童話に対する所見
小川未明
今日世間では頻りに文化的ということを言っている。しかしそれは単に趣味の上で洗練されたことを言っているのだろう。今日の社会に於いて教養とか、或いは趣味とか、或いは人格の洗練とかいうことは、凡そ何を標準として言うのであるか。それは窮極の生活に於いて、気持ちのよい生活をするということにすぎない。言葉を換うれば今日の文化はそのまま肯定して、今日の文明に適当した生活を
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小川未明
今日世間では頻りに文化的ということを言っている。しかしそれは単に趣味の上で洗練されたことを言っているのだろう。今日の社会に於いて教養とか、或いは趣味とか、或いは人格の洗練とかいうことは、凡そ何を標準として言うのであるか。それは窮極の生活に於いて、気持ちのよい生活をするということにすぎない。言葉を換うれば今日の文化はそのまま肯定して、今日の文明に適当した生活を
萩原朔太郎
童話と教育について 萩原朔太郎 近頃の子供たちの悦ぶ童話は、昔とすつかりちがつたといふ説がある。今の時代の子供たちは、もはや昔の子供のやうに、フアンタスチツクで荒唐無稽のお伽話――森の妖精の話や、魔法使の話や、赤頭巾の話や、鉛の兵隊の話や、親指太郎の話や、ピノチヨの話や、惡魔が人間に化けた話や――などを悦ばないといふのである。ずつと幼い幼兒は別として、少し歳
小川未明
自由性を多分に持つものは、芸術であります。こう書くべきものだとか、こう書かなければならぬとかいうことは定っていません。いま、私は、自分の書く時の態度について、語りたいと思います。 かりに、書くかわりに、語るとして、童話について考えて見ます。私が、何か子供達に向ってお話をするとしたら、まず、それがどんな子供達であるかを知ろうとするでしょう。次に、いくつ位である
新美南吉
童話における物語性の喪失 新美南吉 放送局がラジオ小説を募集するとき次のような条件をつける。一、三十分で完結するもの。一、登場人物は×名位が好都合である。一、明朗健全にして、国民性をよく発揚しているものたること。そしてこれは辞ってはないが、芸術的にすぐれた作品でなければならぬことは勿論である。これらの諸条件を聞かされると、人は、それに一々適った作品を書くこと
小川未明
籠の中で産まれた小鳥は、曾て広い世界を知らず、森の中や、林の中に、自分等の友達の住んでいることを知りませんから、外を恋しがらないかというに、そうでありません。やはり、少しの隙間があったら、窮屈な籠の中から逃け出して何処へか飛んで行こうと考えています。 この草木の少ない都会に産まれて、其処で大きくなった子供のことを考えると、私は何となく息詰まるような酷たらしさ
金田鬼一
『グリム童話』は児童の世界の聖典である。『グリム童話』は「久遠の若さ」に生きる人間の心の糧である。『グリム童話集』を移植するのは、わが国民に世界最良書の一つを提供することである。 グリムの「児童および家庭お伽噺」は、いずれ劣らぬ二人兄弟のドイツの大学者、ヤーコップ・ルードヴィヒ・グリム(一七八五―一八六三年)とウィルヘルム・カール・グリム(一七八六―一八五九
槙本楠郎
無論、「煽×、宣×、組織の言葉」を標語とするプロレタリア詩の一分化であるから、當然プロレタリア童謠はプロレツト・カルトに役立つべきものである。しかし無論それは公式的、小兒病的に考へられてはならぬ。特に兒童を對象としての形象的表現による文化鬪爭乃至觀念鬪爭である塲合は。即ち「×の思想的政治的影響の確保、擴大」を直ちに×の掲ぐるスローガンの「國定教科書」風の解釋
豊島与志雄
