
円城塔 · Japanese
No translation yet. Request one to move it up the queue.
円城塔 · Japanese
Full text
Original (Japanese)
伊賀に生まれた。
ついては、三重県産ということになるかもしれない。もっとも、生まれたときにはまだ県というものはなかった。
その頃、人類はまだ遠くアフリカ大陸にあった。人類とはいえ「ようやく樹から降りてきた」というくらいのところであって、また樹上に戻ったりした。いわゆるホモ・サピエンスまでは遠く、極東よりもはるかである。
恐竜はさすがに絶滅している。数千万年前の生き物であり、さすがに実見したことはない。
魚はいた。鳥もいたとしておく。色とりどりの羽を広げて群れをなし、湖から魚をさらうくらいのことがなければ飽きる。ネズミみたいな奴輩もいたとしておく。象についてはどうしたものか。やはり、人と同じ頃にやってきたものだとしたい。どうも昔の人間たちはそれほど積極的に象を狩ったりはしなかったようであるのだが、ここはやはり、象を追ってきたということにしておく。それはおおよそ四万年前あたりのことになり、わたしの誕生から百万年単位の時間が経過してからのできごとである。わたしが成人してからでさえ、数十万年が経っていた。
ひょっとすると山や海と同じくらいの寿命があると思われたりもするのだが、湖にも寿命はあって、しかもそう長くない。数万年存在し続けることができたら長寿の方に分類される。心静かに考えてもらうとわかるが、湖とはなにかのためらいのようなものである。ふとした拍子に干上がったり、下流へと押し流されてしまったりする。やせ細れば川と区別がつかなくなり、太っている間は一応、湖ということでいられる。自らの運ぶ堆積物に埋まってしまうこともよく起こる。
不思議と、四百万年以上を生き続けてきた。ここ最近は琵琶湖という名で売り出している。自分でつけたわけではないが、気に入っている。琵琶とは、わたしのもとへと降り立った神が携えてきた楽器の名である。
人類の到達する以前のこの列島に神が暮らしていたのか否かについては、いた、としたところでそれほどの文句も出まいと思う。神とはあくまでも、人のあとにようやく生まれ出てくるものではないかと迫られたならそんな気もする。しかしまあ、神が人をつくったという方がとりあえずの落ち着きはよく、人が一旦神をつくってから、その神に人をつくらせたとかいう話になると因果が入り組む。ここでの神はなにか他の言葉、法則とか道理とか想像のなせるわざとかなんでも好きに呼んでもらって構わない。
ふと、旅に出てみる気になった。
切っ掛けはおそらく、こうして語りはじめてしまったためだ。口を開くのが許されるなら、歩き出したくもなろうものだ。
湖だからといって、ひなたぼっこに日を送るべしという法もない。こう見えて、思い立ったらすぐ行動に移す性格である。ふだん、万年単位でじりじり移動しているからといって、素早く動けないわけではないのだ。
それでも、てくてく歩いていくのは捗らないから、まずは電車に乗ることにした。車やバスではやはり、湖を運ぶ馬力が足りない。このあたりから乗るとするなら、関西本線、伊賀上野駅ということになる。笠置に向かうという手も考えたが、桜の季節にはまだ早く、とりあえず東へ向かうことにする。
切符を買った。湖にはとりあえず、様々な人が落としていった持ち合わせがある。駅員はちょっと目を大きくしたが、
「お久しぶりですね」
と静かに挨拶してくれた。
こちらはあちらを知らないが、あちらはこちらを知っているらしく、わたしはこうして琵琶湖であるから、それには特に不思議はなかった。
かつて、富士山とつきあっていた頃は、しばしば汽車を利用した。こちらがあちらに出向いたり、あちらがこちらへきたりした。どうしたって目立つから、頻繁な行き来はできなかったし、二人でなにをしているのか、いちいち動物たちに筒抜けなのもつらかった。世間には、富士山とわたしが別れた原因は、わたしが淡路島と浮気したからなのだと賢しらげに吹聴する輩がいるのだが、どちらとも、今でも良好な関係を保っている。ただ、互いに行き来するような熱情はとうに冷えてしまっている。この頃は富士も噴火しなくなったのだときく。
長い時の流れの中では、そういうこともあるというだけの話だ。形がうまく合わなくなったり、体積の不一致が行き違いを生み、誤解が広がることが起こって、それもまた時が解決する。山容が少しずつ綻びていき、島が波に削られて消えていくように。湖が堆積物によってゆるやかに窒息していくように。想い出の場所が丸ごと消えてしまったり、目印がなくなってどこだったのかわからなくなることも起こる。
