銭形平次捕物控 260 女臼
野村胡堂
「親分、先刻から路地の中を、往つたり來たり、お百度を踏んでゐる女がありますが、ありや何でせう」 八五郎は自分の肩越しに、煙管の吸口で格子の外を指すのです。 「わけがあり相だな、お前に跟いて來た女馬ぢや無かつたのか、拂ふものは拂つて、早く歸した方が宜いぜ」 毎度のことで、錢形平次は驚く色もありません。 「冗談でせう、あつしは叔母の家から眞つ直ぐに來たばかりで、
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野村胡堂
「親分、先刻から路地の中を、往つたり來たり、お百度を踏んでゐる女がありますが、ありや何でせう」 八五郎は自分の肩越しに、煙管の吸口で格子の外を指すのです。 「わけがあり相だな、お前に跟いて來た女馬ぢや無かつたのか、拂ふものは拂つて、早く歸した方が宜いぜ」 毎度のことで、錢形平次は驚く色もありません。 「冗談でせう、あつしは叔母の家から眞つ直ぐに來たばかりで、
野村胡堂
増田屋金兵衞、その晩は明るい内から庭に縁臺を持出させ、九月十三夜の後の月を、たつた一人で眺めることにきめました。 金があつてしみつ垂れで、人づき合ひが嫌ひで、恐ろしく風流氣のある金兵衞は、八月十五日の名月も、この獨自のシステムで觀賞し、悉く良い心持になれたので、それを又くり返して、その頃嫌つた片月見にならぬやうにと、いとも經濟的な魂膽だつたに違ひありません。
野村胡堂
「親分の前だが、女日照の國には、いろんな怪物がゐるんですね」 八五郎がまた、親分の平次のところへ、世上の噂を持込んで來ました。江戸八百八町にバラ撒かれてゐる下つ引や手先から集まつた資料が、八五郎の口から、少しばかり誇張されたり潤色されたり、面白可笑しく編輯されて、平次の耳へ傳わつて來るのです。 「女旱魃の國てえのは何處だえ、――まさか傳馬町の大牢ぢやあるめえ
野村胡堂
「八、大層ソワ/\してゐるぢやないか」 錢形平次は煙草盆を引寄せて、食後の一服を樂しみ乍ら、柱に凭れたまゝ、入口の障子を開けて、眞つ暗な路地ばかり眺めてゐる、八五郎に聲を掛けました。 「今撞つた鐘は、戌刻(八時)でせう」 八五郎はでつかい指を、不器用に折り乍ら、相變らず外ばかり氣にして居るのです。 「それが何うしたんだ」 「五つまでには、來なきやならないんだ
野村胡堂
「親分、お早やう」 飛込んで來たのは、お玉ヶ池の玉吉といふ中年者の下つ引でした。八五郎を少し老けさせて、一とまはりボカしたやうな男、八五郎の長んがい顏に比べると、半分位しか無い、まん圓な顏が特色的でした。 「玉吉兄哥か、どうしたんだ、大層あわてゝ居るぢやないか」 明神下の平次の家、障子の隙間からヌツと出したのは、その八五郎の長んがい顎だつたのです。 「錢形の
野村胡堂
「いやもう、驚いたの驚かねえの」 八五郎がやつて來たのは、彼岸過ぎのある日の夕方、相變らず明神下の路地一パイに張り上げて、走りのニユースを響かせるのでした。 「何を騷ぐんだ、ドブ板の蔭から、でつかい蚯蚓でも這ひ出したといふのか」 平次は晝寢の枕にしてゐた、三世相大雜書を押し退けると、無精煙草の煙管を取上げます。 「そんな間拔けな大變ぢやありませんよ、いきなり
野村胡堂
本郷妻戀町の娘横丁、――この邊に良い娘が多いから土地の若い衆が斯んな名で呼びましたが、何時の間にやら痴漢が横行して、若い娘の御難が多く、娘受難横丁と言ふべきを省略して娘横丁と、其儘の名で呼び慣はしました。 其路地の眞ん中に、血だらけの男が一人、大の字になつて引つくり返つて居たのです。見付けたのは毎朝聖堂に通ふ、儒生の吾妻屋丹三郎、若旦那崩れで、身體が弱くて、
野村胡堂
