おさらい帳
小川未明
この夏のことでした。正ちゃんは毎日のようにもち棒を持って、お宮のけいだいへ、せみとりに出かけました。そのけいだいは、木立がたくさんあって、すずしい風が吹いていました。そして、雨のふる音のように、ジイジイせみがないていました。また、あぶらぜみがなき、午後からはひぐらしがないたのでありました。正ちゃんは日にやけた黒い顔をして、ごはんを食べるのも忘れて、あそびにむ
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小川未明
この夏のことでした。正ちゃんは毎日のようにもち棒を持って、お宮のけいだいへ、せみとりに出かけました。そのけいだいは、木立がたくさんあって、すずしい風が吹いていました。そして、雨のふる音のように、ジイジイせみがないていました。また、あぶらぜみがなき、午後からはひぐらしがないたのでありました。正ちゃんは日にやけた黒い顔をして、ごはんを食べるのも忘れて、あそびにむ
小川未明
天心に湧く雲程、不思議なものはない。 自分は、雲を見るのが、大好きだ。そして、それは、独り私ばかりでなく、誰でも感ずることであろうが、いまだ曾て、雲の形態について、何人も、これをあらかじめ知り得るものがないということだ。 時に、流れて、帯のように細くなり、そして、いつしか煙のように消えて、始めの形すらあとにとゞめない。時に、重々として、厚さを加え、やがては、
小泉八雲
昔、京都に近い愛宕山に、黙想と読経に余念のない高僧があった。住んでいた小さい寺は、どの村からも遠く離れていた、そんな淋しい処では誰かの世話がなくては日常の生活にも不自由するばかりであったろうが、信心深い田舎の人々が代る代るきまって毎月米や野菜を持ってきて、この高僧の生活をささえてくれた。 この善男善女のうちに猟師が一人いた、この男はこの山へ獲物をあさりにも度
豊島与志雄
常識 豊島与志雄 一 富永郁子よ、私は今や、あらゆるものから解き放された自由な自分の魂を感ずるから、凡てを語ろう。語ることは、あなたに別れを告げることに外ならない。別れを告げる時になってほんとに凡てを語る――これは人間の淋しさである。 あなたの生活について、行動について、私が最初に或る要求をもちだした日のことを、あなたは覚えているだろう。あの日の午後、私たち
萩原朔太郎
僕等の如き所謂詩人が、一般に缺乏してゐるものは「常識」である。この常識の缺乏から、僕等は常に小説家等に輕蔑される。それで僕等自身もまた、その缺點を自覺してゐることから、常に常識的なものに畏敬し、常識學の修養につとめて居る。 この意味から、僕は常に「文藝春秋」を愛讀してゐる。文藝春秋といふ雜誌は、文壇稀れに見る「頭腦の好い雜誌」であつて、編輯がキビキビとして居
萩原朔太郎
常識家の非常識 常識家の非常識 萩原朔太郎 僕等の如き所謂詩人が、一般に欠乏してゐるものは「常識」である。この常識の欠乏から、僕等は常に小説家等に軽蔑される。それで僕等自身もまた、その欠点を自覚してゐることから、常に常識的なものに畏敬し、常識学の修養につとめて居る。 この意味から、僕は常に「文藝春秋」を愛読してゐる。文藝春秋といふ雑誌は、文壇稀れに見る「頭脳
田中貢太郎
まだ横須賀行の汽車が電化しない時のことであった。夕方の六時四十分比、その汽車が田浦を発車したところで、帽子を冠らない蒼い顔をした水兵の一人が、影法師のようにふらふら二等車の方へ入って往った。 (またこの間の水兵か) それに気の注いた客は、数日前にもやはりそのあたりで、影法師のようなその水兵を見かけていた。その時二等車の方から列車ボーイが出て来た。 「君、この
スティーブンソンロバート・ルイス
