私の歩んだ道
蜷川新
私は、明治六年に生まれた。そうして七日ののちに、父をうしなった。私は、父親を知らない人間である。 私は、駿河の国(静岡県)の海岸の袖師で生まれた。興津の隣り村である。私は生まれてまもなく、母にいだかれて東京に移った。母の生家は、徳川時代から神田明神下にあった。母の実父、すなわち私の祖父は、播州(兵庫県)林田の旧藩主であったが、まだ生きていたのであった。母は、
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蜷川新
私は、明治六年に生まれた。そうして七日ののちに、父をうしなった。私は、父親を知らない人間である。 私は、駿河の国(静岡県)の海岸の袖師で生まれた。興津の隣り村である。私は生まれてまもなく、母にいだかれて東京に移った。母の生家は、徳川時代から神田明神下にあった。母の実父、すなわち私の祖父は、播州(兵庫県)林田の旧藩主であったが、まだ生きていたのであった。母は、
平林初之輔
私がこれから話すことは、全部正真正銘の事実である。ただ色々な都合で固有名詞だけは、抹消したり、変改したりしたが、事実そのものには一点一画も私は修正を加えなかった。 本文で私となっているのは、私にこの原稿を送ってくれた船井君のことである。私は最初三人称でこの物語をはじめようと思ったが、本人自身の筆で語らせた方が効果的だと思ったので最初の形式をすっかり保存して、
今野大力
そこにこうかつな野郎がいる そこにあいつの縄工場がある 縄工場で私の母は働いていた 私の母はその工場で 十三年 漆黒い髪を真白にし 真赤な血潮を枯らしちまった 私の母はそれでも子供を生んだ 私達の兄弟は肉付が悪くって蒼白い 私達は神経質でよく喧嘩をした 私達は小心者でよく睦み合った 私達の兄弟は痩せこけた母を中心に鬼ごっこをした 母は私達を決して追わない 母
堺利彦
私の母 堺利彦 私の母、名は琴、志津野氏、父より二つの年下で、父に取っては後添えであった。父の初めの妻は小石氏で、私の長兄平太郎を残して死んだ。そのあとに私の母が来て、私の次兄乙槌と私とを生んだ。私の母が私を生んだのが四十二歳の時、兄を生んだのが三十八歳の時だったはずだから、思うに、母は三十六、七歳の時、堺家にとついだものだろう。 かように母はずいぶんの晩婚
小野佐世男
私の洋画経歴 小野佐世男 幼少七歳の頃なりし、ジゴマなる探偵映画当時は活動大写真を見て、動く写真と、その白いコルセットのスカートをながくひきずる令嬢がすごい顔をした大悪漢に、いまやあわやという大危険に小さな心臓を震るわし本気になって心配をし、ニック・カーターという名探偵が現われてこれを救うという大スリルに心を踊らしたのが、そもそも泰西活動大写真を見た最初であ
坂口安吾
私はいつも神様の国へ行こうとしながら地獄の門を潜ってしまう人間だ。ともかく私は始めから地獄の門をめざして出掛ける時でも、神様の国へ行こうということを忘れたことのない甘ったるい人間だった。私は結局地獄というものに戦慄したためしはなく、馬鹿のようにたわいもなく落付いていられるくせに、神様の国を忘れることが出来ないという人間だ。私は必ず、今に何かにひどい目にヤッツ
坂口安吾
私はいつも神様の国へ行かうとしながら地獄の門を潜つてしまふ人間だ。ともかく私は始めから地獄の門をめざして出掛ける時でも、神様の国へ行かうといふことを忘れたことのない甘つたるい人間だつた。私は結局地獄といふものに戦慄したためしはなく、馬鹿のやうにたわいもなく落付いてゐられるくせに、神様の国を忘れることが出来ないといふ人間だ。私は必ず、今に何かにひどい目にヤッツ
岸田国士