「親分、あつしの身體が匂やしませんか」 ガラツ八の八五郎が、入つて來ると、いきなり妙なことを言ふのです。 九月のよく晴れた日の夕方、植木の世話も一段落で、錢形平次は暫らくの閑日月を、粉煙草をせゝりながら、享樂して居る時でした。 「さてね、お前には腋臭が無かつた筈だし、感心に汗臭くもないやうだ、臭いと言へばお互ひに貧乏臭いが――」 平次は鼻をクン/\させながら
野村胡堂
「親分變なことを訊くやうですがね」 ガラツ八の八五郎は、こんな調子できり出しました。櫻が散ると御用もひと休みで、久し振りで錢形平次は、粉煙草をせゝりながら、高慢らしい物の本などをひろげてゐたのです。 「お前の言ふことは大概變なことばかりだが、まさか――どうして新造には髭が生えないでせう――なんて話ぢやあるまいな」 「その新造なんですがね」 「それ見ろ。お前の
野村胡堂
「八、その十手を見せびらかすのを止してくれないか」 「へエ、斯うやりや宜いんでせう。人に見せないやうに」 親分の平次に言はれて、ガラツ八の八五郎はあわてゝ後ろ腰に差した十手を引つこ拔くと、少々衣紋の崩れた旅疲れの懷中にねぢ込むのです。 「だらしがねえなア、房が思はせ振りにハミ出して居る上に、十手の小尻が脇の下に突つ張つて居るぢやないか」 「へエ、まだいけませ
野村胡堂
「姐さん、谷中にお化けが出るんだが、こいつは初耳でせう」 松が取れたばかり、世界はまだ屠蘇臭いのに、空つ風に吹き寄せられたやうな恰好で、八五郎は庭木戸へ顎を載せるのでした。 「ま、八さん、お早やうございます」 お靜はそれでも、襷を外して、縁側の上から、尋常に挨拶するのでした。朝の仕事が濟んで掃除して居るところ、淡い陽射しが足もとを這ひ上つて寒々とした風情の中
野村胡堂
「世の中に、金持ほど馬鹿なものはありませんね」 「貧乏人は皆んな、そんな事を言ふよ、つまらねえ持句さ」 平次と八五郎は、相變らず空茶に馬糞煙草で、いつものやうな掛け合ひを始めて居ります。薄ら寒い二月の、ある朝の一と刻、八五郎の人生觀が、この不思議な事件へ錢形平次を追ひやる動機でした。 「金さへ無きや、こちとらのやうに呑氣に暮せるのに、苦勞して金を拵へて、今度
野村胡堂
「親分、この頃妙なものが流行るさうですね」 八五郎がそんな話を持込んで來たのは、三月半ばの、丁度花もおしまひになりかけた頃、浮かれ氣分の江戸の町人達も、どうやら落着きを取戻して、仕事と商賣に精を出さうと言つた、殊勝な心掛になりかけた時分でした。 「流行物と言へば、大道博奕に舟比丘尼、お前の頭のやうに髷節を無闇に右に曲げるのだつて流行物の一つらしいが、どうせろ
野村胡堂
「親分、世間はたうとう五月の節句となりましたね」 八五郎が感慨無量の聲を出すのです。 「世間と來たね、お前のところは、五月節句が素通りすることになつたのか」 平次は退屈さうでした。この十日ばかりは小泥棒と夫婦喧嘩位しか無く、平次の見張つて居る明神樣の氏子は申す迄もなく、江戸の下町一帶は、まことに平穩無事な日が續いて居りました。 「あつしも男の子でせう、それに
野村胡堂
「お早やうございます」 花は散つたが、まだ申分なく春らしい薄靄のかゝつた或朝、ガラツ八の八五郎は、これも存分に機嫌の良い顏を、明神下の平次の家へ持込んで來ました。 「大層寢起きが良いな、八。挨拶だつて尋常だし、月代だつて、當つたばかりぢやないか、何つかに結構な婿の口でもあつたのかえ」 平次は煎餅になつた座布團を滑らしてやつて、ぬるい茶を注いでやつたりするので
野村胡堂
「親分、良い陽氣ですね」 フラリとやつて來た八五郎は、襟の汗を拭いて、お先煙草を五六服、お茶をガブ呑みの、繼穗もないお世辭を言ふのでした。 「二三日見えなかつたが、何處へ行つて居たんだ」 錢形の平次も、この十日ばかりはまるつきり暇、植木の世話をしたり、物の本を讀み返したり蟻の行列を眺めたり、雲のたゝずまひを考へたり、まことに退屈な日を送つて居たのです。 「こ
