中国怪奇小説集 07 白猿伝・其他(唐)
岡本綺堂
第五の男は語る。 「唯今は『酉陽雑爼』と『宣室志』のお話がありました。そこで、わたくしには其の拾遺といったような意味で、唐代の怪談総まくりのようなものを話せという御注文ですが、これはなかなか大変でございます。とても短い時間に出来ることではありません。勿論、著名の物を少々ばかり紹介いたすに過ぎないと御承知ください。就きましては、まず『白猿伝』を申し上げます。こ
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岡本綺堂
第五の男は語る。 「唯今は『酉陽雑爼』と『宣室志』のお話がありました。そこで、わたくしには其の拾遺といったような意味で、唐代の怪談総まくりのようなものを話せという御注文ですが、これはなかなか大変でございます。とても短い時間に出来ることではありません。勿論、著名の物を少々ばかり紹介いたすに過ぎないと御承知ください。就きましては、まず『白猿伝』を申し上げます。こ
鈴木牧之
越後の国往古は出羽越中に距りし事国史に見ゆ。今は七郡を以て一国とす。東に岩船郡(古くは石に作る海による)蒲原郡(新潟の湊此郡に属す)西に魚沼郡(海に遠し)北に三嶋郡(海による)刈羽郡(海に近し)南に頸城郡(海に近き処もあり)古志郡(海に遠し)以上七郡也。城下は岩船郡に村上(内藤侯五万九千石ヨ)蒲原郡に柴田(溝口侯五万石)黒川(柳沢侯一万石陣営)三日市(柳沢弾
江見水蔭
――彌生式土器の貝塚?――特種の遺跡――新に又貝塚――樽貝塚――疑問の貝塚―― 望蜀生が採集から歸つて來た。それは三十六年十一月三十日の夕方。 何が有つたか。 這んなのが有りましたと出して見せるのは、彌生式土器の上部(第五圖參照)と破片澤山及び木の葉底である。別に貝塚土器の網代底一箇。 第五圖(武藏北加瀬) (彌生式土器上部) 『これは君、彌生式ぢやアないか
古川緑波
有楽座初日。 明治神宮から靖国神社へ廻り、参詣する。帰宅したのが午前二時、眼がさめたのは九時半。紋附を着、屠蘇・雑煮。清も元気。それから雑司ヶ谷の墓参、祖母上のところへ年始に寄る、今年九十五歳。一時すぎに有楽座へ。一座と有楽座の合同年始式で、舞台へ集まり、宮城遙拝、君ヶ代、神酒の乾杯、万歳三唱から愛国行進曲を合唱、散会。初日三時開演である。大入満員、補助椅子
宮本百合子
一月一日 〔豊島区西巣鴨一ノ三二七七巣鴨拘置所の宮本顕治宛 四谷区西信濃町慶応義塾大学病院内い号の下より(封書)〕 一月一日 第一信。 あけましてお目出とう。今年もまたいい一年を暮しましょうね。 ずっと順調で熱もきのうきょうは朝五・九分位、夜六・八どまりの有様です。このようになおりかかって来ると傷口の大小が決定的に影響して、一寸足らずの傷であるありがた味が
中里介山
一 内宮と外宮の間にあるから間の山というのであって、その山を切り拓いて道を作ったのは天正年間のことだそうであります。なお委しくいえば、伊勢音頭で名高い古市の尾上坂と宇治の浦田坂の間、俗に牛谷というところあたりが、いわゆる間の山なので、そこには見世物や芸人や乞食がたくさん群がって、参宮の客の財布をはたかせようと構えております。 伊勢の大神宮様は日本一の神様。畏
岡本綺堂
第四の男は語る。 「わたくしは『宣室志』のお話をいたします。この作者は唐の張読であります。張は字を聖朋といい、年十九にして進士に登第したという俊才で、官は尚書左丞にまで登りました。祖父の張薦も有名の人物で、張薦はかの『遊仙窟』や『朝野僉載』を書いた張文成の孫にあたるように聞いて居ります。 この書も早く渡来しましたので、わが国の小説や伝説に少なからざる影響をあ