私の演劇論について 岸田國士 私は所謂演劇学者ではない。しかし、私は私流の演劇論をもつてゐる。旧著「我等の劇場」は、その一端を示すものであるが、あの一巻に収めた極く断片的な文章が、一部の読者に多少の誤解を招いたとすれば、それは私の心外とするところである。 今日まで私の眼に触れたものは、大体二種の問題に係つてゐる。 第一は、私が演劇の本質を「白」即ち「言葉」に
堺利彦
私の父 堺利彦 私の覚えている父は既に五十であった。髪の毛などは既にやや薄くなっていたように思う。「何さよ気分に変りは無いのじゃがなア」などと、若やいだようなことを言うていることもあったが、何しろ私の目には既に老人であった。名は堺得司。 父の顔にはかなり多く疱瘡の跡があった。いわゆるジャモクエであった。しかしその顔立ちは尋常で、むしろ品のよい方であった。体格
佐藤春夫
これは本当の話なのだが、あまり奇体な話なので、人が本当にしてくれるか知ら。何にせよ、本当の話なのだ。これが本当の話だということは私の故郷(紀州新宮)の人たちがよく知っている。 それは、私が十ぐらいのころのことだから、今から二十年も昔のことである。――その頃では未だ、今では人が見向きもしない自転車というものが、今の自動車ぐらいに珍重されていた。殊に大都会からか
中谷宇吉郎
私の郷里は、片山津という、加賀の温泉地である。今は加賀市になって、国際観光ホテルもあり、近くに立派なゴルフ場もある。まるで昔日の面影はない。しかし私が生まれた頃は、北陸の片田舎の小さい部落であった。村ともいえないところで、本当の地名は、作見村字片山津小字砂走である。村の下の字、そのまた下の小字であるから、部落の大きさの見当はつくであろう。五十年の間に、小字か
種田山頭火
私の生活 種田山頭火 あんまり早く起きたところで仕方がないから、それに今でもよく徹夜するほど夜更しをする性分の私だから、自分ながら感心するほど悠然として朝寝をする。といっても此頃で八時九時には起きる。起きる直ぐ、新聞を丸めた上へ木炭を載せかけた七輪を煽ぎ立てる。米を洗う、味噌を摺る。冬の水は冷たい、だから肉体労働をしたことのない私の手はヒビだらけだ。ドテラ姿
種田山頭火
私の生活(二) 種田山頭火 御飯ができ、お汁ができて、そして薬缶を沸くようにしておいて、私は湯屋へ出かける。朝湯は今の私に与えられているゼイタクの一つである、私は悠々として、そして黙々として朝湯を享楽する(朝湯については別に扉の言葉として書く)。過現未一切の私が熱い湯の中に融けてしまう快さ、とだけ書いておく。 湯から帰ると、手製の郵便受函に投げ込まれてある郵
岸田国士
『私の生活技術』の跋 岸田國士 現代の日本人は正しい「生活観」をもつてゐないといふことが、いろいろの場合に証明できるのであるが、それと同時に、広い意味における「生活の技術」を何時の間にか失つて、非常にギゴチない、国民としてはある意味で可なり損な「生活のし方」をしてゐる事実を誰も否定できないと思ふ。多くの人はその原因がどこにあるかも気がつかずに、たゞ、世間とは
今野大力
私の病室は十三号の乙 寝台は三つ 満員 二人は施療で私は有料 一人は堅山と三十越えた男 三年全くこのベットにへばって暮し るいれきで首の周囲は膿の出た跡赤い肉が盛り上って 此頃も両脇の下から膿がしきりに流れている 肺の方も相当の進行している その咳こむ凄さは恐ろしい 俳句を毎日作っている も一人は鈴木二十二歳 堅山にこの小僧ッ子は生意気だと 泣きながら散々の
坂口安吾
私の碁 坂口安吾 塩入三段と岩谷社長とフラリときて挑戦するのを迎えうって、僕が塩入三段に勝った。これを雑誌にのせるという、まことに醜態で、恥を天下にさらす、あさましい話である。 私があんまり布石にヘタクソで、二十目ちかいダンゴ石が出来上った始末だから、塩入三段も驚いた様子で、あんまり勝っちゃ気の毒だと気を許したところをツケこんで向う脛を払ったような碁だから、