野村胡堂
「親分、良い陽気ですね」 フラリとやって来た八五郎は、襟の汗を拭いて、お先煙草を五六服、お茶をガブ呑みの、継穂もないお世辞を言うのでした。 「二三日見えなかったが、どこへ行って居たんだ」 銭形の平次も、この十日ばかりはまるっきり暇、植木の世話をしたり、物の本を読み返したり蟻の行列を眺めたり、雲のたたずまいを考えたり、まことに退屈な日を送って居たのです。 「こ
野村胡堂
「へツへツ、親分、今晩は」 ガラツ八の八五郎、箍のはじけた桶のやうに手のつけやうの無い笑ひを湛へ乍ら、明神下の平次の家の格子を顎で――平次に言はせると――開けて入るのでした。それは兩の手で彌造を拵へて、格子をまともに開けられる筈はないからだといふのです。 五月のある日、爽やかな宵、八が來さうな晩でしたが、お仕着せの晩酌を絞つて、これから飯にしようといふ頃にな
野村胡堂
「親分の前だが、あつしも今度ばかりは、二本差が羨ましくなりましたよ」 ガラツ八の八五郎は、感にたへた聲を出すのでした。カラリと晴れた盆過ぎの或る日、平次は盛りを過ぎた朝顏の鉢の世話を燒き乍ら、それを手傳はうともせずに、縁側から無駄を言ふ、八五郎の相手をして居ります。 「おや、妙なことを言ふぢやないか、お前は武家と田螺和は大の嫌ひぢやなかつたのか」 さう言ふ平
野村胡堂
「羨ましい野郎があるもんですね、親分」 夏の夜の縁先、危い縁臺を持ち出して、蚊を叩き乍ら、八五郎は斯んなことを言ふのです。 「お前でも人を羨ましがることがあるのか、淺ましくなりやがつたな」 錢形平次は呑氣な心持ちで相手になつて居ります。八五郎が急に慾が出て、角の地面が欲しくなる氣遣ひは無いと、多寡をくゝつてゐる樣子です。 「相手は駒形の伊三郎の野郎ですがね」
野村胡堂
「親分、折入つてお願ひがあるんですが」 ガラツ八の八五郎は、柄にもなく膝小僧を揃へて、斯う肩を下げ乍ら、小笠原流の貧乏搖ぎをやつて見せるのでした。 「心得てゐるよ、言ひわけに及ぶものか、その代りたんとは無えが」 錢形平次は、後ろ斜めに、障子の隙間からお勝手を覗いて、其處で晩の仕度をしてゐる女房のお靜に、何やら合圖をするのです。 それを見ると、お靜は心得たもの
野村胡堂
「妙なことを頼まれましたよ、親分」 ガラツ八の八五郎、明神下の平次の家へ、手で格子戸を開けて――これは滅多にないことで、大概は足で開けるのですが――ニヤリニヤリと入つて來ました。 十月の素袷、平手で水つ洟を撫で上げ乍ら、突つかけ草履、前鼻緒がゆるんで、左の親指が少し蝮にはなつて居るものゝ、十手を後ろ腰に、刷毛先が乾の方を向いて、兎にも角にも、馬鹿な威勢です。
野村胡堂
「妙なことを頼まれましたよ、親分」 ガラッ八の八五郎、明神下の平次の家へ、手で格子戸を開けて――これは滅多にないことで、大概は足で開けるのですが――ニヤリニヤリと入って来ました。 十月の素袷、平手で水っ洟を撫で上げながら、突っかけ草履、前鼻緒がゆるんで、左の親指が少し蝮にはなっているものの、十手を後ろ腰に、刷毛先が乾の方を向いて、とにもかくにも、馬鹿な威勢で
野村胡堂
「親分、御存じでせうね、あの話を」 ガラツ八の八五郎が、獨り呑込みの話を持込んで來ました。 早咲の梅が、何處からともなく匂つて來る暖かい南縁、錢形平次は日向を樂しんで無精煙草にしてゐるところへ、八五郎がいつもの通り其日のニユースをかき集めて來たのです。 「藪から棒に、何を言ふんだ。江戸中の人間の借金を帳消しにする御布令でも出たといふのか」 「そんな事なら驚き