支那の孝道殊に法律上より観たる支那の孝道
桑原隲蔵
孝道は支那の國本で、又その國粹である。故に支那を對象とする研究には、先づその孝道を闡明理會せなければならぬ。既に米國の Headland も、孝道が支那人の家族的・社會的・宗教的乃至政治的生活の根據をなせる事實を牢記せねば、支那及び支那人の眞相は、到底理會することが出來ぬと明言して居る(Home Life in China. p. 154)。然るに近時我が國
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桑原隲蔵
孝道は支那の國本で、又その國粹である。故に支那を對象とする研究には、先づその孝道を闡明理會せなければならぬ。既に米國の Headland も、孝道が支那人の家族的・社會的・宗教的乃至政治的生活の根據をなせる事實を牢記せねば、支那及び支那人の眞相は、到底理會することが出來ぬと明言して居る(Home Life in China. p. 154)。然るに近時我が國
川端茅舎
夏の月 川端茅舎 一 水天宮様の真上の方に月があつて、甘酒屋から蛎浜橋までゆく横丁の片側を照らしてゐた。其頃は今より市中は電灯が暗くて月が大変に明るかつた。橋の近くの米屋と炭屋との電灯は特別に暗いもんで米屋の小僧と炭屋の小僧とは月の往来で遊んでゐた。月に照らされた米屋の小僧は白く炭屋の小僧は黒かつた。往来する人々も縁台に涼んでゐる人々も、月に照らされておの/
アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ
ずっと早く、まだ外が薄明るくもならないうちに、内じゅうが起きて明りを附けた。窓の外は、まだ青い夜の霧が立ち籠めている。その霧に、そろそろ近くなって来る朝の灰色の光が雑って来る。寒い。体じゅうが微かに顫える。目がいらいらする。無理に早く起された人の常として、ひどい不幸を抱いているような感じがする。 食堂では珈琲を煮ている。トンミイ、フレンチ君が、糊の附いた襟が
アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ
医学士ウラヂミル・イワノヰツチユ・ソロドフニコフは毎晩六時に、病用さへなければ、本町へ散歩に行くことにしてゐた。大抵本町で誰か知る人に逢つて、一しよに往つたり来たりして、それから倶楽部へ行つて、新聞を読んだり、玉を突いたりするのである。 然るに或日天気が悪かつた。早朝から濃い灰色の雲が空を蔽つてゐて、空気が湿つぽく、風が吹いてゐる。本町に出て見たが、巡査がぢ
アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ
窓の前には広い畑が見えてゐる。赤み掛かつた褐色と、緑と、黒との筋が並んで走つてゐて、ずつと遠い所になると、それが入り乱れて、しほらしい、にほやかな摸様のやうになつてゐる。この景色には多くの光と、空気と、際限のない遠さとがある。それでこれを見てゐると誰でも自分の狭い、小さい、重くろしい体が窮屈に思はれて来るのである。 医学士は窓に立つて、畑を眺めてゐて、「あれ
ドストエフスキーフィヨードル・ミハイロヴィチ
この手記の筆者も『手記』そのものもむろん、架空のものである。が、それにもかかわらず、かかる手記の作者のごとき人物は、わが社会全般を形成している諸条件を考慮にとり入れてみると、この社会に存し得るのみならず、むしろ存在するのが当然なくらいである。わたしはきわめて近き過去の時代に属する性格の一つを、普通よりも明瞭に、公衆の面前へ引きだしてみたかったのである。それは
ドストエフスキーフィヨードル・ミハイロヴィチ