童貞 豊島与志雄 ぼんやりしていた心地を、ふいに、見覚えのある町角から呼び醒されて、慌てて乗合自動車から飛び降りた。それから機械的に家の方へ急いだ。 胸の中が……身体中が、変にむず痒くって、息がつけなかった。頬辺から鼻のあたりに、こな白粉の香がこびりついていて、掌で……それからハンケチで、いくら拭いても取れなかった。拭けば拭くほど、ぷーんと匂ってきた。 嬉し
北条民雄
はかなくうら悲しい日が続く。万象を浮せる一切の光線は湿つて仄暗い。夕闇のやうに沈んだ少年の眼は空間にゆらぐ幽かな光線を視つめる。空気に映つた光線は静かに一つの映像を刻んで行く。光線は盛り上り広まり伸びて鮮明な像を少年の眼に映す。少年の眼はやがて閉されて心に映つた幻像の動きに見惚れる。じつと、じいつと視つめる少年の心が宙に浮き上つて空間をさまよふ。われを忘れん
堀辰雄
何か書きたいと思つて、いろいろ考へてゐるのだけれど、つい怠けて――怠けてゐるくらゐ僕の健康にいいことはないので――なかなか思ひ立つて書けないのです。まあ、一つ小説が書けたらその後で――と思つてゐるのだけれど、そいつが考へ出してからもう一年も立つてゐるのにまだ書き出せないのです。この頃は背水の陣をしくつもりでホテルに一部屋を借りて毎日通ひながら、終日閉ぢこもつ
久米正雄
競漕 久米正雄 一 毎年春季に開かれる大学の競漕会がもう一月と差し迫った時になって、文科の短艇部選手に急な欠員が生じた。五番を漕いでいた浅沼が他の選手と衝突して止めてしまったのである。艇長の責任がある窪田は困った。敵手の農科はことにメンバアが揃っていて、一カ月も前から法工医の三科をさえ凌ぐというような勢いである。翻って味方はと見ればせっかく揃えたクリュウがま
織田作之助
朝からどんより曇っていたが、雨にはならず、低い雲が陰気に垂れた競馬場を黒い秋風が黒く走っていた。午後になると急に暗さが増して行った。しぜん人も馬も重苦しい気持に沈んでしまいそうだったが、しかしふと通り魔が過ぎ去った跡のような虚しい慌しさにせき立てられるのは、こんな日は競走が荒れて大穴が出るからだろうか。晩秋の黄昏がはや忍び寄ったような翳の中を焦躁の色を帯びた
牧野信一
眠つても眠つても眠り足りないやうな果しもなくぼんやりした頭を醒すために私は、屡々いろいろな手段を講じる。 頭がぼんやりしてゐると私は、いつも飛んでもない失敗を繰り返す癖に怖れをもつてゐたからである。 「うんうん――と、はつきり点頭いてゐたから約束通り僕は今迄停車場で待つてゐたんですよ。がつかりしちやふな、ほんとうに未だ寝てゐるなんて酷いや!」 森だ! と私は
桂小南
競馬興行と競馬狂の話 初代 桂小南 スピードの世の中であります。此意味に於て、競馬は最も今日高速度的世相の推移を如実に表示するものであらうかと思はれます。私が年末、大の競馬狂として之に没頭しますのも、さうした点に興味を持つからでありますが、執着の結果は春秋の競馬シーズンを待ち兼ねてどうか是が同一の興趣と実感とを室内に於て味ふ工夫もがなと、好きには身を窶すで、
中谷宇吉郎
この頃はだいぶちがって來たが、つい最近までの日本では、外國映畫が高級で、日本映畫は卑俗なものと、きめてかかる習慣があったように思はれる。 新聞や雜誌に載る映畫評を見ていると、日本の映畫批評家は、たいへんな勉強家のようである。あまり聞いたこともないような俳優の名前が、一杯並べられ、それらの逸話のようなものまでが、詳しく書いてある。世界中の映畫のことは、樂屋裏の
国木田独歩
竹の木戸 国木田独歩 上 大庭真蔵という会社員は東京郊外に住んで京橋区辺の事務所に通っていたが、電車の停留所まで半里以上もあるのを、毎朝欠かさずテクテク歩いて運動にはちょうど可いと言っていた。温厚しい性質だから会社でも受が可かった。 家族は六十七八になる極く丈夫な老母、二十九になる細君、細君の妹のお清、七歳になる娘の礼ちゃんこれに五六年前から居るお徳という女