関西本線は今や、ただ一両の電車がとことこと走るだけの路線である。小走りのロバあたりを思わせる。山がちの地形の中に敷かれた線路の上を、ちょっとしたお使いを頼まれたように走っていく。柘植まで乗って、なぜか伊勢湾と懇ろになることがなかったわたしは、草津線へと乗り換えて北へと進むことにするのだ。
草津線もこのあたりではあまり本数がない。ちょっとどこかへ寄ろうかという考えが頭をよぎらぬでもなかったが、電車の時間を考えると億劫になりやめてしまった。湖の頭がどこかという話題は深く追求しないでおく。
柘植を出て少しすると三重県が果て滋賀県となり、甲賀へ入る。駅の名前はコウガではなくコウカとよむ。甲賀コーラはコウガ・コーラではなくコウカ・コーラということになる。できれば駅のひとつひとつで下りてみたいところながら、電車のこの頻度では、待ち時間がやはりつらいのだ。
草津線を北へと進んでいくにつれ、人家の間が段々狭くなりはじめ、貴生川駅が近づく頃には、街に流れる時間の質が変化してくる。草津方面への電車の数が増えるせいもあるのだろうし、貴生川から信楽高原鐵道への接続があるのも大きいだろう。
御存知の通り信楽は、狸の置物で有名なのだが、わたしに言わせればつい最近の流行である。元々このあたりには、紫香楽宮という宮が置かれた。聖武天皇の時代のことである。実態についてはよくわからない。なぜこのあたりに宮を置こうとしたのか様々な推測があるのだが、どれも当たってはいない。わたしに訊いてくれれば、かつて見たままを語るにやぶさかではないが、現代の草津線の乗客の中に、わたしの正体を見抜き、古代史についての知識を求める者はいなかった。
わたしとしても自分の知る「真実」により人間の編み上げている歴史に修正を迫るつもりはないのであって、やろうとしても面倒なことにしかならないだろう。わたしが琵琶湖であることはおそらく誰にでもわかる。実はバイカル湖なのだったみたいな入れ替えトリックを考える必要などはない。ただ、わたしの記憶が確かかどうかは、やはり検討される必要がある。わたしは織田信長の死の真相や、明智光秀の死の真相なども知ってはいるが、それが作り話ではないという証拠はない。実は証拠はあるのだが、どこのポケットにしまったのか忘れてしまって、とうの昔に蝦や蟹がおもちゃにして失くしてしまった可能性もある。
まあ人は、湖の語りなどには耳を傾けず、ただ地味な調査を続けて、声は自分で出すがよいのだ。
電車の窓から野洲川が見えるようになってくると不思議と、ああ帰ってきたという心持ちとなってくる。日に焼け、細かな傷だらけの草津線の窓ガラスから、都市の姿は煙って見える。
旅先がむしろ故郷に思えてくる。
あてどなくはじめた旅がこうして何百万年を経て終わりを迎えようとしているのがわかる。
草津の駅で琵琶湖線に乗り換え、これは本能的に西へ向かった。何も考えずとも体が勝手に動いていく。
昔々、近江国、三井寺の僧である興義は絵の技量によって知られた。特に鯉の絵に巧みであってまるで生きているかのようである。
あるとき興義は仮死状態へ陥り、気がつくと琵琶湖を泳ぐ鯉になっていた。心躍らせ琵琶湖を周回、名所を順に泳ぎ巡った。最後は釣り人の手に落ちて、まな板の上で裂かれようとしたところで蘇生した。
今のわたしの心境も、湖の中に自らを発見した興義と似ている。山がちだった風景は広い空に置き換えられて、彩雲などがなびいており、それは神の衣である。
電車の窓の向こうに湖面が現れ、わたしは思わず声を漏らす。琵琶湖だ、ああ琵琶湖だと、琵琶湖であるわたしは思う。わたしの体は電車の窓を通り抜けて走り出し、一心に湖へ向かっていく。ためらわずにそのまま、琵琶湖の中に飛び込む。バス釣り人がこちらを指さし、湖岸で何かを叫んでいる。
興義はその死に臨み、鯉の絵を湖に放している。鯉はその描写から離れ、そのまま泳いでいってしまった。
あるいは琵琶湖は北上していく過程で信楽の地に「形になるものなら何でもつくることができる」とされる、キメの細かい粘土を残した。実のところ、長い時間をかけて湖底に積もった細かな土はこうして、ありえぬものさえ平気でつくりだすことができるのである。〈了〉
●図書カード

Translation status
WaitingLog in to request a translation.
Frequently asked questions
Yes — completely free. This book is in the public domain, so Pagera offers the full text without payment or account requirement. Pagera is funded by advertising.
Free to read
Start reading immediately — no signup required. Create a free account for more books and features.