういふところでも、よかつたら、世話しようと思つたまでさ。保根  どんな仕事だつて、かうなつたらやるよ。文句なんか云つてる場合ぢやない。しかし、なんだな。おれの方もおれの方だが、君も、一つ、早く仕事を見つけて貰ひたいな。学校を出て、何時までもさうぶらぶらしてると、そのうちに時機を失するぜ。あとからあとから、新しい奴が出てくると、使ふ方ぢや、旧いのとは云はんからな。支那語は、今が一番売れ口も早いんだし、もう少し奔走してみたらどうだ。野見  なに、四年や五年遊んだつて、後がつかへるやうなことはないよ。おれは、まあ何時だつていゝから、君の方を早く片づけよう。それでないと、かうして厄介になつてるのが気苦労でいかん。保根  なにしろ、以前はこれでも定収入といふものがあつたから、始末をすれば、君一人ぐらゐ食はして置けたんだが、今の状態ぢや、われわれ二人の家族が、満足にやつて行けないんだからね。野見  だから、おれが骨を折ると云つてるぢやないか。くよくよすることはないさ。

この時、表の戸が開いて、もえ子が帰つて来る。

野見  (もえ子の姿を見て)お帰んなさい。早かつたですね。もえ子  電車が大変……。野見  もう聞いた、その話は……。もえ子  誰から……。野見  それより、「東方時論」を買つて来てくれましたか。もえ子  まだ出てないんですつて……。野見  そんな筈はないさ。今日は五日ですよ。毎月、一日発行の雑誌が五日になつても出ないなんて法はありませんよ。方々探したんですか。もえ子  方々つて……紀ノ国屋で訊いたのよ。野見  紀ノ国屋……? 嘘だ。大嘘だ。もえ子さん、忘れたんでせう。あすこで訊けば、うちではさういふ雑誌を置きませんつて云ふ筈だ。忘れたか、さもなければ、わざと買はなかつたか。だつて、新宿駅の売店にだつて売つてますよ。もえ子  あら、さうでしたの。野見  さうでしたのぢやないよ、もえ子さん、そんならさうで、七十四銭くれりや、僕が自分で買つて来るんだ。もえ子  あたしんとこへ、手紙来てない?野見  手紙なんか来てませんよ。どら、七十四銭貸して……。もえ子  いゝわよ、この次、あたしが買つて来るから……。野見  今、読みたいんだもの……さ、壱円でお釣もつて来ますよ。もえ子  野見さん、あんたも好い加減察しが悪い人ね。野見  (しばらくもえ子の顔を見てゐるが、やつと、腑に落ちたらしく、気まづげに横を向く)保根  (机の方を向いたまま開封した手紙を差出し)姉さん、これ、……。もえ子  (それを受け取り)なんて云つて来たの。保根  ……。もえ子  (手紙を読む)

長い間。

保根  直接返事を出さない方がいゝよ。僕から何んとか云つてやるから……。もえ子  だつて、これぢや約束が違ふぢやないの。保根  だから、姉さんは黙つてた方がいゝよ。名村にさう云つて、解決をつけて貰はう。もえ子  月々五十円の仕送りをするつて約束で、かうして別居してるのに、そんなこと云ふなら、どんな女がゐたつてかまはないから押しかけてつてやるわ。保根  さうすれや、こつちが不愉快なだけぢやないか。話はわかつてるんだから、表向きにするつて、さう云つてやりやいゝのさ。それには、僕から、そんなことを云つてくのも可笑しいから、弁護士にやらせた方が、さつさと事が運んでいゝよ。もえ子  ううん、あたしが、ぢかに掛け合つて来る。保根  駄目だ、そんなことしちや……。向うから、さうして理由までちやんとこしらへて云つて来てるんだから、当人同志ぢや、押問答をするだけだ。野見  おれが行つて来ようか。保根  君のやうにお人好しぢや、甘く見られてなほ駄目だよ。野見  夫は、妻を扶養する義務があるんだぜ。保根  わかつてるよ、そんなことは……。野見  若し、その義務を履行しないときは、妻の方から……。保根  わかつてるつてば……。もえ子  こんな、自分の方の都合ばかり並べたてたつて、なんにもならないわ。野見  もえ子さんも、そんな男はいゝ加減見きりをつけて、早く、第二の新しい生活にはひるんだなあ。女三十二なら、まだ遅かないさ。僕がもえ子さんより、一つでも年上なら、早速渡りをつけるんだが、五つも年下と来ちや、相手にされないや。もえ子  およしなさいよ、馬鹿なこと云ふのは……。野見  どうして……。そんなこと、冗談だけど、お世話なら、僕、しますよ。四十から六十までの間で、細君をなくした男、僕二三人識つてますからね。子供があつていやなら、子供のないのもある。もえ子  そいぢや、こつちへは返事を出さないで、すぐ名村さんにお願ひするのね。保根  さうさ。それがいゝだらう。もえ子  だつて、そんなことして、却つて永びくやうだと、困りやしない。保根  大丈夫だよ。どうせ、あんな金、何時までも当てにできやしないんだから……。なまじつか、少しでも月々はひると思ふから、つい、こつちも油断をしていけないんだ。裸にならうよ、裸に……。さうして、二人で、ふんばらうよ。野見  さうだ。おれもふんばる。また、米がない時は、芋でもなんでもいゝ。三人分ない時は、二人分を三人で分けて食へば、なんでもないさ。おれは、いくらだつてふんばるよ。貧乏は惨めぢやない。貧乏を苦にするのが惨めなんだ。