十六歳まではある私立の學校で、それから後は英吉利がそのために有名になつてゐるある大きな學園の一つで、ハリー・ハートリー氏は、紳士としての普通の教育を受けた。その頃彼はもう勉強が厭でたまらなくなつてゐた樣子だつた。そして彼のたゞ一人の生き殘つてゐる親は、からだも弱く、頭もなかつたので、その後はつまらぬ、上品な遊藝の修業などに暇をつぶしても、別に故障を言ふものも
谷崎潤一郎
明治三十七年の春から、三十八年の秋へかけて、世界中を騒がせた日露戦争が漸くポウツマス条約に終りを告げ、国力発展の名の下に、いろいろの企業が続々と勃興して、新華族も出来れば成り金も出来るし、世間一帯が何となくお祭りのように景気附いて居た四十年の四月の半ば頃の事でした。 丁度向島の土手は、桜が満開で、青々と晴れ渡った麗らかな日曜日の午前中から、浅草行きの電車も蒸
岸田国士
幕が下りて 岸田國士 自分が芝居の実際方面に関係してから、まだ半年もたゝないのだが、その間に、色々の経験もなめた。理窟だけを並べてゐた時代には、そんなでもあるまいと思つてゐた劇壇の内情を見聞きするにつけて、私は、自分ながら、飛んでもない処へはまりこんだなといふ気がし出した。「血があれる」といふ言葉が本当によく当つてゐるやうな、さういふ雰囲気を感じ出した。かう
高村光雲
まず、いろいろの話をする前に、前提として私の父祖のこと、つまり、私の家のことを概略話します。 私の父は中島兼松といいました。その三代前は因州侯の藩中で中島重左エ門と名乗った男。悴に同苗長兵衛というものがあって、これが先代からの遺伝と申すか、大層美事な髯をもっておった人物であったから、世間から「髯の長兵衛」と綽名されていたという。その長兵衛の子の中島富五郎にな
高村光雲
これから私のことになる―― 私は、現今の下谷の北清島町に生まれました。嘉永五年二月十八日が誕生日です。 その頃は、随分辺鄙なむさくるしい土地であった。江戸下谷源空寺門前といった所で、大黒屋繁蔵というのが大屋さんであった。それで長屋建てで、俗にいう九尺二間、店賃が、よく覚えてはいないが、五百か六百……(九十六文が百、文久銭一つが四文、四文が二十四で九十六文、こ
高村光雲
町内に安床という床屋がありました。 それが私どもの行きつけの家であるから、私はお湯に這入って髪を結ってもらおうと、其所へ行った。 「おう、光坊か、お前、つい、この間頭を結ったんじゃないか。浅草の観音様へでも行くのか」 主人の安さんがいいますので、 「イエ、明日、私は奉公に行くんです」 と答えますと、 「そうかい。奉公に行くのかい。お前は幾齢になった」 などと
高村光雲
さて、いよいよ話が決まりましたその夜、父は私に向い、今日までは親の側にいて我儘は出来ても、明日からは他人の中に出ては、そんな事は出来ぬ。それから、お師匠様初め目上の人に対し、少しでも無礼のないよう心掛け、何事があっても皆自分が悪いと思え、申し訳や口返しをしてはならぬ。一度師の許へ行ったら、二度と帰ることは出来ぬ。もし帰れば足の骨をぶち折るからそう思うておれ。
高村光雲
床屋の話が出たついで故、ちょっと話しましょう。当時の髪結床は、今のように小ざっぱりしたものではなく、特にこういう源空寺門前といったような場末では、そりゃ、じじむさいものでした。 源空寺門前という一町内には、床屋が一軒、湯屋が一軒、そば屋が一軒というようにチャンと数が制限され、その町内の人がそのお華客で、何もかも一町内で事が運んだようなものであります。で、次の
高村光雲
そこで、これから師東雲先生の生い立ちを話します。 東雲師は元奥村藤次郎といった人で、前述の通り下谷北清島長(源空寺門前)の生まれである。その師匠が当時江戸で一、二を争うところの仏師高橋法眼鳳雲という有名な人でありますが、この人のことは別に改めて話すことにする。 東雲師の姓の奥村氏が後に至って高村となり、藤次郎が東雲と号したことについては所以のあることで、この
