毘沙門の名号に就いて
南方熊楠
クベラ、又クピラが毘沙門天の異名なる由は、佛教大辭彙卷一倶肥羅天の條既に述べある。 熊楠謂く、此二名が一神を指すを立證するに最もよき文句は、梁朝に勅撰された經律異相卷四一に羅閲城人民請佛經から引た者だ。佛が鷄頭婆羅門の供養を許した時、釋提桓因(帝釋)語テ二沙門天王ニ一曰ク、拘※羅(クベラ)汝此婆羅門辨ゼヨ二第三食ヲ一、答テ曰ク受クレ教ヲとある。クベラは實名、
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南方熊楠
クベラ、又クピラが毘沙門天の異名なる由は、佛教大辭彙卷一倶肥羅天の條既に述べある。 熊楠謂く、此二名が一神を指すを立證するに最もよき文句は、梁朝に勅撰された經律異相卷四一に羅閲城人民請佛經から引た者だ。佛が鷄頭婆羅門の供養を許した時、釋提桓因(帝釋)語テ二沙門天王ニ一曰ク、拘※羅(クベラ)汝此婆羅門辨ゼヨ二第三食ヲ一、答テ曰ク受クレ教ヲとある。クベラは實名、
槙村浩
これやこの毛利孟夫 山間の獄にペンを撫し 戦いに病める君が身を養わんと 函数を釣り 積分にゆあみし ひねもす 土地と資本の 数字と 符号の 時空における 不統一の空隙を逍遥する 君のマルキシズムは かゝる隙間を埋むるに足れりど なお詩もて愛すべき膠着剤とせよ ●図書カード
宮本百合子
毛の指環 宮本百合子 その家は夏だけ開いた。 冬から春へかけて永い間、そこは北の田舎で特別その数ヵ月は歩調遅く過ぎるのだが、家は裏も表も雨戸を閉めきりだ。屋根に突出した煙の出ぬ細い黒い煙突を打って初冬の霰が降る。積った正月の雪が、竹藪の竹を重く辷って崩れ落ちる。その音を聴く者も閉めた家の中にはいない。煤で光るの下に大きな炉が一つ切ってあって、その炉の灰ばかり
仲村渠
氏は書を能くし発句や謡をたしなみ 就中 たいてい柔道二段ぐらゐの腕まへあり氏は毎朝 東天遙拝 のちラヂオ体操たのまれて話の屑籠なども執筆なさるのだ氏は 氏の一挙手一投足は逸話となつて細大洩らさず新聞などに珍重され氏の巾広い声量は氏の身代のやうに潤沢たとへば除幕式などに周知の風采をあらはして一言もつて祝辞などを述べ給ふ ●図書カード
中谷宇吉郎
ハーバード大学の極東美術の主任教授に、エリセーフ氏という人がある。東大の文学部卒業、国文学を専攻したという変った学者で、その頃漱石のお弟子の一人であった。 若い頃は、小宮(豊隆)さんなどの悪友仲間だったそうで、小宮さんからもぜひ訪ねるようにすすめられた。私も二十年前に、パリのサツマ会館の管理者としてのエリセーフ氏を知っていたので、今度の渡米には、久しぶりの邂
坂口安吾
ラムネ氏のこと 坂口安吾 上 小林秀雄と島木健作が小田原へ鮎釣りに来て、三好達治の家で鮎を肴に食事のうち、談たま/\ラムネに及んで、ラムネの玉がチョロ/\と吹きあげられて蓋になるのを発明した奴が、あれ一つ発明したゞけで往生を遂げてしまつたとすれば、をかしな奴だと小林が言ふ。 すると三好が居ずまひを正して我々を見渡しながら、ラムネの玉を発明した人の名前は分つて
岸田国士
アナウンサーの紹介につづいて、別のアナウンサーの声で――――只今から、ガンバハル氏の「精神と電気」といふ御講演がございます。ガンバハル氏の声――ええ、わたくしは、只今御紹介にあづかりましたガンバハルと申すものであります。生れは多分アフガニスタンあたりだと思ひますが、早く両親を失ひ、物心のつきます頃は、もう、ポートセードの船著場で、靴磨きをしてをりました。 と
堀辰雄