表で「御免」といふ男の声。

保根ともえ子は顔を見合はせる。

保根  来たよ。もえ子  どうする。保根  さう云へばいゝぢやないか。もえ子  なんて……?保根  面倒臭いから、上げちまはう。

もえ子、玄関に出る。

野見  おれが追払つてやる。大将、おれには変に好意をもつてるんだよ。

もえ子の「どうぞ、お上り下さい、そこではなんでございますから……」といふ声。

やがて、もえ子に続いて、丸地が現はれる。

保根  さあ、どうぞ……。野見  御無沙汰致してます。丸地  いや、こちらこそ……。お隣に住んでゐて、来にくくなるやうぢや困りますよ。こつちぢや、なんとも思つてないんだが、そつちで変な気持がなさるだらうと思つて、つい遠慮してしまふもんだから……。もえ子  (座蒲団をすすめ)お敷き下さい。野見  僕の方だつて、なんとも思つてやしませんよ。毎日、新聞を拝見に行きたいと思つてるんですが、何時のぞいて見ても、読んでらつしやる時なもんだから……。丸地  新聞でも見てなきや、日が暮せませんからな。これでも、小遣がちつと自由になる頃は、家でぶらぶらしてたことなんかないんですがね。野見  大分発展されたつていふ話ですなあ。丸地  大分といふこともないが……誰にお聞きです。野見  此の界隈ぢや、みんな知つてますよ。毎年一軒づつ借家を売つて、それで新橋柳橋と飲み歩いた大家さんは、さう幾人もありませんからね。丸地  全く幾人もない。それでもうあと売る家と云へば、この家が一軒きりです。野見  当分売らないで下さいよ。売るなら、借家人ともといふことに願ひたいですなあ。丸地  御尤も……。それについて御相談ですがね。当分売らないことにしますから、家賃だけ、少し、入れて下さいよ。六箇月までは黙つてようと思ひましたが、先月で八箇月溜りましたからな。野見  それくらゐなんでもないぢやありませんか。丸地  いや、さうは行かん。泣きごとを云ふやうだが、収入のあてと云へば、今、これだけです。少しばかりもつてゐた書画骨董を、ぼつぼつ手放して食つてゐるわけですが、佐々木文山が当節、二十円といふ相場ですからな。野見  もつと気の利いたものがあるでせう。丸地  それや、ないことはない。抱一の梅をもつてますがね。これが、足許を見られると、相手は、百とつけて来ませんよ。野見  百円ですか。丸地  百円と云へば、此の家賃四月分に足りません。野見  そいつを売つて、もう四月我慢して下さい。丸地  我慢はいくらでもする。保根さんは、わたしも信用してる方だ。しかし、物には際限といふものがありますよ。野見  後に僕が控へてゐてもですか。丸地  あなたが控へてゐるから、なほ、わたしは心配だ。事情はよく知りませんが、家内なんかの話によると、風呂銭まで保根さんがもつてるつていふぢやありませんか。野見  保根君と僕とは無二の親友ですよ。お互に困つてる時は助け合ふことになつてる。保根君が困つた時には僕がどうかするし、僕が困つた時は、保根君が引受けるといふわけです。ところが、僕の方が先に困つた。それで、保根君のところへころがり込んだ。すると、保根君が、今度は、困り出した。しかし、僕もやつぱり困つてゐる。かうなれば、二人で、困りつくらをするより、しかたがないことになる。現にそれをやつてる。どつちか、先へ困らなくなつた方が損をするだけです。丸地  なるほど、それも親友の一種ですかな。してみると、わたしなんか、まだ当分は親友の必要なしですよ。ところで、どうでせう、保根さん、さう黙つてないで、なんとか返事をして下さいな。無理なことは云はない。できるだけ都合して下さい。