高村光雲
早速彫らされることになる―― この話はしにくい。が、まず大体を話すとすると、最初は「割り物」というものを稽古する。これはいろいろの紋様を平面の板に彫るので工字紋、麻の葉、七宝、雷紋のような模様を割り出して彫って行く。これは道具を切らすまでの手続き。それが満足に出来るようになると、今度は大黒の顔です。これがなかなか難儀であって、木の先へ大黒天の顔を彫って行くの
高村光雲
木寄せのことを、ざっと話して置きましょう。 仏師に附属した種々の職業が分業的になってある中に、木寄師もその一つであります。これは材料を彫刻家へ渡す前に、その寸法を彫刻家の注文通り断ち切る役なのです。 正式の寸法の割合として、たとえば坐像二尺の日蓮上人、一丈の仁王と木寄せをして仏師へ渡します。結局、仏師が彫るまでの献立をする役です。これは附属職業の中でも重要な
高村光雲
話が少し元へ返って、私の十二の時が文久三年、十三が確か元治元年の甲子年であった。この甲子年はめったには来ません。六十一年目に一度という……それでその時の甲子年には、大黒の信者はもとよりのこと、そうでないものでも、商売繁昌の神のこと故、尊信するもの甚だ多くして、大黒様をその年には沢山にこしらえました。 そして、その大黒さまを作る材であるが、それは、檜材である。
高村光雲
師匠東雲師の家が諏訪町へ引っ越して、三、四年も経つ中に、珍しかった硝子戸のようなものも、一般ではないが流行って来る。師匠の家でもそれが出来たりしました。障子の時は障子へ「大仏師高村東雲」など書いてあったもの。 仕事は店でやったものです。店には兄弟子、弟弟子と幾人かの弟子がいますが、その人々はただ腕次第、勉強次第でコツコツとやっている。別に現今のよう、その製作
高村光雲
私の十四歳の暮、すなわち慶応元年丑年の十二月十四日の夜の四ツ時(午後十時)浅草三軒町から出火して浅草一円を烏有に帰してしまいました。浅草始まっての大火で雷門もこの時に焼けてしまったのです。此所で話が前置きをして置いた浅草大火の件となるのですが、その前になお少し火事以前の雷門を中心としたその周囲の町並み、あるいは古舗、またはその頃の名物といったようなものを概略
高村光雲
雷門に接近した並木には、門に向って左側に「山屋」という有名な酒屋があった(麦酒、保命酒のような諸国の銘酒なども売っていた)。その隣りが遠山という薬種屋、その手前(南方へ)に二八そば(二八、十六文で普通のそば屋)ですが、名代の十一屋というのがある。それから駒形に接近した境界にこれも有名だった伊阪という金物屋がある(これは刃物が専門で、何時でも職人が多く買い物に
高村光雲
これから火事の話をします。 前に幾度かいった通り、慶応元年丑年十二月十四日の夜の四ツ時(私の十四の時)火事は浅草三軒町から出ました。 前述詳しく雷門を中心とした浅草一円の地理を話して置いたから大体見当は着くことではあるがこの三軒町は東本願寺寄りで、浅草の大通りからいえば、裏通りになっており、町並みは田原町、仲町、それから三軒町、……堀田原、森下となる。見当か
高村光雲
私は十四の子供で、さして役には立たぬ。大人でもこの猛火の中では働きようもない。私の師匠の東雲と、兄弟子の政吉と、私の父の兼松(父は師匠の家と私とを心配して真先に手伝いに来ていました)、それに私と四人は駒形堂の方から追われて例の万年屋の前へ持ち出した荷物を卸し、此所で、どうなることかと胸を轟かしている。火勢はいやが上に募って広小路をも一舐めにせん有様であります