或る夜、或る酒場から一人の青年がふらふらしながら出て來た。彼は非常に泥醉してゐるやうに見えた。タクシイ! と彼は聲高に叫んだ。 一臺の汚らしいタクシイが止つた。彼はふらふらしながらそれへ乘つた。車はがたがた走り出した。それをちやうど巡中の巡査がやや離れた所から見てゐたのであつた。車が走り去つてしまふと、その跡に手帳のやうなものが落ちてゐるのを巡査は認めた。青
片山広子
今から何十年も前のことである。L氏殺人事件といふ騒ぎが麻布の或る女学校に起つて世間をおどろかした。私はまだ十三か十四の少女でその女学校の寄宿生であつた。ちやうどイースタアのお休み中で、寄宿生徒で東京に家のあるものはみんな帰つてゐて、学校は大へん静かな時だつた。 その学校は丘の下の平地に建つてゐて、門を入ると右手に生徒の出入口があり、教室がいくつも続いて、二階
松永延造
ラ氏の笛 松永延造 一 横浜外人居留地の近くに生れ、又、其処で成育した事が何よりの理由となって、私は支那人、印度人、時には埃及人などとさえ、深い友誼を取り交した経験を持っている。そして彼れ等の一人一人が私に示した幾つかの逸事は、何れも温い記憶となって、今尚お私の胸底に生き残り、為す事もない病臥の身(それが現在に於ける私の運命)へ向って、限りない慰めの源を提供
織田作之助
民主主義 織田作之助 彼は人気者になら誰とでも会いたがった。しかし、人気者は誰も彼に会おうとしなかった。いうまでもなく彼は一介の無名の市井人だった。 野坂参三なら既にして人気者であり、民主主義の本尊だから、誰とでも会うだろう。彼はわざわざ上京して共産党の本部を訪問した。ところが、党員が出て来ていうのには、 「野坂氏は多忙で誰とも会いません。用件は私が伺いまし
折口信夫
日本青年館の長い履歴の間に、人は、その多くのよい成績をあげるであらう。だが若し、曾て数年間連続して春秋毎に催した郷土舞踊・民謡の会をあげることを忘れたら、私など、その人の採点法を大いに疑ふだらう。日本青年館本来の目的から派生した枝葉の事業ではあつたらうけれど、あの為事などは、かう言ふ団体でさうしさうで居て、かう言ふ団体が、さうしないで過すやうな種類のものであ
新渡戸稲造
右に述べた歴史の長短と聯想されて起る問題は大和民族の立場である。我々が新聞や演説に常に天孫民族ということを聞くは、あたかも排外的米人がアングロ・サクソン民族とかノールディックとかを振りまわすように、耳ざわりとなるほど多いのである。果して大和民族という純粋な民族があったかすら未だ判然せぬ。かく呼び做す如き民族は政治上の目的のために作った一種の仮装談であるならば
折口信夫
斎藤さんの文学や、学問に理会のおそかったことが、私一代の後悔でもあり、遺憾でもある。勿論今の人たちのうちでは、私などが最長い愛読者であるには間違いない。ただその研究・作物を愛する道を知ることの遅れたことが、どんなに私の損失になっているかわからない。作家から言っても、千樫・赤彦と移って、其後、斎藤さんの具有する諸相を理会する時が、やっと到ったのである。それだけ
中谷宇吉郎
もう四年前のことになるが、考えて見れば、寺田先生の亡くなられた年の夏のことである。 先生の最後の随筆集『蛍光板』を貰って、ひとわたりずっと読んで行ったところが、「冬夜の田園詩」という短い文章のところで、私は妙に底知れぬしみじみとした感じにうたれたことがあった。 それは三頁にも足らぬ短いものではあったが、その中に先生の幼かった頃の土佐の民族詩的情景が、いかにも
中井正一
生物が生きているというしるしは、それが自分の中の古いもの、疲れたものを間断なく棄てて、日に新たに日に日に新たに、その生きている汁液をめぐらしているというところにある。 出版とは、民族の思想を、常に新たに、世界の進みゆく情況に応じて、清新の気を民族自身にあたえる機関である。 文字がまだなかった時代から、文字が出来、書くことを知り、それが活字となることができたと