夏が來たというのに、ヴェリチャーニノフは案に相違して、ペテルブルグに踏みとどまることになった。南ロシヤの旅行もおじゃんになったばかりか、事件はいつ片づくとも見えない始末だった。事件というのは領地に關する訴訟だったが、風向きはすこぶる思わしくなかった。つい三月ほど前までは、とても單純で、ほとんど議論の餘地もないものに見えていたのだったが、どうかした拍子にがらり
シュニッツレルアルツール
黄昏時がもう近くなった。マリイはろは台に腰を掛てから彼此半時ばかりになる。最初の内は本を読んでいたが、しまいにはフェリックスの来るはずの方角に向いて、並木の外れを見ていたのである。それが今立ち上がった。こんなに長く待たせられた事はない、陽気が少し冷たくなった。そのくせ空気にはまだなんとなく五月の末の和かみがある。 アウガルテンの公園には、もうたんと人がいない
上村松園
砧 上村松園 謡の「砧」に取材したものですが、章句の中には格別に時代が決定されていませんので、私の自由に徳川時代元禄から享保頃迄の人物にこれを表現してみました。最初は横物にして腰元の夕霧も描くつもりでしたが、寸法が制限されてますのでこの構図になりましたが縦七尺七寸、横四尺あります。 九州芦屋の里に家柄のある武士があり、訴訟事があって都に上ったが、かりそめの旅
上村松園
明治懐顧 上村松園 私が絵を習い始めた頃を想い出すと、まことに伸々として懐かしいものが、数々あります。その頃(明治二十一年頃)京都には鈴木百年、松年、幸野楳嶺、岸竹堂、今尾景年、森寛斎、森川曾文等諸先生の社中がありましたが、ここでは鈴木松年社中を例として述べてみたいと思います。 今日でいう画塾の研究会というのが、毎月十五日円山の牡丹畑で開かれました。その頃の
上村松園
舞じたく 上村松園 「舞じたく」は、平常から何かの折に一度描いて見たいと思つて居ましたが、九月十日祇園新地の歌蝶さんを訪ね大嘉の舞妓を紹介して貰ひ、二度ばかり写生して大急ぎで取掛りましたが、四人の人物を描くので大分手間取り、半月ばかりは毎夜一時間しか寝ません。昼夜兼行で七日の午後四時に漸く描き上げました位ですから、自分では何ができたか夢中でした。(談)(大正
上村松園
健康と仕事 上村松園 昨年の五月のこと所用のため上京して私は帝国ホテルにしばらく滞在した。上京する日まで私は不眠不休で仕事に没頭していたので、ホテルに落着いてからでも絵のことが頭の中に残っていて、自分では気づかなかったが、その時はかなりの疲労を来たしていたらしいのであった。らしい……と他人の体みたいに言うほど、元来私は自分のからだについては無関心で今まで来た
上村松園
京のその頃 上村松園 私は京の四条通りの、今、万養軒という洋食屋になってるところにあった家で生まれた。今でこそあの辺は京の真中になって賑やかなものだが、ようやく物心ついた頃のあの辺を思い出すと、ほとんど見当もつかない程の変りようだ。 東洞院と高倉との間、今取引所のあるところ、あすこは薩摩屋敷と言ったが、御維新の鉄砲焼の後、表通りには家が建て詰っても裏手はまだ
上村松園
絹と紙の話と師弟の間柄の話 上村松園 二、三年前竹杖会の研究会で年に二点は大小に拘わらず是非出品しなければいけないという規則が出来ましたので、いつぞや小品を一点持出したことがあります。ほんの小さな絵でしたがそれには土坡があって葦が生えているような図が描いてあったのです。ところがそれを見られて土田麦僊さんが不思議そうな顔付きで、この土坡の墨味がこういう風にムク
上村松園
九龍虫 上村松園 いつだったか歯をわるくしてお医者さんに行ったところ、そのお医者さんは見たところそれほど丈夫そうにもないのに、毎日のおびただしい患者を扱って少しも疲労を感じないと言う。 「何か秘訣でも?」 と訊ねると、 「大いにありますよ」 そう言ってお医者さんは南京虫のようなものがうじゃうじゃうごめいている小さな箱をみせてくれた。 九龍虫という虫で、なかな