江戸川乱歩
「で犯行の手掛は? 被害者の身許が分らないとすると、せめて、犯人の手口を示す、一寸した証拠でも残ってはいなかったかしら」 正岡警部が鎌倉署長の顔色を読むようにして尋ねた。というのは署長の困惑した表情の奥に、何だか妙なものが、一縷の希望みたいなものが感じられたからである。 「アア、その方の証拠なら、少しばかり蒐集してあるよ。第一にこれです」 署長は果して、待っ
永井荷風
間適の余生暦日なきこと山中に在るが如し。午後鷲津牧師来訪。この日風なく近年稀なる好き正月なり。されど年賀に行くべき処なければ、自炊の夕餉を終りて直に寝に就く。
江見水蔭
――一ヶ所で打石斧二百七十六――肩骨がメリ/\――這んな物を如何する――非常線――荏原郡縱斷―― 余の陳列所の雨垂れ落に積重ねてある打製石斧は、數へては見ぬが、先づ謙遜して六七千箇は有ると云はう。精密に計算したら、或は一萬に近いかも知れぬ。 これは地の理を得て居るから、斯う打石斧を多く集められたのである。玉川沿岸には打石斧が多い。其處の何處へ行くのにも余の宅
古川緑波
起床十二時。屠蘇・雑煮。母上・道子同道出かける。中野実出征留守宅へ「新婚二人三脚」の脚本料を届けに行く。それから雑司ヶ谷墓地に参り、三時に東宝グリルへ行く。一座の新年祝賀会である。座員一同揃ひ、君ヶ代を歌ふ。天皇陛下万才を三唱して、座へ出る。補助椅子も売り切れたさうで、去年より一層いゝ入りらしい。今年第一回の芝居が始まる。「松の一番」が、まづ受けた。二が「新
岩野泡鳴
お鳥は、兄のところを拔けて來る場合が見付かり難かつたとて、四日目にやつて來た。そして直ぐ入院した。持つて來た行李までも運び込まうとしたので、義雄は、 「荷物までも入院させるには及ぶまい」と云ふと、 「お前は信用でけんから、ね。」頸をつき出し、目を細く延ばした。 「もう、質屋へは入れないよ。」 「分るもんか。」 「けちな奴だ」とは云つて見たが、義雄はかの女の始
薄田泣菫
1・5(夕) 寺内内閣が壊れて、その跡へ政友会内閣が出来かゝるやうな運びになつて、総裁原敬氏の白髪頭のなかでは、内閣員の顔触が幾度か見え隠れしてゐた頃、今の文相中橋徳五郎氏の許へ、神戸にゐるお医者さんの桂田富士郎氏から一本の電報が飛込んで来た。 中橋氏は何気なく封を切つて見た。電報には、 「大臣になるなら文部ときめよ。」 と書いてあつた。中橋氏は二三度それを
下村湖人
ちゅんと雀が鳴いた。一声鳴いたきりあとはまたしんかんとなる。 これは毎朝のことである。 本田次郎は、この一週間ばかり、寒さにくちばしをしめつけられたような、そのひそやかな、いじらしい雀の一声がきこえて来ると、読書をやめ、そっと小窓のカーテンをあけて、硝子戸ごしに、そとをのぞいて見る習慣になっている。今朝はとくべつ早起きをして、もう一時間あまりも「歎異抄」の一
宮本百合子
〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕 第二信 きょうは風がきついけれどもいい天気。二三日あっちこっちしていて、こうやって机に向ってゆっくりこれを書くのがいい心持です。きのうはあれから気分でもわるくなりませんでしたか? 熱が出たりしなかったでしょうか。割合いい顔つきをしていらしたので安心です。 きのうお話した生活の変化のこと(自注1)について、もうすこしく
南方熊楠
隙行く駒の足早くて午の歳を迎うる今日明日となった。誠や十二支に配られた動物輩いずれ優劣あるべきでないが、附き添うた伝説の多寡に著しい逕庭あり。たとえば羊は今まで日本に多からぬもの故和製の羊譚はほとんど聞かず。猴の話は東洋に少なからねど、欧州に産せぬから彼方の古伝が乏しい。これに反し馬はアジアと欧州の原産、その弟ともいうべき驢はアフリカが本元で、それから世界中