久米正雄
私の社交ダンス 久米正雄 確かジムバリストの演奏会が在つた日の事だつたと思ふ。午後四時頃、それが済んで、帝劇を出た時は、まだ白くぼやけたやうな日が、快い柔かな光で、お濠の松の上に懸つてゐた。 音楽の技巧的鑑賞には盲目だが、何となしに酔はされた感激から、急にまだ日の暮れぬ街路へ放たれた心持は、鳥渡持つて行きどころがない感じだつた。「さて、どうしようか。」と、僕
土田耕平
私は、幼いころのお父さん、お母さん、おばあさんの思ひ出は、はつきりしてをります中に、おぢいさんといふ人を少しも知りません。おぢいさんとはいつても、まだ四十二で亡くなつたのですから、私の生れるずつと先のことです。 このおぢいさんは、大そうえらい人だつたと、私の子供のじぶん、誰彼にいひきかされました。 「なぜえらいのか。」 ときゝますと、 「大そう学問ができたか
沢田正二郎
戀は盲目だとか、昔からの諺である。相手が惚れた男なら、あばたもえくぼに見えるように、所詮、戀人は批評の外の存在である。私の「大菩薩峠」に對する氣持も、正直に言えばその通りで、全く批評を超えたものである。 がしかし、私がかほど戀する「机龍之助」とは、原作者がいうところの机龍之助とは違うかも知れない。 或は小説が「大菩薩峠」の作者には思いも及ばない龍之助であるか
槙村浩
高い/\一万尺あまりもあらうといふ山の上に私は生れたのでした、或日一人の金持らしい人が登ってまゐりまして私や私の仲間を見て「惜しいものだ、りっぱな紙に成るのに」といはれました。私は別に気にも止めないで居ましたら四五日して大勢の人が私等のそばへやってまいりました。それから私等はりっぱな食物をいたゞく様に成りました。いく月もたった後一人の人がやってまゐりまして「
夏目漱石
私の経過した学生時代 夏目漱石 一 私の学生時代を回顧して見ると、殆んど勉強という勉強はせずに過した方である。従ってこれに関して読者諸君を益するような斬新な勉強法もなければ、面白い材料も持たぬが、自身の教訓の為め、つまり這麼不勉強者は、斯ういう結果になるという戒を、思い出したまま述べて見よう。 私は東京で生れ、東京で育てられた、謂わば純粋の江戸ッ子である。明
田山花袋
若い人達のためには、私は第一に勉強することを勧める。しかし勉強と言つても書くことばかりではない。読書すること、見学すること、論議すること、すべてそれを指して言つてゐるのである。若い頃にはいくらあせつても、実人生のことには容易に本当に触れ得るものではないのである。父母兄弟、叔父伯母、さういふものの中にその一部を発見するにはしても、十分にそれを理解することは出来
宮城道雄
私の若い頃 宮城道雄 私は七八歳の頃、まだ眼が少し見えていたが、その頃何よりもつらく感じた事は、春が来て四月になると、親戚の子や、近所の子が小学校へ上ることで、私も行きたいが眼が癒らない。親達は気やすめに、学校用品を一揃い買ってくれたが、私はその鞄をかけて、学校へ行く真似をして一人で遊んでいた。眼を本につけるようにして、字を教えて貰ったこともあった。またおば
太宰治
最初の創作集は「晩年」でした。昭和十一年に、砂子屋書房から出ました。初版は、五百部ぐらゐだつたでせうか。はつきり覺えてゐません。その次が「虚構の彷徨」で新潮社。それから、版畫莊文庫の「二十世紀旗手」これは絶版になつたやうです。 しばらく休んで、一昨年あたりから多くなりました。紙の質も、惡くなりました。一昨年は、竹村書房から「愛と美について」砂子屋書房から「女