上村松園
旧作 上村松園 ある人が、こんなことを言っていました。 先日文壇の大家の某氏にあったとき、談たまたま作品のことに及んだ折り、私はその作家の十五、六年前に問題になった小説のことを話題にして、 「こういう時局に、あの小説をお考え直しになると、あなたの作品中から抹殺したいお気持ちになりませんか」 ときいたところ、その大家は、 「とんでもない。あの作品は私の全作品中
上村松園
母への追慕 上村松園 父の顔を知らない私には、母は「母と父をかねた両親」であった。 私の母は二十六の若さで寡婦となった。 人一倍気性が強かった。強くなければ、私と私の姉の二児を抱いて独立してゆけなかったからである。 母の男勝りの気性は、多分に私のうちにも移っていた。 私もまた、世の荒浪と闘って独立してゆけたのは、母の男勝りの気性を身内に流れこましていたからな
宮本百合子
お久美さんと其の周囲 宮本百合子 一 月に一二度は欠かさず寄こすお久美さんの手紙は、いつもいつも辛そうな悲しい事許り知らせて来るので子は今度K村へ行ったら早速会って話もよく聞いて見なければと思って来は来たのだけれ共、其の人の世話になって居る家の主婦のお関を想うと行く足も渋って、待たれて居るのを知りながら一日一日と訪ねるのを延ばして居た。 書斎にしてある一番奥
宮本百合子
朝の話 宮本百合子 一、今年は珍しく豊年の秋ということで、粉ばかりの食卓にも一すじの明るさがあります。 一、けさも又早い時間にお話をすることになりました。が、この時間の放送に何か理屈っぽい、云ってみれば教養めいたお話をするということがいつもそぐわなく感じられます。 一、どんな方でも、朝おきてさてこれから一日の活動にとりかかろうと、その気持で食卓にも向い身じた
宮本百合子
今日の日本の文化問題 宮本百合子 序論 三つの段階 新聞・通信・ラジオ 出版 雑誌 書籍 教育 国字・国語 宗教 科学 文学 映画・演劇 音楽 舞踊 美術 スポーツ 文化組織 国際文化組織 序論 三つの段階 一九四五年八月十五日から今日まで二年数ヵ月の間に、日本が経験した社会生活と文化の変化は、歴史に未曾有なものであった。今日の日本の文化を語る時、私達はこの
宮本百合子
渋谷家の始祖 渋谷家の始祖 宮本百合子 一 正隆が、愈々(いよいよ)六月に農科大学を卒業して、帰京するという報知を受取った、佐々未亡人の悦びは、殆ど何人の想像をも、許さないほどのものであった。 当時六十歳だった彼女は、正隆からの手紙を読みおわると、まるで愛人の来訪でも知らされた少女のように、ポーッと頬を赧らめて、我知らず黒天鵞絨(ビロード)の座布団から立上っ
三上於菟吉
晩秋の晴れた一日が、いつか黄昏れて、ほんのりと空を染めていた夕映も、だんだんに淡れて行く頃だ。 浅草今戸の方から、駒形の、静かな町を、小刻みな足どりで、御蔵前の方へといそぐ、女形風俗の美しい青年――鬘下地に、紫の野郎帽子、襟や袖口に、赤いものを覗かせて、強い黒地の裾に、雪持の寒牡丹を、きっぱりと繍わせ、折鶴の紋のついた藤紫の羽織、雪駄をちゃらつかせて、供の男
正岡子規
○十年ほど前に僕は日本画崇拝者で西洋画排斥者であった。その頃為山君と邦画洋画優劣論をやったが僕はなかなか負けたつもりではなかった。最後に為山君が日本画の丸い波は海の波でないという事を説明し、次に日本画の横顔と西洋画の横顔とを並べ画いてその差違を説明せられた。さすがに強情な僕も全く素人であるだけにこの実地論を聞いて半ば驚き半ば感心した。殊に日本画の横顔には正面
正岡子規
○病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、それでも生きて居ればいひたい事はい