長谷川時雨
竹本綾之助 長谷川時雨 泰平三百年の徳川幕府の時代ほど、義理人情というものを道徳の第一においたことはない。忠の一字をおいては何事にも義理で処決した。武家にあっては武士道の義理、市井の人には世間の義理である。義理のためには親子の間の愛情も、恋人同士の迸しるような愛の奔流も抑圧してきた時代である。その人情の極致と破綻と、抑えつけられた胸の炎と、機微な、人間の道の
北原白秋
* あの第一回の烈震以来、その後千数百回の余震に、人人はどれだけ脅かされたか。 その初め、未だ曾て識らぬ稀有の地震に私たちは為すところをさへ知らなかつた。つくづくと思ふことは一大事処に際する、かねての精神の鍛練如何といふことである。 静観と沈勇、かうした心状に於て私たちは初めてまことの詩の道に立つことが出来るのである。 ああ、私の庭のあかい葉鶏頭は葉鶏頭とし
萩原朔太郎
病氣はげしくなり いよいよ哀しくなり 三日月空にくもり 病人の患部に竹が生え 肩にも生え 手にも生え 腰からしたにもそれが生え ゆびのさきから根がけぶり 根には纖毛がもえいで 血管の巣は身體いちめんなり ああ巣がしめやかにかすみかけ しぜんに哀しみふかくなりて憔悴れさせ 絹糸のごとく毛が光り ますます鋭どくして耐へられず つひにすつぱだかとなつてしまひ 竹の
中野鈴子
どのお菓子屋の店先もくじを当てる時のような人だかり 露店商人らは 飴市に限って軒を並べない 町の角 角に 雪があれば 雪の上 土が見えれば板を敷き 白木造りの大きな桶に 飴を山盛りにする 飴は大きな かたまり コハク色を帯びて 黒ゴマがふりかかっている 小さな城下町 小一里向こうに国境の山々がずっとつらなる 北陸の丸岡の町に 年に一度 飴市がたつ 二月はじめ
長塚節
○先生と自分との間柄は漸く三十三年からのことで極めてあつけないことであつた。それも自分がいつも京住まひで三日あげずに先生のもとへ往復が出來るならば格別であるが何をいふにも交通の不便な土地なので、割合に近い所であり乍ら思ふやうには訪問することも出來なかつた。併し年に四五回位は上京して時には一ヶ月も滯在したこともあつて、勿論その間といふものは殆んど隔日位に詰め掛
長塚節
○一日を隔てた三十日に二回目の訪問をした。先生の姿勢はいつもの通りであつた。その時自分は國元から持つて行つた丹波栗の二升ばかりを出すと、それはどうして保存して置くのかといふやうな問があつた。砂と交へて土中に埋めて置くといふやうなことを話すと、ウムと聞き取れない程にいはれて暫くは默して居られた。自分は丹波栗を先生に進めたといふことで咏んだ二三首の歌を見せ先生は
長塚節
○「歌よみに與ふる書」といふのは十回にわたつたのであつたが、自分にはいかにも愉快でたまらないので丁寧に切り拔いておいて頻りに人にも見せびらかした。偶々これに異議を挾むものでもあれば其人がいかにも惡らしくつて溜らぬ位であつた。その頃大分「日本」紙上の歌論は喧びすしかつたが、他の歌よみ專門の連中はうんだとも潰れたとも云はない。たまになぜ默つて居るのだと人から揶揄
太宰治
むかし湖南の何とやら郡邑に、魚容という名の貧書生がいた。どういうわけか、昔から書生は貧という事にきまっているようである。この魚容君など、氏育ち共に賤しくなく、眉目清秀、容姿また閑雅の趣きがあって、書を好むこと色を好むが如しとは言えないまでも、とにかく幼少の頃より神妙に学に志して、これぞという道にはずれた振舞いも無かった人であるが、どういうわけか、福運には恵ま