押川春浪
海島冐檢奇譚 海底軍艦 押川春浪 はしがき 一。太平洋の波に浮べる、この船にも似たる我日本の國人は、今や徒らに、富士山の明麗なる風光にのみ恍惚たるべき時にはあらざるべし。 光譽ある桂の冠と、富と權力との優勝旗は、すでに陸を離れて、世界の海上に移されたり。 この冠を戴き、この優勝旗を握らむものは誰ぞ。 他なし、海の勇者なり。海の勇者は即ち世界の勇者たるべし。
岡本綺堂
第三の男は語る。 「唐代は詩文ともに最も隆昌をきわめ、支那においては空前絶後ともいうべき時代でありますから、小説伝奇その他の文学に関する有名の著作も甚だ多く、なにを紹介してよろしいか頗る選択に苦しむのでありますが、その中でわたくしは先ず『酉陽雑爼』のお話をすることに致します。これも『捜神記』と同様に、早くわが国に渡来して居りますので、その翻案がわが文学の上に
江見水蔭
―― ひ?――燒土層を成す――土器製造所か――土器の葢――貝塚曲玉の一種―― 馬籠の貝塚と根方の貝塚とは、池上街道を挾んで兩方に有る。併し、 概我々はそれを馬籠の名の下に一括して居る。別に理由は無いが、最初は根方の貝塚をも、馬籠だと信じて居たからで。地名表には根方を目方としてある爲に、他を探して居て、根方を過ぎながら、それとは知らなかつたのだ。 余の最初に
古川緑波
有楽座初日。 十時に起きる。雨の正月だ。入浴し、羽織袴でお屠蘇をのみ、雑煮を少々。親子夫婦揃っての正月は今年が始めて。一時半、母上・道子とも/″\雑司ヶ谷へ墓参。雑司ヶ谷祖母上のとこへお年始に行く。四時に東宝グリルへ。古川緑波一座の年始挨拶の会。一同揃ふと、君ヶ代を合唱し、僕が一言、「昨年中は諸君勉強が足りないと思ふ、今年はもっと/\勉強して貰ひたい。僕も倍
岩野泡鳴
今夜も必らず來るからと、今度はよく念を押して置いた。然し、餘り自分ばかりで行くのもかの女並びにその家へきまりが惡い樣だから、義雄は今一文なしで困つてゐる氷峰をつれて行つてやらうといふ氣になり、薄野からの歸り足をまた渠の下宿へ向けた。 いつもの通り、案内なしであがつて行き、氷峰の二階の室のふすまを明けると、渠とお鈴とがびツくりして、ひらき直つた。お鈴はまた裁縫
徳富蘇峰
余をして人情の重んずべきを知らしめ、己れを愛し、人を愛し、国を愛することを知らしめ、真理の線路を走り、正を踏んでおそれざることを知らしめたるは、みななんじの教育にこれよるなり。余がこの冊子を著述したるはまったくなんじの教育したるところのものを発揮したるなり。しかして、余が著述を世に公にするは、これをもって始めとなす。余はいささかこれをもってなんじの老境を慰し
井上哲次郎
一 理想主義者として つぎに、明治年間における自分の立場について、少しく話してみようと思うのであるが、だいたい自分は理想主義の側に立って絶えず唯物主義、功利主義、機械主義等の主張者とたたかってきたのである。もっとも激しくたたかった相手は加藤弘之博士であった。元良勇次郎は友人ではあったけれど、学説においてはしばしば衝突をきたしたのである。自分は明治十四年のはじ
石河幹明
一月一日の時事新報に瘠我慢の説を公にするや、同十三日の国民新聞にこれに対する評論を掲げたり。先生その大意を人より聞き余に謂て曰く、兼てより幕末外交の顛末を記載せんとして志を果さず、今評論の誤謬を正す為めその一端を語る可しとて、当時の事情を説くこと頗る詳なり。余すなわちその事実に拠り一文を草し、碩果生の名を以てこれを同二十五日の時事新報に掲載せり。実に先生発病