二月分でも、三月分でもよろしい。あとは急ぎません。保根  なんとかします。そのうちに、きつとなんとかします。丸地  それですよ。保根さん、さうおつしやられると、なんにも云へなくなるんですよ……。苦しいのはお互ですからなあ。よろしい、待ちませう。もう一と月待ちませう。なんとかして下さい。親友なみに、なんとかして下さい。家内には内証ですが、わたし、近頃、そこへ出来た、カフエー・ドン・フアンと云ふのにちよいちよい行くんでしてね。茶屋酒の代りにウヰスキイを一杯引つかけに行く。キング・オブ・キングスつてやつが、あれや五十銭ですか。あれをせめて、一週に一度は……(茶を運んで来たもえ子に)や、奥さん、どうかわるくお思ひにならないやうに……。決して催促に押しかけたわけぢやないんです。お隣同志に住んで、顔をそむけ合ふなんていふのは、全く、世の終りですからな。もえ子  ほんたうにお恥しい話で……。丸地  いや、いや、それがいかん。兎に角、此の家へ見えてから、最初の一と月だけは、きちんきちんと頂いたものです。その翌月は、丁寧に来月一緒にといふお断りがあつた。翌々月は、月末が過ぎてから、道でお遇ひした時、やはり、来月はきつとといふわけで、それもなんでもなかつた。その翌月からですよ。月末は勿論、月の半ばになつても、音沙汰がない。それから、とうとうお眼にかかる機会もなかつたわけですが、こつちは、なに、家賃そのものよりも、家を貸して恨まれたんぢや引合はんですからな。そんなわけで、今日は幸ひ天気もよし、一応御諒解を得かたがた伺つたやうな次第です。家内も、奥さんのことでは、蔭ながら、御同情申上げてゐます。どうぞ、ちと、お話しにいらつしつて下さい。もえ子  ほんとに、さうおつしやつていただきますと、なほ面目ございませんわ。丸地  そんなら、もうこんなことは云ひますまい。わたしはね、保根さんも好きだが、此の野見さんといふ方が、どうも好きでしてね。野見  僕も小父さんが好きですよ。他人のやうな気がしないんだ。丸地  いや、他人は他人で結構ですがね、だが、同じ好きでも、遊ぶのにいゝ友達だといふ気がする。一緒に苦労はしたくない。野見  僕もさういふ気がしますよ。第一、そんな爺さんと苦労をして見たつて、はじまらない。

此の時、表で、「電報」といふ声。

もえ子が走つて出る。――「えゝ、さうです、うちです」といふもえ子の返事が聞える。

やがて、もえ子が、電報をもつて来て、それを野見に渡す。

野見  (受取りながら)僕に……なんだ、これや、電報為替だ。

一同の視線が野見の手に集る。

野見  (中を開き)誰だらう……。

長い沈黙。

野見  ああ、さうか。わかつた。僕、一寸、郵便局へ行つて来る。えゝと、今、三時だね。よしツ!

野見は、勢よく起ち上つて、机の抽斗から蟇口を取り出し、表に飛び出ようとする。

丸地  ぢや、わたしも失礼します(起ち上る)保根  (機弾のやうに起ち上り)野見、一寸待てツ!野見  なんだ(かう云つて、次の間に立ち止る)保根  あのね……(と云ひながら、野見のそばに近づき、何か小声で囁く)野見  あゝ、わかつた。わかつた。さうするよ。無論、そのつもりさ。

話がすむと、野見は、表へ走り出る。

丸地  一寸、一寸、野見さん、わたしも郵便局に用がある。一緒にお伴しませう。(さう叫びつゝ、挨拶もそこそこ、表へ飛び出す)

保根ともえ子は、唖然として、突つ起つたまゝ、顔を見合はせてゐる。

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