小川未明
ミレーの絵を見た人は、心ある者であったならば、誰しも涙ぐましさを感ずるであろう。ミレーは貧しい人間の生活をほんとうに見ているように思われます。貧しいといって、それは、田舎の百姓の生活であり、また、無産者である多数民衆の生活であります。 邪念なく労働に服する人、無心に地の上で遊んでいる子供、そして、其処に生きているには変りのない、人間も、小羊も、また鶏に至るま
宮本百合子
気になったこと 宮本百合子 二月号をひっくりかえして見ていて気になったことお耳にいれます。(一)カットがまことに少く淋しいこと。(二)題がどれも原形で文学にまでなっていない題であることなどです。これは次号予告を見ても強く感じました。文学雑誌(ほかの)は書く人も文学の空気を考えてつけるのでしょうからわたしたちの雑誌にもやっぱりわたしたちの文学としての文学性のあ
小川未明
雪の降らない、暖かな南の方の港町でありました。 ある日のこと、一人の娘は、その町の中を、あちらこちらと歩いていました。しばらく避寒に、こちらへやってきていたのですけれど、あまり日数もたちましたので、お父さんにつれられて、また北の方の故郷へ帰ろうとしました。その前日のこと、娘は、つぎには、いつくるかわからない、このなつかしい町の有り様をよく見ておこうと、こうし
高村光太郎
気仙沼 高村光太郎 女川から気仙沼へ行く気で午後三時の船に乗る。軍港の候補地だといふ女川湾の平和な、澄んだ海を飛びかふ海猫の群団が、網をふせた漁場のまはりにたかり、あの甘つたれた猫そつくりの声で鳴きかはしてゐる風景は珍重に値する。湾外の出嶋の瀬戸にかかるとそこらの小嶋が海猫の群居でまつ白だ。此鳥の蕃殖地としては青森県の蕪嶋が名高いが、此の辺にもこんなに沢山棲
坂口安吾
気候と郷愁 坂口安吾 私は越後の新潟市に生れたが、新潟市に限らず、雪国の町は非常に暗い、秋がきて時雨が落葉を叩きはじめる頃から長い冬が漸く終つて春が訪れるまで、太陽を見ることが殆んど稀にしかない。冬の暗澹たる気候には発狂しさうな焦燥を感じて私は弱つたものである。直接の気候以上にやりきれないのは、人間が気候の影響を受け易く、自分の性格や物の見方感じ方に間接の気
福沢諭吉
左の一編は十一月一日、慶應義塾先進の故老生が懐旧会とて芝紅葉館に集会のとき、福澤先生の演説したるものなり。 老生の演べんとする所は、慶應義塾の由来に就き、言少しく自負に似て俗に云う手前味噌の嫌なきに非ざれども、事実は座中諸君の記憶に存する通り聊も違うことなく、且つ今夕は内輪の会合にして他に憚る所もあらざれば、過ぎし昔の物語も吾々には自から一入の興味あるべし。
宮沢賢治
気のいい火山弾 宮沢賢治 ある死火山のすそ野のかしはの木のかげに、「ベゴ」といふあだ名の大きな黒い石が、永いことじぃっと座ってゐました。 「ベゴ」と云ふ名は、その辺の草の中にあちこち散らばった、稜のあるあまり大きくない黒い石どもが、つけたのでした。ほかに、立派な、本たうの名前もあったのでしたが、「ベゴ」石もそれを知りませんでした。 ベゴ石は、稜がなくて、丁度
宮沢賢治
気のいい火山弾 宮沢賢治 ある死火山のすそ野のかしわの木のかげに、「ベゴ」というあだ名の大きな黒い石が、永いことじぃっと座っていました。 「ベゴ」と云う名は、その辺の草の中にあちこち散らばった、稜のあるあまり大きくない黒い石どもが、つけたのでした。ほかに、立派な、本とうの名前もあったのでしたが、「ベゴ」石もそれを知りませんでした。 ベゴ石は、稜がなくて、丁度