一
「親分、向うの角を左へ曲りましたぜ」
「よしツ、手前は此處で見張れ、俺は向うへ廻つて、逆に引返して來る」
平次とガラツ八は、近頃江戸中を荒し廻る怪盜、――世間で『千里の虎』と言ふのを、小石川金杉水道町の路地に追ひ込んだのです。
「合點だツ、親分、八五郎が關を据ゑりや、辨慶が夫婦連れで來ても通すこつちやねえ」
ガラツ八の八五郎は、懷から手拭を出すと、キリキリと撚を掛けて居ります。
まだ薄寒い二月の眞夜中、追ふ方から言へば、意地が惡く月も星も見えませんが、曇つて居るだけに、物の隈が濃くないのは、逃げる者に取つては案外樂でないかもわかりません。
「無駄を言はずに要心しろ、此處へ追ひ込めば袋の鼠だ。手前か俺が縮尻らなきア、逃げられる場所ぢやねえ」
平次はさう言ひ乍ら、引返して逆に、右手の路地を入つて行きます。言はゞ蹄鐵形の長い路地を、一方の口にはガラツ八が頑張り、一方の口からは平次が入つて行つたのですから、左右の町家の何れかへ飛込むより外に道は無い筈です。
「あツ」
路地へ入つた時、平次は思はず聲を出しました。向うから飛んで來た曲者の姿が、チラリと平次の眼に入つたと思ふと、蹄鐵形の路地の頂點あたりで、掻き消すやうに消えて無くなつたのです。
平次は其儘駈け續けました。
「あツ、親分」
「なんだ、八か」
「曲者の姿が此邊で見えなくなりましたぜ」
「お前もさう思ふか」
「路地へ消えたか大地に潜つたか、兎に角引返さないことだけは確かで」
關所に頑張らずに曲者の後を追つたのは八五郎の出過ぎですが、其代り、曲者の消えた場所を二人の眼で、左右から正確に見定めることの出來たのは怪我の功名でもありました。
「左側だ、――其邊に人間の潜るやうな穴は無いか」
「穴はねえが、木戸が一つありますよ」
「押して見ろ」
「開きませんよ」
「どれ」
近づいた平次、粗末な三尺の木戸を押して見ましたが、中から棧がおりて居ると見えて、力づくでは開きさうもありません。
「乘越して見ませう」
ガラツ八は木戸へ這ひ上ると、思ひの外身輕に越して、向う側からガチ/\やつて居ります。
「何うした、手間がとれるぢやないか」
「輪鍵が外れませんよ」
「逃げ道に輪鍵は念入りだね」
漸く押し開けて入つた時は、目の及ぶ限り、曲者どころか野良犬の影も見えません。
「違やしませんか、親分」
「確かに此處に追ひ込んだのは、『千里の虎』だ。間違ひはねえ。針が落ちたほどの足音を聞き付けて、お前を犬つころ投げにして逃げた曲者ぢやないか。その上祥雲寺門前から此處まで、蜘蛛手の細い路地を拾つてあんな具合に飛んで來るのは、『千里の虎』で無きア梟だ」
二人はそんな事を言ひ乍ら、薄明りの中に奧まで見通しのきく、袋路地へ入つて行きました。
袋路地と言つたところで、一方は寺の高い塀、一方は押し潰したやうな三軒長屋が一と棟、幅一間ばかりの路地の行止りには隣町の大きい家の裏木戸が一つ、こいつは雇人の夜遊びを嫌つてか、内からも出られないやうに、形ばかりですが錆び付いた中形の海老錠がおりて居ります。
「八、變な路地だねえ、お前此處は始めてかい」
「知つてますよ親分、これは名題の庚申横町ぢやありませんか」
「はてね」
「小石川の庚申横町て言や知らない者はありやしません」
「俺は知らないよ。お猿の石碑でもあるのかい」
「三軒長屋の取つ付きが按摩の竹の市で、その隣は女が美い癖に、無口で不愛嬌で、町内の嫌はれ者になつて居るお妾のお糸、一番奧が空き家で――」
「それぢや、見ざる、言はざる丈けぢやないか」
「突き當りが、俳諧の宗匠で其月堂鶯谷の裏口、俳諧はからつ下手だ相ですが、金があるのと、聾なのでその仲間では有名ですよ」
「成程それが、聞かざるか。三猿揃つて庚申横町は洒落たものだな。誰がそんな名を附けたんだ」
「あつしぢやありません」
「當り前だ、そんな洒落た智惠がありや、世間樣が岡つ引なんかにして置くものか」
「まるで叱られて居るやうだ、――ところで親分、一軒々々叩き起して見ませうか」
ガラツ八はさう言ひ乍ら、一番手近にある、按摩の竹の市の表戸を叩きました。が、もう彼れこれ丑刻、容易のことでは起きさうもありません。